5日 火曜日

 池袋駅東口から徒歩十分。雑居ビル三階に遙香の職場がある。業務内容は、ウォーターサーバーのフランチャイズ。社用車に飲料水のポリタンクとお試しサーバーを積んで、家庭や職場に「おいしいお水はいらんかね」と売り歩く。

 遙香はこの仕事を「水商売」と呼んでいた。もちろん、自虐として。


「こんなノルマ、絶対ムリでしょ……」

 赤信号で車を止めた遙香は、ハンドルに額を押し当てた。

 池袋から私鉄沿線を走り、環七から中野方面に南下して池袋へ戻る。このルートで十件のご新規さんを獲得することがノルマだが、無料お試しすらうまくいかない。

 このご時世、おいしい水が飲みたい人は、すでに何かしらやっている。残っているのは水に関心のない人と、訪問営業を悪徳商法と一括りにする人だけ。そんな人相手に水商売が成立する勝算は、限りなく低い。

「水道水に毒いれたい……」

 背後からクラクションが鳴らされた。信号は青。アクセルを強めに踏むと、車内に満載した飲料水が「のんびり行こうよ」とちゃぷんと鳴った。


 コンビニの駐車場に車を止めて、お昼ご飯の肉まんを頬張る。助手席には、地図やら資料や鞄がごちゃごちゃに積まれていて、座席としての用を為していない。

 隣に結衣が座っていたら、どれほど心地よいだろう。

 おもむろに助手席を片付けた遙香は、結衣の姿を想像する。

「今日はどこ行くの、ハル」

「寒いから温泉は? 四時間走れば、四万温泉とか鬼怒川とかあるし」

「じゃ、それで。運転がんばってね」

「まっかせて!」

「ん。好きだよ、ハル」

 想像したのは結衣だったはずなのに、途中から詩織に変わっていた。妄想をやり直しても、鮮明に像を結ぶのは詩織の姿。時には私服で、時には学生服で、助手席に現れては妄想上の結衣を塗りつぶす。

「仕方ないんだよ」

 考えるのをやめて、カーステレオの音量を上げた。DJがクリスマスをネタに楽しげなトークを繰り広げていた。遙香の気持ちも知らずに。リクエストソングは、稲垣潤一のクリスマスキャロルの頃には。

 エンジンキーを回し、アクセルを踏む。曲の途中でラジオ局を変えた。


 午後三時を回っても、契約は一件も取れなかった。職場も家庭も、街の小さな診療所でさえ、門前払いを繰り返す。こうまで袖にされると、自分自身を否定されている気になってくる。

 挙げ句――


「腰が痛い……」

 運転とポリタンク運びを繰り返して、遙香の腰は悲鳴を上げた。社用車をコンビニの駐車場に滑り込ませ、大きく伸びをする。

 隣の学校からは、授業を終えた生徒達が下校している。青春を謳歌している少年少女と比べて、今の自分はどれだけ老け込んでしまったのだろう。近くに詩織が居たから、余計にギャップを感じてしまう。

 とはいえ、学校。教師達にとっては職場なのだ。おいしいお水のニーズがあるかもしれない。

「ダメ元で売り込んでみようかな……」

 鞄を持って、水商売モードに切り替える。正門の守衛に話を通すと、教頭が応じてくれた。運が向いてきたらしい。悲鳴を上げた腰に感謝して、応接室へ向かった。

 出迎えた教頭は五十代くらいの女性。脳内の営業マニュアルから、このターゲット層へのキラーフレーズを探す――


「いいタイミングで来てくれたわ! ちょうど職員室とカウンセラー室に欲し

いと思ってたのよ!」


 ――までもなく大歓迎された。拍子抜けした遙香はマニュアル通りに契約プランを説明するも、教頭はさっぱりと首を横に振る。

「あなたの目で実際に見て、判断してくださるかしら?」

 捨てる神あれば、拾う神あり。最高の顧客に巡り会えた。

 教頭に案内されて校内を回った。職員室は中規模オフィス、カウンセラー室は家庭用と見立てを説明しただけで契約は成立した。オフィス用契約は家庭用ノルマ五件分の価値がある。一気にノルマを半分稼げた計算だ。


「では、今後ともよろしくお願いします」

 教頭先生に満面の笑顔を見せて、来客用スリッパからパンプスに履き替えた。今日は胸を張って職場に戻れる。晩酌用のワインを開けよう。普段は立ち寄らない高級スーパーで、チーズと生ハムとバゲットも買って。

 なんてくだらないことを考えていると、背後から声が聞こえた。

「ハル?」

 振り向くと、そこには見慣れた少女が居た。

「しおちゃん……!?」


 私立蓮華ヶ丘高等学校。

 不運にもそこは、村瀬詩織の通う高校だった。


「はあ……」

 見送ってくれた教頭に「従姉妹です」と説明して、遙香は詩織を社用車に押し込んだ。場を切り抜けるためにはこうする他なかったのだが、心中は複雑そのものだ。

 営業ノルマ達成に近付いたのに、素直に喜べそうもない。

「ハル、ホントに水商売してたんだね。知らなかった」

「私もだよ、しおちゃんがここの生徒だなんて……」

「偶然ってすごいね?」

「ハラハラするだけよ……」

 知っていたら、絶対に近づかなかっただろう。私立校にしては珍しく、特徴のないありふれた制服だから、詩織と同じ制服だと気がつかなかったのだ。

「とりあえず、なんか聞かれても口裏合わせてよ?」

「どうしよっかな」

 詩織はイタズラっぽく微笑んだ。

 教員に関係をバラすなんてこと、さすがにシャレにならない。

「ウソだよ、秘密。私とハルは従姉妹。で、援交相手」

「特にその最後の言葉、絶対言わないで」

 詩織にシートベルトを付けてやって、遙香はアクセルを踏んだ。カーステレオの音量を上げて、当たり障りない言葉を探す。

「送ってあげる。中野駅でいいんだっけ」

「いつもの喫茶店がいいな」

「それはダメ」

「けち」

 それで会話は途切れた。

 社用車は、環七を中野方面へ向かう。交通量が増える時間帯に被ってしまって、車は遅々として進まない。気まずい時間も長くなる。

 沈黙を破ったのは詩織だった。

「どうして無視したの」

 聞こえていないフリで通そうとしたら、詩織にカーステレオを切られた。遙香の退路を完全に断ってから、詩織はもう一度尋ねてくる。

「ハルに会いたいって送ったんだけど」

「ごめん。忙しくて見てなかったかも」

「じゃあ、会ってくれる?」

「今会ってるでしょ」

「そうじゃなくて、池袋で」

 池袋で会う。その言葉の意味はひとつしかない。いつもの喫茶店で落ち合って、ホテルへ行くこと。詩織との関係を断って結衣を追いたい遙香は、黙るしかない。

「お金がないなら、なくてもいいよ」

「ホテルが負担なら、カラオケでもいい」

「喫茶店のチョコレートケーキも我慢する」


 詩織は、復縁したがっている。それは遙香にもイヤというほど伝わった。でも、聞き流す他なかった。そうでもしないと、身勝手で関係を終わらせたことへの罪悪感が膨らんでしまうから。


「あたし、ハルが好き」

 右折のタイミングを逃した。環七を走る対向車の車列が、中野駅までの道程を阻む。

「ハルにとっては遊びかもしれないけど、あたしは本気だから」

「本気、ね……」

 詩織は子どもなのだ。十八年しか生きていない子どもに、本気の恋が分かるはずもない。

 右折用信号が出たのを確認して、遙香はアクセルを思いきり踏み込んだ。詩織の小さな悲鳴は、バシャバシャと鳴る水の音にかき消された。


「お金がないなら、今までのお金はぜんぶ返す、受験もやめて高卒で働く。ハルが望むなら、キモオヤジとだって寝るから……」

 最後の言葉に無性に腹が立って、遙香はついつい口を挟んでしまった。

「あなたは子どもなの。社会の厳しさが分かってないからそんなことが言えるのよ」

「そんなことない! あたしは――」

「十八歳だから子どもじゃないって? そういうところが子どもなの。援交に手を出すくらいだから、お金なんて空から降ってくるとでも思ってるんでしょうけど、そうじゃないの! 現実はこれなの!」

 ちゃぷん、ちゃぷんと水が音を立てた。

「女だからって同期に先越されて、女はどうせ寿退社するからって安月給でこき使われて! 都合のいい時だけ男女平等持ち出して、女だろうが残業しろ休出しろ、生理中だろうがサボらず働けで、貯金もできずにストレスばっかり!」

 泣きたくなった。今の仕事は、とても辛くてやりがいもなくて。そのやりがいのなさを詩織で埋め合わせていたから、なんとかやってこれていた。

 詩織が居なくなれば、こんなにも自分は不安定になってしまう。


 助手席から、ぽたり、ぽたりと水の音がした。積み荷の飲料水の音だと思い込んで、遙香は車を止めた。中野駅から少し離れた路上に止めて、おざなりな言葉で詩織を追い出す。

「ほら、着いたよ」

 詩織は無言で社用車から降りた。これで詩織とはお別れになる。せめて最後によく見ておこうと、詩織を見た。

 詩織の顔は、いつかの時みたいにぐしゃぐしゃな泣き顔で。だけどその瞳は、らんらんと輝いていた。

「じゃあね、これで最後。新しい恋を見つけなさい」

「終わったなんて思ってないから」

「あなたね……」

 詩織はハンカチで涙を拭って、遙香に向けて言い放った。

「あたし、絶対、ハルの恋人になってやるから! ハルがうんって言ってくれるまで、ずっとずっと好きだって言い続けるから!」

 助手席のドアをバタンと締めて、詩織はあっかんべーして駅の方へ走っていった。甘ったるい、バニラみたいな残り香が、社用車の中に張り付いていた。

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