7日 木曜日 その2
「いつまでついてくる気?」
蓮華ヶ丘高校からバスで中野へ。中野から練馬へ向かうバスの停留所で、遙香は離れずついてくる詩織に告げた。詩織の家は立川にある。乗るべきは練馬行きのバスではなく、下りの中央線だ。
「ちょっとひばりヶ丘まで」
詩織はさも当然、という口調で遙香の最寄り駅を挙げた。練馬から池袋線で数駅行った場所にひばりヶ丘はある。
「うちに上げるつもりはないって言ったでしょ」
「言ったね」
「じゃあなんでついてくるのよ……」
「行きたいもん、ハルの家」
詩織は、夏頃から急に「ハルの家に行きたい」と言うようになった。ホテル代が浮くメリットはあるけれど、遙香は詩織との関係をお金で割り切っている。
家はいわば、最後の一線。その線だけは詩織にも、結衣にも越えさせていない。
「だめ。あんまりワガママ言わないで」
「子どもだからワガママ言うしー」
拗ねるように言う詩織に、遙香は呆れて言葉も出なかった。
「バス来たよ、ハル」
始発のバスはラッシュ前で空いていた。遙香は詩織に押され、二人掛けの席に座らされる。逃げ場はない。
「なんでそんなに嫌がるの?」
「分かるでしょ、女の子にはいろいろあるの」
「あたしはハルのいろいろが知りたいの。嫌いになったりしないから大丈夫だよ」
隣に座った詩織が体を預けてきた。例の甘ったるい香りが遙香の鼻腔をくすぐり、これまでの光景を思い起こさせる。
「今、思い出してたでしょ?」
「思い出してないから!」
否定はしたが、遙香の顔は火照っていた。自分でも分かるくらい、全身の血液が顔へと集中している。
二人を乗せたバスは練馬を目指して動き出した。詩織の言葉をしばらく無視していると、詩織は参考書を取り出して勉強を始めていた。
動機はあまりに不純だが、詩織の表情は真剣そのものだ。C判定を一年で合格圏内に射止めたどころか、さらに上を狙える段階まで上り詰めている。並大抵の努力でないことは、適当に受験した遙香にも分かった。
詩織が努力したのは、池袋の大学へ通うため。それはすなわち、遙香と少しでも一緒に居たいから。それが分かってしまうからこそ、遙香は苦しい。
詩織にここまでさせてしまう自分は、なんと身勝手なのだろう。
割り切った関係のつもりで、既に情が移ってしまっているのかもしれない。
「横顔に見とれちゃった?」
詩織は参考書から視線を逸らすことなく告げた。遙香ははっとして、視線を反対側に向ける。重く、寒い冬空に、鈍色の夕日がどろりと溶けていた。
「ホントにうちに来るつもりなの……?」
練馬駅の改札前で、詩織に尋ねる。せめてもの心変わりを期待したが無駄だった。
「木下先生に言われてたじゃん。サポートしてあげてって」
「聞いてたの……」
「あたし、ハルのサポ欲しいな」
「略さないで、頼むから。別の意味になるから!」
「どうしよっかな?」
往来でそんな話をするワケにもいかない。唯一幸いなことは、詩織が遙香を警察に突き出すつもりはないということだ。だから、際どい発言も意味深な言葉選びもイタズラだ。イタズラだからたちが悪い。
「……部屋を見るだけ。見たら帰って」
「女の子を一人で帰らせるなんて保護者として問題だと思いまーす」
「明日学校でしょ?」
今日は十二月七日、木曜日。どんなに神に祈っても明日は平日だ。
「残念、テストの前休み!」
詩織は言い置いて練馬駅の改札をくぐった。遙香の心とは裏腹に、池袋線下り列車は一分たりとも遅延することなく、定刻通りにひばりヶ丘駅に停車した。
「ハルっぽい部屋だね。片付いてないとことか」
ひばりヶ丘駅徒歩十分のアパートに遙香は住んでいる。片付いているとも汚いとも言いがたい、絶妙な乱雑ぶりを見て詩織が笑った。玄関には靴がひしめき、廊下には捨てそびれた古雑誌や空き缶がとりあえず並んでいる。
「言っとくけど、寝るとこないよ?」
「いいよ。ハルと寝るから」
「う……」
俯いた顔を詩織が覗き込んでくる。遙香は顔を見られまいとそっぽを向いて、ワンルームの扉を開けた。
「ハルの匂いがするけど、ちょっと臭いかも」
「臭いって……」
「シンクはひどいし、ごみも片付けてないでしょ。この分だとトイレとお風呂は」
「やめてーッ!」
心の底から叫んだ。詩織は勝ち誇ったような顔をして、遙香を見つめる。
「ハルはあたしを泊める。あたしは掃除してあげる。これなら割り切りでしょ?」
「……分かったわよ」
時刻は午後六時。コートとブレザーを脱いだ詩織は、ホコリを被っていたエプロンを着けて、シンクと格闘し始めた。
遙香は、積年の垢と戦う詩織の後ろ姿を眺めていた。白いブラウスと、チェックのスカート。肩口までの艶やかな髪。その姿が何故か、高校時代の結衣と重なった。詩織を前にすると妙に受け身になってしまうのは、そのせいかもしれない。
女子高校生には、時を超えさせる魔力がある。
「はい、これでも食べてて」
いつの間に作ったのか、詩織はラーメンを出してきた。買い置きの袋麺をアレンジして、冷蔵庫の中に眠っていた白菜がトッピングされている。
言われるがまま口に運ぶと、自分で作るよりもはるかに美味しかった。
「美味しい……」
「でしょ。あたしも面倒くさい時、よくやる」
詩織は照れくさそうに笑っていた。その顔の裏には、一人孤独と戦っている詩織の姿がある。唯一の肉親と遠く離れて、優等生を演じて孤独に戦う詩織。その唯一の心の拠り所で、精神的な支えになっている自分。
「ダメだな、私……」
自立して生きているのが大人だと思っていた。自分でお金を稼いで、自分で生きていくことが、大人の条件。だけどその条件は間違っていた。少なくとも詩織は、金銭的には誰かに頼っていても、自分ひとりで生きている。
詩織と比べると、自分はなんて惨めで身勝手なのだろう。
「あたし、いいお嫁さんになれるかな?」
エプロン姿の詩織が、とても輝いて見えた。
「なれるよ、しおちゃんなら」
「そっか、えへへ。……よかった」
詩織は上機嫌でくるりと翻り、シンクの掃除に戻った。不意に一生懸命な背中を抱きしめたくなったので、遙香はテレビを付けて気を紛らわせた。時刻は午後七時。ゴールデンタイムのバラエティの内容は、ちっとも頭に入ってこなかった。
結局、掃除が終わった頃には、時刻は二十三時を過ぎていた。どうしてもトイレとお風呂だけは掃除させたくなくて、遙香も掃除をすることになった。ピカピカになるまでこれでもかと磨いて、ようやくひと息つく。その頃には、足の踏み場もなかったワンルームが綺麗に片付いていた。
「しおちゃん、すごい……」
「片付けたのあたしだから、ここに住んでいい?」
「だめ。同居人不可だよ」
「だよね~」
詩織は、遙香のベッドの上に横たわった。そして寝たまま、ちょいちょいと手招きする。遙香は迷ったが、詩織の枕元へ歩み寄って膝を貸してやった。
「なんだか久しぶりだね、これするのって」
これは、遙香と詩織にだけ分かる符牒。膝枕をして欲しいときの仕草。見下ろした詩織の顔は相変わらず綺麗で、吸い込まれそうになる。
「一週間しか経ってないでしょ」
「もう一週間も経ったんだね」
寂しげに呟いて、詩織は目元を腕で隠した。その意味が分かった遙香は、心を閉ざす。できるだけ何も考えないようにして、詩織の髪を撫でてやった。
「寂しいよ、ハル……」
詩織は小さく震えて、遙香に抱きついた。ぽたぽたと温かい涙が、遙香の部屋着を濡らしていく。
「一緒に居たいよ……好きなんだもん……」
「どうして別れるなんて言うの……」
「やだよ……側に居てよ、ハル……」
遙香は、詩織の背中を抱き留めなかった。援交相手ではない、赤の他人として。泣いている少女を慰めるために頭を撫でる。それ以上のことをしてしまったら一線を越えてしまうから。
だけどあるいはもう、一線などとうの昔に踏み越えているのかもしれない。
「あたしが高校生だからダメなの……? 援助交際だからダメなの……?」
「……違うよ、しおちゃん」
「じゃあ、嫌いになっちゃったの……?」
嫌いになったと言えば、関係を清算できるかもしれない。
だけどそんなことをすれば、詩織が今まで積み上げてきた努力は壊れてしまう。受験勉強も、親元から離れた一人暮らしも、詩織の何もかもを。
「……それも違う」
「だったらどうして……!」
答えに窮した。結衣のことは話せない。適当な理由をでっち上げて別れようものなら、詩織の人生は壊れてしまう。
「ごめん、話せない。だけど……」
自分は身勝手で、そのくせ言い寄られると決意が揺らいで。詩織を傷つけることになると分かっていながら行動して、なのに詩織を傷つけたくもなくて。どうしようもない人間のクズで、人を好きになる資格もないのに、受け入れてくれるかどうかも分からない初恋の人のことをいつまでも引きずって、すべてを受け入れてくれた人をないがしろにする。
本当に子ども、本当にワガママ、本当に優柔不断、本当にダメな大人。
ああ、涙があふれる。泣けば許されるなんて思っている、性根が腐ったダメ人間だから。
「私だって、しおちゃんのこと……好きなんだよ……」
ただ泣いた。漏れ出した嗚咽は、詩織の唇が受け止めた。ついばむようなキスから、舌が絡み合う。そのまま二人、横になって泣きながら抱きしめ合う。
「ハル……ハル……」
「しおちゃん……」
もう、何をしているのか分からない。何をされているのかも分からない。
遙香は、枕元の目覚まし時計を見上げた。
日付が変わろうとしていた。
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