第二章 女と女
9日 土曜日
同棲生活を始めて最初の朝。
目を覚ました遙香は、詩織の抱き枕代わりになっていることに気がついた。隣では、あどけなさの残る詩織がすやすやと寝息を立てている。
昨日、避けようのない流れで詩織との同居が始まった。詩織の担任教師から頼まれた上に、詩織本人の決意は固そうだった。ヘタに断ろうものなら、なにが起こるかわからない。そもそも、従姉妹ではないと知られた時点で遙香はおしまいなのだ、都条例的に。
だから、表面上は仲の良い従姉妹を演じなければならない。目指すのは、一緒にお風呂に入って、一緒に寝て、お互いのことならなんでも知ってる、赤の他人。
そんな関係を、世間では恋人という。もしくは、セックスフレンド。
どうしてこうなってしまったのだろう。
結衣を追うと決意した先週末より、状況が悪化している。
「しおちゃん?」
返事はなかった。遙香の心配をよそに、詩織は心地よさそうに熟睡している。
それでも、心地よい関係を終わりにしてでも、遙香は進まなければならない。結衣との未練を晴らせるために、立ち上がらなければならない。
まとわりついてくる詩織の手足をどかせて、温かな布団から這い出た。
――恋のために戦うのよ、支倉遙香。
ひんやりとした朝の空気が、遙香のまぶたを強引にこじ開けた。
シャワーを浴びて部屋に戻ると、布団にくるまったままベッドの上に座っている詩織と目が合った。
「おはよ……ハル……」
「おはよ。さ、起きて支度して。買い物行くよ」
「買い物……?」
寝ぼけ眼を擦る詩織に、ウォーターサーバーのお湯で作ったインスタントのカフェラテを手渡す。取っ手のついたマグカップは一つしかないので、遙香は湯飲みでカフェラテを啜っていた。
「ここで暮らすんでしょ? なら、食器とかタオルとか買い足さなきゃいけないじゃない」
家にある食器はすべて一人分。小皿くらいはいくつか枚数があるが、一汁三菜を心がけている詩織の前では、とにかく心許ない。
「ん……」
返ってきたのは生返事だった。寝起きだから、ほとんど理解していないのだろう。昨日の夜、ちょっといろいろとやりすぎたせいで頭がさっぱり回っていないのかもしれない。
「シャワーでも浴びてきたら? 寝癖すごいよ?」
「ん……」
詩織はゾンビのようにのっそり起き上がって、ぼさぼさの頭でお風呂場へ向かった。
詩織がシャワーを浴びているうちに支度をする。メイクをしながら、必要なものを頭の中で洗い出していると、風呂場から出てきた詩織はつぶやいた。
「そっか、タオルがないんだ」
「今ごろ気づいたの?」
詩織の艶やかな肌が、水滴を弾いている。肩のあたりまで伸びた濡れ髪が首筋にひっついていて、遙香は思わず見とれてしまう。こんな風に見とれてしまうと――
「ハルのえっち」
イタズラのターゲットにされてしまった。目を逸らして、化粧に集中する。チークを入れようにも、すでに赤みがかった頬のどこに朱をさせばいいのか分からなかった。
支度を調えて、家を出た。なるべく同じアパートの住民に見つからないように、鍵を掛けて速やかにアパートの外階段を降りる。
「それで、なにから揃えるの?」
隣を歩く詩織の私服は、フライトジャケットにハーフパンツを合わせたラフなもの。「寒いから」という理由で黒のタイツを穿いてはいるが、同じ格好は遙香にはできない。若いからできるコーデなのだ。年々、足元の冷えがつらくなってきているし。
「まずは駅前で食器とかタオルとか。あそこ行けばだいたい揃うから」
「おねだん以上、ってヤツね」
「で、薬局に百均。しおちゃん、シャンプー一緒だっけ?」
「だね、ハルと一緒。嗅いでみる?」
ふわり、と詩織の髪が香った。遙香の家で、遙香のシャンプーを使ったのに、詩織の匂いは相変わらず甘ったるいバニラ。
遙香は、詩織自身が体から放つ、この匂いが好きだ。
「嗅がなくても分かるよ、しおちゃんの匂いだって」
「……あたし、そんなに臭いかな?」
自分の髪をくんくん匂っている詩織には、匂いのことは黙っておいた。
大きなカートを押しながら、食器やタオルを選んでいく。自分以外の生活雑貨を買うというのは、不思議とむずがゆい。
「このお茶碗、ハルが使ってるヤツだね」
赤の水玉模様のお茶碗の隣に、同じデザインで色違いのものがある。
赤と青。世間的には、女性と男性を象徴する色。同じ屋根の下で暮らす二人組は、赤と青のお茶碗が必要に違いないと価値観を押しつけられているようでイヤだった。
詩織は、赤と青を両方手にとって、まじまじと見つめている。まるで鑑定士だ。
「そのお茶碗、いい仕事してるでしょ」
「なにそれ」
どうやら、このネタは詩織には通じないらしい。詩織と話していると時々起こる、ジェネレーションギャップ。どんどん自分がおばさん化しているみたいで悲しい。
「よく分かんないけど、こっちにする」
詩織が選んだのは、赤の水玉お茶碗だった。
「私のと一緒の選んでどうするのよ」
「いいじゃん、お揃いだし。こっちの方がかわいいし」
青を選ばない詩織に、なぜだか安心してしまった。
二人の間にはジェネレーションギャップがあるのに、意図しない場面で、詩織は敏感に遙香の想いを汲み取ってくる。それが心地よくて、結局一年半もの間、体を重ね続けたし、その関係は今も続いている。
「ね、これ買おうよ、マッサージオイル」
「余計なものは買わないわよ」
「そっかな? オイルマッサージ、ハルは気に入ると思うよ」
ポンプ式のオイルボトルを籠に入れて、詩織が耳打ちしてきた。
「……めちゃくちゃ、えっちになっちゃうんだって」
「しおちゃんっ!?」
叫ぶと、周りの客の視線が集まった。そばにあった洗面器を持って、顔を隠す。
「なにやってんの、ハル~?」
「……分かってるでしょ」
からかってくる詩織と顔を合わせないように、生活雑貨を一通り揃えた。
ついでにハンガーや古くなったバスマット、シーツや毛布も買い揃えると、割と大きな金額になった。出世コースから弾き出された独身OLの給料では、人を養うのは難しそうだ。
「あたし払うよ。生活費余ってるし」
財布からお金を出す詩織を止めようとも思ったけれど、自分のお財布事情は自分が一番把握している。払ってくれるなら払ってもらおう、なんて考えが過ぎった自分に、遙香は虚しい気持ちになる。
OLが女子高生におごってもらう。なんてダメ人間なんだろう。
「なんかごめん、払ってもらっちゃって……」
「気にしてないよ、これから一緒に暮らすんだし」
荷物が多くなりすぎたので、一旦家に戻ることにした。大きなレジ袋の中には、タオルに食器、マットに毛布。同居人ができると、荷物が重い。もちろん経済的な責任やら、従姉妹を演じなければならないことで気も重い。
「にしても、重いわね……」
「あたしが?」
荷物のことを言ったつもりなのに、詩織は別の受け取り方をしたらしい。「私は重い女か?」と尋ねられていることに気づいて、遙香はため息をついた。
「重くない女なんて居ないわよ。毎日みんな、戦ってるんだもの」
遙香は職場で。詩織は学校で。結衣や茜音、遙香の担任の木下先生も、みんなどこかで戦っている。
「どういうこと?」
「一生懸命戦うと、ケガするでしょ。失敗してヘコんだり、他人の言葉に傷ついたり。だから必要なのよ、心のケガを治す拠り所が」
「女は感情の生き物だ」なんて言葉は、心も体もボロボロにして戦っている女性達の苦労なんて知りもしない男どもの妄言だ。だって、彼らには分からないのだ。女性が感じる恐怖を、羞恥を、屈辱を。
もちろん、それを受け止めてくれる男性も居る。話せば分かってくれる、理解ある男性も大勢居る。だけど、そんな世間的にステキとされる男性を、遙香が好きになることはなかった。今後も一生、好きになることはないだろう。
もう、隠しても仕方がない。
「私にとっては、しおちゃんが拠り所だった。仕事のストレスをしおちゃんにぶつけてた。だから私の方がずっと重い女だよ。ホント、最低なレズだよね」
「だね。あたしを置いてこうとした最低なレズだよ」
自虐のつもりで言ったのに、肯定された。そこそこショックだ。
「でも、ちゃんと助けてくれた。ハルのそういうトコがあたしは好き」
悪巧みの笑みではない、照れた笑いを浮かべて、詩織ははっきり「好き」だと言った。その一言で、滅多に光が届くことのない深海のような暗い心に、ほんの少しだけ灯りが
「それとさ、レズがどうこうじゃなくて、あたしはハルが好きなの。だから仮にハルが男でも、あたしはハルを好きになったと思う」
隣を歩く詩織が、顔を背けた。ハーフアップにした髪の毛から覗く耳が赤くなっているのに気づいて、遙香は「ふふ」と笑った。
「じゃ、今夜はオイルマッサージしちゃう?」
「そういうキモオヤジみたいなトコは嫌い!」
詩織は走って、アパートの外階段を登った。アパートは二階建て六部屋。二階通路の一番奥の角部屋の前で、詩織が手を振っていた。
「急いで、ハール!」
結衣を追いかけながら、詩織との新生活が始まる。
自分の心がなぜこうもざわめいているのか、遙香には分からなかった。
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