6日 水曜日

 十二月六日、水曜日。

 あたしは相変わらず、ゾンビみたいにうおーうおー言いながら、学校まで這っていった。授業の内容はさっぱり覚えていないし、ノートはミミズみたいな文字がうようよしている。このままでは、来週の期末考査で本物のゾンビになるのも時間の問題だった。

 でも、そんな心配をすることさえ億劫で。あたしの頭の中にあるのは、「ハルにうんと言わせる」問題の解法について。

 帰納法がいいか、背理法でいくか。


「村瀬さん、気分悪そうだったけど、大丈夫?」

 放課後、席に座ったまま呆けていたら、後ろの席の委員長から声を掛けられた。委員長は、真面目星の真面目星人。クラスのヒエラルキーからは若干ハブられ気味だけど、あたしはそこまで嫌っていない。

 そもそも、ハル以外の人間はあたしにとってどうでもいい。それがあたしの価値観で評価基準で、あたしの世界観。

「大丈夫だよ。ちょっと考えごとしてただけだから」

 とはいえ、波風立てるのもイヤだから、当たり障りのない、いい子を装う。よそ行きの声とよそ行きの顔で、さも「援交って何ですか?」って感じで。

 この、は結構役に立つ。仮面をつければあら不思議、周りの反応が優しくなる。本当は大丈夫じゃないのに、大丈夫なフリをしている健気な女の子、そんな風に受け取ってくれる。流行りの言葉を使うなら、忖度ってやつ。

「これ、今日の授業のノートなんだけど、よかったら使って。テスト範囲もメモしてあるから」

 いい子の仮面、さまさまだ。

 明日返す約束をして委員長のノートを借りた。ノートの記名で、委員長の名前が日比谷優姫なのだと初めて知った。


 ハルの車は、高校の隣のコンビニにはなかった。後で教頭に聞いたら、ウォーターサーバーの到着は来週らしい。それまでの間は、いつものようにバスで中野まで揺られる。そこから中央線で西へ、西へ。

 もっとハルの近くに住みたい。ハルと一緒に暮らしたい。ハルの住むひばりヶ丘の家でルームシェアして、そこから学校に通いたい。第一志望の池袋の大学に受かれば、一緒に通勤・通学して、一緒に家に帰ってこられる。ハルとずっと一緒に居られるから。

 ハルに言わせればこういうところが、子どもみたいなんだろうな、あたし。

 立川で降りて、重い自転車を漕ぐと、ようやく家に辿り着いた。このドアが、ハルの家の玄関に通じていればいいのに、なんて。都合のいいことを考えても、結局は見慣れた我が家だった。


 委員長のノートを写して、「ありがとう」とメッセージを送った。あとは適当にスタンプのやりとりをして、トークを終わらせる。

 ノートは写したけど勉強をする気にはなれなくてベッドに横になる。すると、指先が勝手にハルとのトーク画面を表示させた。

『会いたい』

『おねがい』

 昨日話したのに、あたしのメッセージに既読はついていなかった。

 時刻は午後九時。この時間なら、ハルは家に帰っているはず。


 ちょっと、イタズラしてみよう。そう思ったら、頬がにやけた。

 ハルに言わせればあたしは子どもなんだから、子どもは子どもらしく、大人の女をからかってやろう。

 そしてあたしは、スマホの上で指を滑らせる。

『ハル』

『ハルさん』

『ハルさーん』

『またスルーですか?』

『おーい』

『(๑•̀ㅂ•́)و✧』

『\\└('ω')┘//』

『₍₍ ◝('ω'◝) ⁾⁾ ₍₍ (◟'ω')◟ ⁾⁾』

 返事はない。当然既読もつかない。まあ、予想通り。

 だけど、この程度であたしは諦めない。メッセージアプリのスタンプを表示させて、連打した。通称・スタ爆。

 無料スタンプを五十個くらい送りつけて、反応を待つ。やっぱり、返事はない。これだけスマホを震わせれば、お風呂に入っていても気づくはずだ。

 ブロックされている、なんてことは考えないことにした。考えたら負けだ。

 しょうがないから、切り札を使ってみる。

『先生にあのこと話した』

 しばらくすると、メッセージとずらっと並んだスタンプすべてに、一気に既読が着いた。

 罠にかかった。しめしめ、って感じ。あたしは頬をにやけさせたまま、ハルの返事を待つ。

 すると。

「あのことってなに?」

 返ってきた。ただの九文字のメッセージなのに、あたしの頭の中では不機嫌そうなハルの声が響き渡った。

 あたしは素知らぬ顔で、メッセージを撃ち込む。

『ウォーターサーバーのこと』

『なんのことだと思ったの?』

「脅かさないでよ」

『おどかしてないし』

『いまなにしてるの?』

 また既読がつかなくなった。ノリが悪いな、あたしのハルは。

 と思ったら、既読がつく。

「飲んでるの」

「家で」

『ホントに?』

 しばらく待つと、写真が送られてきた。ワイングラスを持ったハルの左手。背景に映っているのはベッドとテレビ。テーブルには生ハム、チーズ、輪切りにしたバゲット、それと小さなフライパンに海老っぽいものが入っている。

『そのフライパンなに』

「スキレット。中身はアヒージョ」

『あひ~~~~~~』

『じょ』

『じぇじぇじぇ』

 くだらないことを送ったら既読が止まってしまった。ちゃんとしたメッセージを送らないと。

 ブラウザでアヒージョについて調べる。どうやらオリーブオイルでニンニクや野菜、シーフードを煮込む料理らしい。

『スープみたいにして食べるの?』

「ん」

『パンにひたしてる?』

「ん」

『おいしい?』

「ん」

『あたしの潮とどっちがおいしい?』

 既読がついて、間が空いた。ハルはあんなにあっけらかんとした性格のフリしてるくせに、結構恥ずかしがり屋で下ネタに弱い。今ごろきっと、吹き出したワインをティッシュで拭いているはず。

「わいんこぼしちゃったよ」

 ほら。かわいい。

『たいへんだね』

『片付けに行ってあげよっか』

 ちょっとだけ、返事を期待してしまった。だけど返ってくるのは却下のサイン。

「うちきたことないでし」

「ょ」

『教えて』

「だめ」

「きたないからため」

『掃除してあげるよ』

「いいから」

『たまってるんでしょ』

『ひとりでできる?』

 既読がついてまた止まった。あたしは笑いを堪えるのに必死になる。

「もう! またこぼした!」

「もうもうもう!」

『牛』

「よいこはもうねなさい」

『悪い子だから起きてる』

「わるいこもねなせい」

『普通の子は?』

『ねえねえ』

『ハルはいい子? 悪い子?』

「わるいおとなてす」

 誤入力が混じってきた。ハルはお酒が大好きなくせに、すぐ酔っ払う。

 そろそろ、ハルの声が聞きたい。通話したい。

『通話していい?』

「だめ」

「もう」

「ねて」

 迷わず通話ボタンを押した。通話は一瞬でキャンセルされた。もう一度押しても、状況は同じ。

 まだそこまで酔っ払ってないみたい。ハルの理性、案外しぶとい。

『通話してくれなきゃイタズラする』

『ホントにするよ』

『いいの?』

 既読はつくのに返事はなかった。

 つまり、イタズラしていいってこと。

 あたしはベッドから起き上がって、まずは一枚写真を撮った。ハルに買ってもらったジェラピケのふわふわパジャマのバストアップ。これを送って、メッセージを撃ち込む。

『一枚目』

『ハルが通話するまで写真送る』

 既読はついた。でもまだ通話はない。

 あたしはトップスをめくって、おへその写真を送る。

『二枚目』

 次に、ボトムスを下ろして、おへそとパンツを映す。相手はハルだから、全然恥ずかしくない。その写真を送って――

『三枚目』

 パンツに指先を掛けたところで、ハルから通話が掛かってきた。そりゃそうだ。未成年のアレが映った写真なんて持ってたら、即逮捕だもの。

 あたしはすぐに通話ボタンを押して、ハルに聞こえるように笑った。

「降参よ、降参。私の負け。まーけーでーすー!」

 ハルはかなり酔っ払ってて、出来上がっていた。ホテルの中で飲んでたときは、よくこんな感じになっていた。

 ハルのほうが子どもみたい。

「じゃ、恋人にして?」

「それとこれとはちがいますー!」

「どうして?」

「どうしてもこうしてもれすー!」

「ぜったい?」

 ハルの返事はなくなった。沈黙の後に出てくるかもしれない言葉が怖くて、あたしは矢継ぎ早に声を投げる。

「ハル、あたしにはハルしか居ないんだよ」

「ハルに助けてもらえて、あたし嬉しかったよ」

「そんなハルと、これからもずっと一緒にいたいんだよ」

「それでもだめ?」

 スマホを耳に押し当てる。どんな小さな音でも聞きたかったから。

 だけど、それで聞こえてきたのは、すーすーという空気が流れる音。時折「んがっ」なんて声が聞こえて、ハルが沈黙した意味が分かった。

「ハルー、寝てるのー?」

「ハルー、起きてお話しよー?」

「ねえねえハルー?」

「んう……。しおちゃん……しおちゃん……」

 ハルは寝息混じりに、あたしの名を呼んでいた。甘えてくるときのハルの声。助けてもらった時の凜々しい声とは違っていたけど、それで余計にハルのことを好きになった。

 これが、この人の本当の姿なんだって。を脱いだ姿をあたしに晒してくれてるんだって思って嬉しかった。

「はーい、しおちゃんですよ~」

「しおちゃん……しゅき……」

「あたしも好きだよ、ハル」

「しゅき…………」

 ハルに別れを切り出されたとき、あたしの世界は終わったと思った。でも昨日ハルと再会して、そして今日の通話で分かった。

 ハルは、あたしを嫌いになって別れたんじゃない。

 なにか別の理由があって、あたしとの関係を終わらせたんだ。


 なら、その理由が分かれば、解決できるかもしれない。終わってしまった関係をもう一度、糸を撚り戻すように繋ぎ直して、今度は恋人としてふたり一緒に過ごせるかもしれない。

「ハル、大好きだから」

「すう……すう……」

 スマホから聞こえるのは寝息だけ。あたしは最後に一言だけ言って、通話を切った。

「おやすみ、ハル」


 時計を見ると、午後十時を回っていた。ハルと話せてなんとなく頭がスッキリして、ゾンビみたいだったあたしはほんの少し蘇った。

 今から勉強しても時間はちょっとしかないけど、せめてテスト範囲のノートをまとめ直すことくらいはしよう。勉強机に座り直したあたしは、委員長――日比谷優姫さんのノートを感謝しながらもう一度開いた。

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