11日 月曜日

 高校卒業を控えた春先に、私は女の子に恋をした。


「キスゲームだあ?」

 少女、結衣は、茜音の意味不明な言葉をそのまま返した。茜音はにやりと笑って、お構いなしにルールを説明する。

「お互いにキスしあって恥ずかしがった人の負け! キスがヘタだと彼氏ができたときすっごい恥ずかしいと思うし、練習しよ!」

 放課後、三人以外は誰も居ない教室で、学生服姿の茜音は拳を握りしめていた。苦笑いを浮かべるしかない遙香の代わりに、結衣が呆れたようにつぶやいた。

「いくら橘が振り向いてくれないからって女に走るなよ」

「ち、違うよ! 別に橘くんのことは、その……」

 茜音の勢いは見事に失速した。茜音が男子生徒の橘が好きだということは、三人の間の公然の秘密となっている。


 私立越谷高校。

 ニュータウンのそばに新設された真新しい校舎の片隅で、放課後の時間を有意義に潰すのが遙香達三人の日課だった。それは、受験が終わって自由登校になっても変わらない。用もないのに学校へ来ては、放課後まで遊んでいた。


 結衣に図星を突かれ狼狽えていた茜音は、びしりと遙香を指さした。

「特に遙香ちゃんはモテるから、絶対練習しといたほうがいい!」

「わ、私……?」

 茜音は遙香に詰め寄り、胸元ほどの長さのある黒髪を弄んだ。つやがあり、さらさらの黒髪に大人びた顔立ち、そして大きな胸。それが大変男ウケするとかで、遙香はことあるごとに茜音の恨めしそうな言葉を浴びていた。

「遙香ちゃんがコクったら誰でも一発だって! 好きな人とか居ないの!?」

「好きな人かあ……」

 とはいえ、遙香に好きな男はいなかった。もとより、遙香には「好き」という感情の意味が分からなかった。少女達が恋し恋され、男女の仲を育んでいくのを遠巻きに眺めては、彼女ら「恋を知っている少女」をうらやましく思うだけ。

「ハル、好きな人は橘ってことにしとこうよ」

「橘くんはナシで! ていうか遙香ちゃんがライバルになったりしたら私絶対負けるじゃん!」

 恋を知り、「好き」の感情を知っている茜音がうらやましいけれど、勝つだの負けるだの面倒な恋の鞘当てにはいまいち興味が持てないでいた。

 支倉遙香、十八歳。高校生活の終了間際。


「でも、好きな人とするものでしょ、キスって。そういうのよく分からないかも……」

 恥じらいがちに答えた遙香に、茜音はまたしてもニヤリと笑った。

「大丈夫、女の子とのキスはノーカン! つーか友キスとか当たり前だよ?」

「ハルは聞いたことある?」

「ごめん、ないかも……」

「はー、処女はこれだから!」

「お前も処女だろ」

 これが遙香達の日常。あと数日すれば卒業になり、遙香は経済学部、結衣は教育学部、茜音は橘を追って工学部とそれぞれ別々の道を歩む。この三人でいられるのも、あとわずかしか残されていない。

「でも、友キスかあ」

「いいでしょ? 遙香ちゃん!」

 愛し合う男女がする愛情のキス。それとは違う、お遊びの友情のキス。

 遙香自身、男子との恋愛には興味があったし、男子から告白されて付き合ってはみたけれど、キスどころか「好き」の気持ちすら分からなかった。それよりも三人でバカ騒ぎをする方が遙香には楽しかった。

 その友情の記念になるなら悪くはない。女の子同士はノーカンだから、ファーストキスでもない。

「いいんじゃないかな。私はその……してもいいと思ってるよ?」

「さすが遙香ちゃん!」

「マジか……」

 三人の意見が割れた時は、多数決で決を採る。二対一で友キスが決まった。

「じゃ、まずは遙香ちゃんと結衣ちゃんね」

「えええっ!?」

 言い出しっぺの茜音は、二人にすべてをなすりつけて「キース! キース!」と囃し立てた。遙香も結衣も口をあんぐり開けて無言の抗議をするが、こうなってしまった茜音を止めることはできない。

「ほら、ぶちゅっとやっちゃおう!」

 遙香と結衣は顔を見合わせる。普段クールな結衣の顔がほのかに赤らんでいて、遙香もなんとなく恥ずかしくなる。

「いざやるとなると、緊張するな……」

「そうだね……」

 結衣は、遙香より先に目をつむった。

「あたし、目閉じてるから。ハル、頼む」

「ず、ずるいよ結衣ちゃん!?」

 目を閉じて、頬を赤らめた結衣の顔が目の前にある。普段の結衣からは想像もつかない表情で、遙香のキスを待っていた。

 遙香の心臓が、うるさいくらいに音を立て始めた。緊張する。

「うああ……」

 結衣の表情を見て、茜音も遙香と同じような感想を抱いたらしい。キスを囃し立てる手拍子はいつの間にかなくなって、遙香と結衣がどうなるのか、赤面しながら注目している。

「や、やっぱやめない? 茜音ちゃん……」

「だ、だめだめ! 友キスだよ!? 恥ずかしくなんてないって!」

 どうやら、キスしないと終わらないらしい。

 遙香は覚悟を決めて、結衣の頬を両手で固定した。そして少しずつ、顔を近づける。

 きめ細やかな結衣の肌が近づいてくる。閉じた瞼の端にある長いまつげの一本一本がよく見える。結衣の匂いと、吐息が感じられる。

 遙香の心臓は、痛いくらいに高鳴った。運動した直後のように早鐘を打つ心臓を、遙香は必死に抑えつける。これはあくまでも友達同士のキス。好きな人にする愛情のキスじゃない。

「結衣ちゃん、するよ?」

「ん」

 結衣は堅く瞼を閉ざしたまま、遙香を待っていた。

 結衣は震えている。それとも自身が震えているのか、遙香には分からなかった。

 結衣の吐息を唇に感じた。それを目印に唇を近づけていく。

 長い。わずかな距離なのに、あと少しが遠い。

 それでも遙香は、距離を少しでも詰めていく。

 もうすぐ、唇に当たる。

 3、2、1――


「きゃあ~ッ!!!」


 茜音の悲鳴の背後で、遙香の唇が結衣に触れた。お互いの柔らかい唇が触れ合わさって、不思議な感触だった。マシュマロが唇に押しつけられたような、きめ細やかなパフが触れたような、柔らかな衝撃。

 辞めどきが分からなくて唇を触れ合わせていると、結衣は遙香の肩を掴んでゆっくりと引き剥がした。

「はあ……緊張した……」

「あたしもだよ……」

 キスを終え、顔を見合わせた二人は笑う。結衣の顔から緊張の色が消えていくのを感じて、遙香もほっと息を撫で下ろした。

 だが、遙香の緊張は収まらない。キスしたことで余計に胸が苦しくなる。お腹のあたりに熱を感じて、視界がぼんやりと暗くなってくる。

 「じゃあ次は茜音、やるぞ!」「私もやるの!?」と結衣と茜音が構えた間も、遙香の症状は止まらない。動悸は高鳴り、体は熱くなり、肌がちくちくする。じっとりと汗が噴き出してきて、下着の中まで蒸れてくる。

 風邪でも引いたのか、と遙香は思った。結衣の風邪がキスでうつったのかもしれない。だが、キスされた直後の茜音を見ても、ただ顔が赤いだけでそんな様子はなかった。


 この不思議な感じは、一体なんなのだろう。

 結衣にキスした時、なぜ全身が熱くなったのだろう。


「は、遙香ちゃん! き、キスはもうやめよう!」

 茜音の顔は、結衣なんて目じゃないほど真っ赤に染まっていた。遙香もこれ以上キスをすると自分がどうなってしまうか分からなくて――

「う、うん! そうだね、やめよっか……!」

 と拒否する。すると、結衣が不満そうな声を上げた。

「あたしに二回させといてそっちは一回だけとか不公平だろ!?」

「だ、だって仕方ないじゃん! こんなにヤバいと思わなかったんだもん……!」


 ヤバい、という言葉が遙香の心に響き渡った。


「なんかすごく、イケないことしてる気になったし! 遊びのキスなんだよ!?」


 イケないこと、という言葉が遙香の心の中からなにかを引きずり出した。

 友達同士のキスは、普通のこと。だったら、イケないことの意味は――。


「なにが遊びだよ! 茜音、お前本当にヘタクソだし! 歯当たったし!」

「ヘタクソじゃないし! 遙香ちゃんよりは上手い自信あったし!」

「うるさいドヘタクソ処女! ハルの方が……その、気持ちよかったし……」


 なにかが遙香の中で爆発した。一瞬で頭の先からつま先まで、温かいやらくすぐったいやら、正体不明の感情が満ちていく。動悸は止まらず、視界はぼやけて、湯冷めでもしてしまったかのように体が熱くなる。


 そして、遙香はようやくこの感情の正体を理解した。

 それは、今まで男子と付き合っても感じる気配すらなくて、申し訳なさすら抱いていた感情。そういった想いを抱けている茜音やクラスの少女達を見てうらやましいとさえ思っていた感情。仲のよい男女の間にのみ芽生えて、ゆるやかに育まれていくと思っていた感情。


 ――ああ、そうか。この感情は。

 恥ずかしくて結衣の顔を見ることができなくなってしまう、この感情は。


 本来なら、男性に向けるべきはずの感情が、結衣に向かっていることに遙香は気がついた。これまでどんな男性を相手にしても感じなかった胸のざわめきが、結衣の隣に居るというだけで押し寄せてきた。

 この感情の正体は、恋。


 私は結衣に恋をした。

 そして私は、自身がなのだと気づいてしまった。


 ***


「ただいま。テストどうだった?」

「まあまあかな」

 遙香の鞄とコートを、エプロン姿の詩織が預かった。仕事帰りの手洗いうがいを済ませて部屋着に着替え終わった頃には、ローテーブルには温かそうな晩ごはんが並んでいた。ブリの照り焼きに煮物と味噌汁。一汁三菜には少し足りないが、バランスの取れた和食だった。

「お酒飲む?」

「今日はいいや」

 エプロンを外した詩織と向かい合わせになって、ご飯を食べる。

「おいしい?」

「うん。料理上手だね、しおちゃん」

「撫でてもいいよ?」

 言われるがまま、詩織の頭を撫でた。「おいしいおいしい」と、ただ無感情に。

「明日はなに食べたい?」

「今食べてるのに明日のことなんて考えられないよ」

「じゃ、食べ終わったら教えて? 作ってあげる」

 そう言って自慢げにはにかむ詩織の笑顔は、ウソも偽りもない。対する遙香は、それに作り笑顔で答える。

「ありがとうね」


 一見、幸せに見える同棲生活。

 だが、この生活は、仮初めのもの。

 向かい合って食事を取る二人の心は、向かい合ってなど居なかった。


 好みの味付けのブリの照り焼きを口に運びながら、遙香は心の中で侘びる。


 ごめんなさい、しおちゃん。

 やっぱり私が好きなのは、同級生で親友で、誰かを「好き」になる気持ちを教えてくれた初恋の人――結衣だけなの。

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