閑話 花金と同棲と遙香の秘密

 安っぽいドアベルの音がして、あたしは玄関に急いだ。チェーンを外し忘れたから、ドアは途中でゴンと引っかかる。あわてて仕切り直し。ドアを開けると、仕事から帰ってきたハルが立っていた。

「やっぱりまだ居たのね……」

「あたしが居ないと部屋に入れないでしょ」

 あたしは合鍵を持たされていない。だから池袋まで渡しに来てと言われたけどそんなことは無視した。せっかくハルの家に入れたのに、ハルの近くに居られるのに、そんなチャンスは捨てたくない。

「……ただいま」

「おかえり、ハル」

 ただいまのキスをせがんで唇を突き出してみたけど、押しつけられたのは手の甲だった。この間、SNSで見た、『キスの部位がどこかで相手の気持ちが分かる』みたいな占いを思い出す。

 手の甲へのキスは、敬愛の証。それと、プロポーズの意味になるらしい。

 占いはあってる。だってあたしは、これからハルにプロポーズじみたことをしようとしているのだから、何も間違っていない。

「ちょっと! これどういうこと!?」

 ハルは朝みたいな素っ頓狂な声を上げた。それもそのはず。テーブルには冷蔵庫の残り物で作った晩ごはんが並んでいて、部屋の隅にはレトロ調のトランクケースが置かれているのだから。

「ていうかしおちゃん、着替えてるし!」

 立川に帰った――いや、立川から帰ったあたしは、制服を脱いで部屋着に着替えた。家で制服を着続けるのもヘンだし、ハルに見せたい姿だったから。

「ハルは制服の方がよかった?」

 あたしは、ハルに買ってもらったジェラピケのパジャマ姿でくるりと回ってみせた。ペールピンクのものなんて自分じゃ絶対買わない、甘すぎて。だけど、ハルが選んでくれたものだと、なんだか不思議としっくりくる。

「そういうことじゃないの! わざわざ荷物まで持ち込んで……」

 頭を抱えたハルに、あたしは決意をぶつけた。

「あたしね、もうあの家に帰るつもりないから」

「はぁ!?」

 あたしは、ハルの前で土下座した。放つのは立川から帰る間に考えたキラーフレーズの二つ目。ハルに「うん」と言わせるための小さな布石。

 まずはあたしとの関係を、真剣に考えてもらうための第一歩。


「あたしをここに住ませてください」


 ハルは、孤独な独房から逃れられなかったあたしを、何度も救ってくれた。下手をすれば母親以上に、あたしにいろいろなことを教えてくれた。男を避ける方法も、大人の女性の生きかたも、誰かの愛し方さえも。

 この人ならば、とあたしは誓える。この先の人生で、ハル以上の人には絶対に巡り会えないと断言できる。ハルを絶対幸せにできるって叫んでもいい。


「…………」


 さすがにハルは黙った。無理もないと思う。

 子どものかわいらしいワガママの域はとうに越えている、ほとんど無茶苦茶な注文だ。この家が同居人不可だってことは知ってるし、ハルがあたしを家に近づけなかったことだって分かっている。

 大人なハルには、あたしに知られたくない事があるのだ。

 ここは、ハルにとっての聖域だから。


「あたしに言えない事があるのは知ってる。それでもいいから」


 話してくれないなら、話してくれなくてもいい。知りたいけれど、我慢する。

 その代わり、あたしを知ってほしい。褒めてほしい。甘えさせてほしい。

 の面だけじゃない、十八歳のがどういう生き物なのか知って、味わい尽くしてほしい。きっと満足させるから。

 だからこれはプロポーズ。絵本の中の王子様は跪いてしていたものが、あたしの場合は土下座だけど。


「掃除もするし、洗濯もするよ。ハルの好きなご飯だって作ってあげる。たいならいつだって付き合うし、それに――」

「……学生の本分は?」

「え……?」

 屈んだハルが、あたしの顔を覗き込んできた。

「あなたが一番に優先すべきは勉強でしょ。期末テストと、来年の受験」

「そう、だけど……」

「勉強をおろそかにしたら、出て行ってもらう。あと、大家さんにバレるのもダメ。それと、押し入れは片付いてないから絶対開けちゃダメ」

 ハルが指定してきたのは、あたしと一緒に暮らすための条件だ。

 最後だけ、やけに具体的だったけど。


「じゃあ、ここに居ていいの……?」

「仕方ないでしょ、担任の先生にも頼まれたし。今日なんて、わざわざ会社に電話してまで念押ししてきたのよ……」

「木下先生が……?」

 ハルによれば、木下先生の電話の内容は、あたしの身元引き受けについて。一人暮らしだと受験に集中できないだろうから、せめて受験が終わるまでは、一緒に暮らしてあげてほしい、というものだった。

 木下先生は妙に横のつながりが広くて、対価とばかりにハルへを紹介してくるので、無碍に断れなかったらしい。上司の命令で。

「うちに泊まるなら、学業を優先して。ご飯とか洗濯はありがたいけど、まずはそっちよ」

「えっちは?」

「それは……ケースバイケースで……」

 徐々に染まっていくハルの顔を見て、あたしは安心した。

 よかった。あたしは嫌われていないんだって。それから――

「やっぱあたし達、体の相性はいいみたいだね?」

「もう、もう! ばか!」

 語彙力が小学生並になったハルを見て、あたしは笑った。

 なんだか久しぶりに、心の底から笑った気がした。

「ほら、ハル。服脱いで。先にシャワー浴びておいでよ」

「どこで覚えてくるのよ、そんなセリフ……」

 あたしはハルをお風呂場にぶち込んで、作ってきたお総菜をレンジで温め直した。そして、そのスキに――。


 絶対開けちゃダメなんて言われたら、気にしないでいる方が難しい。特にあたしみたいなイタズラまっさかりの子どもには。

 昭和感漂う古めかしい押し入れを開けると、上段の奥の方に小さな段ボール箱があった。何の変哲もない、ただの小さな箱。だけどその箱がとても魅力的に見えてくるんだから仕方がない。具体的には、ハルのことを知りたい知的好奇心と、イタズラ心のせいで。困ったなあ、本当に困ったなあ。

 ハルが居ないのを見計らって、箱をたぐり寄せた。半開きのフタを開けてみると、中に入っていたのは――。


「……しおちゃん?」

「あ、えっと……」


 箱の中に入っていたのは、大量のオモチャ。

 オモチャと言っても子ども用のじゃなく、


「悪い子にはお仕置きが必要かなあ、しおちゃん?」

 あたしは、バスタオル一枚のハルに押し倒された。女の子の秘密を見られて恥ずかしがってるのか、それとも怒ってるのか分かんない複雑な顔で、あたしを抑えつけてくる。

 ハルのこんな顔、見たことない。

「は、ハル……?」

「一度、使ってみたかったの……。これを使うとしおちゃんは、どんな風になっちゃうのかなって……!」

 ブルブル震えるピンク色の空豆みたいなものを取り出して、あたしの顔に近づけてくる。ハルの息が荒い。

 見たことないくらい、興奮してるっぽい――。

「や、待って。ちょっと、待って。それは、さすがに……」

「約束破ったんだもん、しょうがないよね」

「み、見なかったことにするから」

「知られちゃったら意味ないの! 寂しい女だって思われたくないから、ずっと秘密にしてたのにッ!」

「ちょっ、ハル! どこに当てひうッ――!?」


 去年の春から一年半。ハルにしっかり教え込まれて開発されきっていたあたしは、気づいた時にはカラカラに乾いた洗濯物みたいになっていた。全身の筋肉が痛くて、いろんなところがジンジン疼いていた。


「……一緒に住むなら約束は守ってよね」

「わかった……」


 ハルが隠していた秘密をひとつ知れた。

 けど。

 正直、知らなくてもいい秘密もあるんだって、腰をさすりながらあたしは思ったのだった。

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