8日 金曜日

 十二月八日。深夜三時。

 寒さで目を覚ましたあたしは、裸で眠るハルにキスをする。キスマークを付けるなら、誰にも見せないはずの場所に。他の女の子を抱けないように、絶対目につくおへその下に。

 縁がないと思っていたのに、どうやらあたしは独占欲が強い。自分でも笑っちゃうくらいに。

 ハルに巻き取られた布団を奪い返して、冷えた体をハルに重ねた。ハルの部屋で、ハルの布団で。ハルの体と絡み合うだけで、こんなに温かで幸せな気持ちになれるなんて思わなかった。

 全身の細胞が震えた。いたるところがざわめいた。あんなにばかりの乾いた体から、生ぬるいものが零れ落ちるのを感じた。

「おやすみ、ハル」

 目を瞑り、ハルの温度に体を委ねる。たゆたう意識はぬくもりの中に溶けていった。


「ああああああああ~~~~~~~ッ!!!」

 ハルの素っ頓狂な悲鳴であたしは目を覚ました。ベッドから飛び起きたハルは、裸のままでお風呂場へ直行、そして――

「冷たーいッ!」

 なんて、朝から騒がしい。少し落ち着けばいいのに。

 冬場の低い太陽が、カーテンの隙間から差し込んでいた。


 ここはひばりヶ丘のハルの家、東向きのワンルーム。

 時計を見ると八時半。なるほど、ハルが焦るワケだ。


 あたしは体に布団を巻き付けてのっそり起き上がり、テレビをつけた。興味も無い相撲関係のニュースをBGM代わりに、朝の支度をするのがいつもの日課。たとえそれがハルの家でも同じこと。それが二人分になっただけ。

「ふふ」

 でも、こういうときにイタズラ心が顔を出す。ハルに構ってほしいから、ついついやってしまうのです。あたしの悪い癖。困った困った。


 冷蔵庫の中にあった食パンに、余り物のスライスチーズを載せる。それだけだと面白くないから、マヨネーズをお醤油で溶いて、上に塗ってからトースト。

 寒さに体が震えた。なにか温かいものが飲みたい。とりあえずポットでお湯を沸かして部屋の中を探ると、春雨スープを見つけた。お湯を注いでスープは完成。

 タイミング良くトーストが焼けて、焦げたお醤油の香ばしい匂いがふんわり漂い始めた。


「あ! 言い忘れてたけど、しおちゃ――」

 バスタオル一枚でお風呂場から出てきたハルは、あたしの姿を見て絶句した。

 裸にエプロン姿。これが、さっき思いついたハルへのイタズラ。

「ハル、結構こういうの好きでしょ? チラっ?」

「あ、う……」

 みるみるうちに赤くなっていくハルの顔を見たら、胸がスッキリした。

 悪かったね、子どもで。人を子ども扱いしたんだから、これからも精一杯子どもらしくイタズラしてあげる。

「見とれてると遅刻しちゃうよ。ほら、ご飯食べて」

「ご飯って、いつの間に……」

 ベッドの隣にある小さなテーブルに二人分の朝食。お皿は全部バラバラだけど、ちょっと安心できる。ハルの周りには、あたし以外に居ないことが分かるから。

「しおちゃん生活力高すぎ……」

「時間ないんでしょ?」

「そうだった、いただきますっ!」

 ハルと向かい合って、朝食を食べる。急いでパンを頬張るハルと目が合うことはないけれど、その様子を見ているだけでお腹がいっぱいになる。

「ごちそうさま!」

 ハルは洗面台に飛び込んで、会社員の支倉遙香になるための武装を始めた。元々綺麗なハルの顔が、メイクでぐんと華やいでいく。どっちのハルも好きだけど、どうせ一緒に歩くなら綺麗な方がいい。

 いくつになってもかわいくありたい。それが女の子。

「あー、もう完全に遅刻!」

 時計は九時を指していた。いつものスーツに着替えたハルに、鞄とコートを手渡してあげる。そんな何気ない動作が、あたしには嬉しい。


「しおちゃん、鍵渡しておく!」

 ハルから鍵を渡されて、あたしは舞い上がった。

「合鍵?」

「違う! 着替えて鍵掛けたら池袋まで届けに来て!」

「えー、やだ。ここに住む」

「だから部屋に上げたくなかったのに!」

 ぶーぶー文句を言うハルはあんまりかわいくない。だから絶対、鍵は返さないことに決めた。

「遅刻しちゃうよ~? 支倉遙香さ~ん? いいのかな~?」

「ああもう! とにかく頼むわよ!」

 勢いよくドアを開けたハルは、ふいに何かを思い出して振り向いた。

「しおちゃんの格好、好きだけど……風邪引くよ?」

 言い置いて、ハルはドアが閉めて出て行った。

 不意打ちされて、あたしは恥ずかしさで死にそうだった。


 愛し合ったままだった体にシャワーを浴びて、着替える。面倒臭がりのハルらしく、洗濯機は乾燥機付きのドラム式。衣類に洗剤、柔軟剤を入れておけば、乾燥までしてくれる優れもの。

 とりあえずハルが脱ぎっぱなしにした服を放り込んで、制服に袖を通した。あたしの頭の中ではもう、今日の予定は決まっている。

 ハルを部屋で待ち伏せる。そして今夜こそ「うん」と言ってもらう。「うん」と言わせる。そのためには、どうしても必要なものがある。


 鍵を掛けて、ひばりヶ丘を出た。池袋線で練馬、バスで中野。昨日のルートを戻って、中央線から立川の自宅へ戻った。


 母さんが立川に買ったマンションは、2LDK。二人ではちょうどいいけど、一人では寂くて。この家に帰るのがイヤだったから、あたしは援交を始めてハルに出会った。

 一日ぶりの玄関を開けると、背筋まで凍るほど冷たい風が吹いてきた。

 ハルの家とは違う、冷たい空気。どんなに間取りが大きくても、西向きの部屋は冬の寂しさを容赦なく浴びせてくる。ハルの家のように、小さくとも東向きがいい。夏は暑いけど。


 家に帰るなり、通学用の鞄に全教科の教科書と参考書、ノートを詰め込んだ。それとは別に、ハワイ旅行で使ったスーツケースに着替えやパジャマ、シャンプーリンス歯ブラシメイク道具に通帳といろんなものを詰め込んでいく。ついでに、ひとりでは怖くて見られなくなった、お気に入りのホラー映画DVDも押し込んだ。髪の長い白い女の人のやつ。

「あとは、料理」

 ひとりでは持て余すほど大きな冷蔵庫を開けて、食材の痛み具合をチェックする。まだ大丈夫なものはそのまま、痛み始めているものを取り出して、大きなキッチンに並べた。

「遙香が帰るまでに間に合わせないと!」

 ありったけのタッパーを用意して、あたしはコンロの火をつけた。


 玄関で靴を履いて立ち上がると、荷物が重かった。通学用のリュックにスーツケース。作ったお総菜を入れたタッパー入りのエコバック。思わずよろけてしまうけど、これは幸せの重みだなんて言い聞かせて、踏ん張った。

 要するにあたしは、立川のマンションから村瀬詩織の痕跡を消したのだ。もちろん、残していくものはたくさんあるから、完全には消せないけれど、あたしを構成しているモノの大部分は、背中のリュックとスーツケースに詰まってる。


 これは家出。冷たく寂しい孤独からの逃避行。

 西向きの冬から、東向きのハルへのお引っ越し。


 だけど、ドアノブに手を掛けたところで、あたしの心に冷たい風が吹いた。

 ハルが本気で嫌がったらどうしよう。受け入れてもらえず、追い出されてしまったらどうしよう。重い女だと思われたら、面倒臭い女だと思われたら、ハルの負担になったら、どうしよう。

 不安は不安を呼んで、あたしは冷たい2LDKに引き戻されそうになる。


 孤独があたしを引き留めていた。お前が居る場所はここだ、って。抱いた期待を冷やして固めて、西向きの箱の中に押しとどめようとする。こんなところに居たくないのに、こんなところから抜け出せない。

 母さんが悪いわけじゃない。毎月仕送りを送ってくれているし、それとは別にお小遣いも貰えている。お金の面では不自由してない。母さんが一生懸命働いてくれているおかげ。母さんに会えないのは寂しいけれど、スマホがあればメッセージを送りあえるし、テレビ電話で話もできる。


 だけど、画面の向こうに居る人に、どうやって甘えればいいの。

 触れ合うこともできない人に、どうやって愛を感じればいいの。


「寂しいよ……」

 あたしのために働く母さんに、仕事を辞めて帰ってきてほしいなんて言えない。言えるはずがない。だからあたしは強がって、一人でも生きていけるフリをして、一人前に孤独と戦って、何度も何度も打ち倒される。

 視界が歪んだ。

 何度、この家の玄関で泣いただろう。海外へ赴任する母親を送り出したとき、登校するとき、帰ってきたとき。ハルと体を重ねたあとの温かな余韻すら、瞬時に凍えさせてしまう感情の墓場。

 腰を落とした。

 鉄製の玄関扉が、まるで脱出不可能な監獄の鉄格子に見えた。両手両足と首を、孤独でできた冷たい鎖に繋がれて、ゆっくり心を冷やされて死んでいく。それが村瀬詩織の運命だとでも言うように。

 

 その時、あたしのスマホが鳴った。ハルからのメッセージだ。

「しおちゃん」

 言葉の行方を、じっと見つめる。

「どうせまだ私の家に居るんでしょ?」

 黙ってひばりヶ丘を出たから、あたしが立川の孤独に囚われていることになんてハルは知らない。

 メッセージ画面を開いたままにして、言葉を待った。

 しばらく待つと、ハルのメッセージがやってきた。


「今日は七時に帰るから」

「それだけ」


 スマホに涙が落ちた。

 冬のみぞれのように冷たい涙ではない、うららかな温かい春の雨。

 嗚咽を上げて泣いた。これまで以上に、これまでとはまったく違う涙が流れて、ダッフルコートの袖に落ちる。

 ハルが、孤独に凍り付いたあたしの心を溶かしていく。囚われの鎖も監の扉も、ハルの嵐が吹き飛ばす。温かな陽気が頬をくすぐり、背中を押してくれる。

 あたしは、メッセージを入力する。何度も打ち間違えて、戻るを繰り返す。指が震えて、思うように言葉を撃ち出せない。指が絡んで、何度も滑る。たった数文字のメッセージを送ることもできないって思うと笑えてくる。泣き笑い、悲喜交々。春の陽気に当てられて、あたしの涙はやっと乾いた。

 ようやく撃てた、メッセージは一言。

 あたしからハルへの、最初のキラーフレーズ。


 ありがとう、ハル。


 既読はつかなかった。でも、きっとハルには届いていると思う。

 立ち上がって、ドアノブを握った。思いきり回して、力強く押した。吹き込んでくる木枯らしには、ほんの少しだけ春の匂いが混じっていた。


 さようなら、あたしの孤独。


 もう二度と、ここに戻らないで済むように。

 あたしは孤独に、しっかりと鍵を掛けた。

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