7日 木曜日 その1
遙香は、蓮華ヶ丘高校を前にして大きなため息をついた。
学校相手に水商売をする、という営業戦略で昨日のうちにノルマを達成したまではよかったが、蓮華ヶ丘の教頭から「同じものを欲しがっている教職員が大勢いるので営業に来てほしい」と請われてしまったのだ。
本来ならば喜んで営業に伺うところなのに、場所が場所。どうにか逃げられないかといろいろ悪あがきをしてみたが――
「うちの生徒さんの親戚の方なら、こちらも安心ですものね」
まさしく鶴の一声。逃げ道などないと悟った。
「はい……お客様は神様です……」
入校証を首からぶら下げて、遙香は重い足取りで放課後の職員室へ向かう。教員相手に水商売。おまけに生徒は元・援交相手。なんとも背徳的な響きだ。
水商売の営業活動は、手近な教室を借り切って行われた。二十名前後の教員が教壇に立つ遙香の言葉を熱心に聞き入り、時折「へぇ~」だの「ほう」だの、小気味のいい相づちが入る。説明を真剣に聞いている証拠だ。遙香の説明にも熱がこもる。
「……商品の説明は以上となりますが、ご質問はございますか?」
手を挙げた若い女性教師を指さすと、普段のクセなのか起立して質問し始めて、笑いが起こった。雰囲気のよい職場らしい。
質疑応答タイムは終始和やかに過ぎゆき、遙香は結局、十六人もの新規顧客を獲得した。個人記録更新だ。
「どうもご足労をお掛けしました、支倉さん」
教頭と、先ほど質問してきた女性教師にお茶を出され、遙香はひと息ついた。
「いえ、こちらこそ。先生がたを相手に教鞭をふるう、貴重な体験をさせていただきました」
「まあ、お上手」
一仕事終えたあとのお茶は、飲み飽きた自社の水で出したものでも美味しい。勝利の美酒と似たようなものかも、などと考えていると、先ほど質問してきた女性教師が話しかけてきた。
「支倉さんは、うちのクラスの村瀬さんのご親戚、なんですよね?」
詩織の名前を出されて、思わずお茶を吹きそうになった。慌てて茶碗を机に置き、口元を拭って返事する。
「え、ええ! そうです、従姉妹で!」
一昨日、蓮華ヶ丘での営業の帰り際に詩織とばったり会った。遙香はその時とっさに「詩織と従姉妹だ」とウソをついてごまかした。だがどうやら、そのウソは学校公認になってしまったらしい。
「素敵な偶然もあるものねえ」なんて笑っている教頭が発信源なのだろう。おしゃべりおばさんのクチコミ、恐るべし。
遙香の額に冷や汗が伝っていることなど知るよしもなく、女性教師は続けた。
「村瀬さんについてお話したいことがありまして」
「お話したいこと、ですか!?」
遙香は思わず背筋を伸ばして改まる。「援交の疑いがある」なんて言われたらどうすればいいのか、と遙香の頭の中でよからぬ考えがぐるぐる巡った。
だが、遙香の不安は外れらしい。
「ああいえ、実は村瀬さんのご家族と予定が合わず、三者面談がまだなんです。彼女も受験生ですし、なるべく年内には終えておきたいのですが……」
詩織の家族のことは、本人の口から聞いていた。詩織の母はシングルマザーでバリバリのキャリア、そのため、去年の春頃から海外へ赴任しているらしい。その割には親子仲は良好で、夏には親子水入らずの旅行をハワイから自慢されたほどだ。
「はあ……」
「申し訳ありませんが支倉さん、これから時間はありませんか? 村瀬さんの保護者として、三者面談にご参加いただきたいのですが」
時計を見ると、十五時。遙香の就業時間内だから、それを言い訳に断ることはできる。とはいえ、教頭もこの先生もお客様なのだ。無碍にはできない。
「あー……ちょっと会社に確認してみますね?」
困ったときは上長に電話だ。先生がたの顔を立てるためとりあえず報告して、会社都合でやっぱりダメだったという体にすれば角も立たないし丸く収まる。
「これしかない!」と意気込んで、離席して電話を掛ける。だが、新規契約が十六件取れたとうっかり上長に伝えてしまったのが運の尽き。
「営業の基本は飲みニケーションだよ、支倉くん! これからも大いにお付き合いしなさい。契約書は明日でいいから、今日は直帰していいよ!」
「ちょっ、課長! 課長!?」
盛大に勘違いされたまま電話は切られた。上司のお墨付きまでいただいてしまって逃げることもできず、遙香はすごすごと職員室に戻るのだった。
女性教師――木下先生に案内されて、詩織のクラスへ向かった。廊下に立って待っていると、窓ガラスの向こう側に詩織の姿が見えた。
「ちょっと村瀬さんに話してきますね」
木下先生は教室に入り、教員と一言二言話して詩織に語りかける。詩織は遙香の存在に気づいて動揺したのか、体を小さく震わせた。それに、曖昧な笑顔を浮かべて手を振って答える。詩織含め、生徒全員の視線が遙香に向いていた。
詩織のことだから、秘密にしてあるだろう、と遙香は思う。だけどあの生徒達の中に一人でも事実を知っている者が居たら――。
「どうしてこんなことに……」
何度目かのため息をついた。結衣を追うために詩織と別れたはずなのに、詩織にばかり会っている気がする。
授業終了後、詩織が教室から出てきた。いつもと同じ、地味目の指定制服が、場所が場所だけに、やけに馴染んでいる。
「ハールっ!」
人目もはばからず、詩織は遙香に抱きついてきた。
「ちょっ、しおちゃん!?」
教室に残っていた生徒どころか、教師達の視線が痛い。遙香は詩織にだけ聞こえるように、小声でささやきかける。
「従姉妹ってことになってるから、離れて……!」
「従姉妹でもハグくらいするって」
「そうかもしれないけど!」
詩織に手を引かれ、教室の中に案内される。落ち着いた雰囲気の教室には冷暖房が完備されていた。締め切ってるためか、思春期の少年少女のなんとも言えない匂いが充満していた。
「みんな。これから村瀬さんの三者面談をしますから、特に用がない人は早めに教室を出てくださいね」
遙香の正体を誰何する生徒達を、木下先生が散らせた。遙香は詩織の後ろの席――日比谷さんというらしい――の椅子を借りる。真面目そうな印象が、詩織の姿と少しだけ重なって見えた。
だけど、詩織は真面目な生徒ではない。それは、二人だけの秘密。
「すみません、急なことなのにお付き合いいただいて。では、始めましょうか」
生徒達が出て行ったのを確認してから、三者面談が始まった。
詩織の隣に遙香が、そして二人に向かい合って木下先生が座っている。
「えっと、支倉さん。そんなに緊張しなくてもいいですよ。村瀬さんは素行も優良ですので、生活指導面での話は特にありませんから」
「そう、なんですか……?」
「ええ。担任の私が保証します」
詩織は意味深に「ふふっ」と笑った。学校では、相当猫を被っているのだろう。
「それにしても、従姉妹ですか。仲はいいんですか?」
援交関係でした、とは絶対に言えない。曖昧に言葉を濁した遙香の肩に、詩織がもたれかかってくる。
「実のお姉ちゃんって感じです。ね、ハル。ふたりでよくお泊まりに行って、お風呂に入ったり、一緒に寝たり……。お互いのことならなんでも知ってますから」
「ふふ、仲がいいのね」
血の気が引いた。遙香の隣で、詩織がにんまりと笑っている。これ以上危険な発言をさせないために、話題を逸らさなければ。
「せ、先生それで、成績の方は……?」
「あ、そうでしたね」
木下先生は、直近で行われた模試の成績表を見せてくれた。遙香も学生時代に見慣れたもの。センター試験形式の模試で、スコアと大学の合格判定が印刷されている。
「村瀬さん、去年の今ごろから成績が伸び始めましてね。第一志望の合格判定、見てくださいますか?」
第一志望の合格可能性はA判定。その隣に、去年の模試の成績があった。C判定。2ランクアップ、ということになる。
「勉強がんばったのね、村瀬さん。とてもえらいわ」
「ハルが援助してくれましたから」
「しおちゃん!?」
昨日の夜のメッセージから……もっと言うと一昨日、中野駅で別れた時から詩織の様子がおかしい。やけに積極的というか、明らかに揺さぶりを掛けてきている。
子どものイタズラだ。そう考えて遙香はなんとか平静を装って、模試成績に視線を落とした。
文系だけあって、国語や英語の得点率は八割近い。ただ、やはり数学が平均点付近と穴になっている。
「……数学が低いですね」
詩織は「うぐ」とうめいて苦い顔をした。一矢報いてやった。
「そうなんです。文系の生徒にとって理数科目は、他の子と差を付ける得点源なんですが、そこがちょっとまだ弱いですね……」
「大人しく家に帰って勉強しなきゃね。池袋なんかに寄り道せずに!」
詩織の目がぎらりと光った。まずい、焚きつけてしまった。
「ひとりでするのも飽きちゃったし、今日はハルの家でしたいな? ダメ?」
隣に座っている詩織の首筋から下が、脳裏に浮かんできた。白くて細身の体に、小ぶりな乳房。くびれのラインからお尻、そしてあの場所のことまで。
遙香は顔を伏せた。真っ赤になった顔を木下先生に見られないように。
「それもいいかもしれませんね」
仲の良い従姉妹同士だと思って笑っている木下先生は、二人の間でどんなやりとりが行われているか知るよしもない。むしろ知っていたら困る。
どうしてこんなことに。
「ただ、少し思うところありまして」
不穏な展開に思えて、遙香は顔を上げた。
「村瀬さんの成績なら、もっと上を狙えるんです。第一志望を滑り止めにして、もう少しレベルの高いところを受験したら? って本人には言っているんですが……」
「でもあたし、ここに決めてるんで」
「とは言っても、ね……」
詩織の志望校をもう一度よく見た。第三志望までの大学と希望学科を見るとどれもバラバラ。教育学部や経営学部、あげく理系学科まで混ざっている。
「あ……」
遙香はそこで気づいた。第三志望までの大学には、共通点がある。
「池袋……」
「どうかしました、支倉さん?」
「ああ、いえ。なんでも……」
詩織が志望している大学は、どれもキャンパスが池袋にあった。
池袋、そこには遙香の職場があり、行きつけの喫茶店があり。そして、二人が出会った場所でもある。
詩織は子どもだ。子どもだとは分かっていたにしても、ここまで子どもだとは思いもしなかった。
なぜなら詩織は、遙香に会うためだけに、池袋にある大学に通おうとしているつもりなのだから。
「まあ、まだ出願まで時間はあるから、その時にまた話しましょう」
「はーい」
観念したのか、詩織は項垂れた様子で答えた。
こうして、三者面談は表面上は何事もなく終わった。遙香の心には、詩織から感じる痛いほどの好意だけが残った。
「すみません、支倉さん。少しだけいいですか?」
帰り支度をする詩織から離れて、木下先生と二人になる。木下先生は、不安そうな顔で虚空を見上げながら告げてきた。
「ご存じだと思いますが、村瀬さんは今一人暮らしなんです。これから受験で大変なのに、ご家族のサポートがないというのは心配で……」
「ええ」
「彼女、心配しなくても大丈夫、って顔をするんです。本当は大丈夫なはずないのに、一人でずっと気を張っているって言うか……」
詩織曰くのいい子の仮面のことかもしれない。大丈夫じゃないのに大丈夫なフリをする。それが詩織のクセだった。
「以前担任だった先生に聞いたんですが、村瀬さん、二年生になるまでは誰とも口を利かないような子で。それが、去年の春頃を境に別人みたいになったらしくて。思い当たる節はありませんか?」
去年の春頃と言えば、ちょうど詩織と遙香が出会った頃。思い当たる節と言えばそれしかない。
「ちょっと分かりませんね……」
「そうですか……」
木下先生は、しゅんとした顔をする。生徒のことを想ってここまで心配できる、今時珍しい良い先生なのだろう。
「でも、安心しました。お近くに従姉妹さんがいらっしゃるなら、彼女も心細くなったりしないと思います。それと、できればなんですが……」
木下先生は続けた。
「お忙しいとは思います。無理も承知です。ですができれば、可能な範囲でサポートしてあげていただけませんか? 教師の立場では無理でも、仲の良い従姉妹さんなら、支えになってあげられると思いますから」
詩織は子どもだ。子どもだからワガママも言うし、強がりも言う。一人暮らしで受験に挑む寂しさは、両親が居て、全面的にサポートを受けた遙香には想像もできない。
もし、詩織の精神的な支えになっている誰かが居なくなったら、彼女はどうなってしまうのだろう。強がって、いい子の仮面を被ったまま、受験に挑めるのだろうか。
そもそも、挑む意味すらなくなってしまうのではないか。
「支倉さん?」
考え込んでいたら、返事を忘れていた。
「ええ、もちろんです。従姉妹ですから……」
「ありがとうございます。支倉さんが側に居てくれてよかったです」
だけど、側には居られない。居てはいけない。
「帰ろっか、ハル」
遙香がプレゼントしたダッフルコートを着て、詩織がやってきた。
「……そうだね、しおちゃん」
今日は、直帰してもよいとの言葉を上長から貰っている。遙香は、詩織と一緒に蓮華ヶ丘の校門を後にした。
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