4日 月曜日

 土日の記憶がなかった。寝て、起きて、寝て。送ったメッセージに既読がつかないか確認して。もっと言葉を送ろうか、通話にしようか悩んで、悩んでいるうちにまた眠って。起きてスマホを見て落胆して。ただひたすら、そんなことを繰り返した。

『会いたい』

『おねがい』

 メッセージの返事はない。

 あたしは、一方的に『終わり』にされた。望まない援交から救ってくれた、援交相手のハルに。


 月初めの月曜日は全校朝礼がある。ズル休みしたかったけど、これ以上寝ていると心が腐ってしまう気がした。人はよからぬことを考え始めると、体の芯から腐っていくみたい。

 だから、ゾンビみたいな足取りでも、ラッシュの中に飛び込んだ。気がつくとあたしは、自分の席に着いている。教卓の真ん前、特等席。最悪。

 サルみたいな男子のわめき声も、表向き付き合ってやってる女子のヒエラルキーも、七時間目まである時間割も、日直当番に書かれたあたしの名前も、しかたなく読み始めた文庫本の冒頭も、ぜんぶ最悪。

 あたしのハルは、二階から落ちてこない。あたしはハルに、突き落とされたから。

 意を決してベッドを出ても、最悪な状況からは抜けられない。

 心が腐って、もげそうだった。


 体育館に移動して、背の低い順に並ぶ。女子の平均身長より少し高いあたしは、真ん中より後ろくらいに陣取る。

 あたしの前にいるクラスメイトは、ハルに似た長い黒髪。もしここにハルが居てくれたら、後ろから思いきり抱きつくのに。

 思い出すのは、ハルのことばかり。


「しおちゃん」

「ハル」

 ふかふかしたベッドの中で、裸で抱き合う。あたしとハルの身長は同じくらいだけど、あたしの方がハルより脚が長い。「現代っ子め」なんてハルはうらやましがるけど、あたしはハルのおっぱいがうらやましい。柔らかくて、張っていて、白くて、あたしより大きくて。

 そんな二人だから、抱き合うとぴったりハマる。あたしの小さな胸元にはハルの大きな胸が。あたしの股間にはハルの太ももが。頭からつま先までひとつになって、ハルの匂いと温度を感じられた。それはまるで――

「パズルみたい」

「パズル?」

「あたしたち、ジグソーパズルのピースみたいだな、って」

 隣り合ったピースは、かっちりハマる。作られた段階から、そうなる運命だから。

「しおちゃんって、ときどき詩人だよね」

 そう言って、ハルは笑ってた。あたしは恥ずかしくなって、唇でハルの口を塞いだ。

 あの時は、運命だって思ってた。この世界は、神様が作った七十億個のジグソーパズルで、隣り合ったピースは運命という糊でぴったりハマるようにできているって。それがあたしとハルなんだって思えて、幸せだった。

 でも――。


 あたしの心は、体育館の空気とフロアに冷やされた。幸せな温度はもうどこにもない。隣り合っていると思ったピースは、もう既読すら付けてくれない。

 ハルは今、なにをしているんだろう。

 どうしてあたしを『終わり』にしたんだろう。

 あたしのどこを嫌いになったんだろう。

 心が、腐っていく。


 気づくと、全校朝礼は終盤に差し掛かっていた。内容なんて聞く必要もない。どうせ、体調管理を徹底すること、来週から期末考査があること、受験を控えた三年生は最後の追い込みをかけること。

 ただ、ひとつだけ予想外だったことがあった。産休に入ったカウンセラーの代わりに、代理の人がやってきたこと。「遊びに行くと思って、相談に来てください」なんて言うけど、相談してどうにかなるものじゃない。

 悩みを聞いてくれるだけの人なんて要らない。解決してくれる人が欲しい。

 そして聞きたい。

 これ以上、心を腐らせないために、あたしはどうするべき?


 結局、あたしの頭は月曜日のハードスケジュールに耐えられなかった。一時限目の数学にノックアウトされて、保健室のベッド送りになってしまった。

 ホテルのベッドとは違う、鼻をつくような消毒液と、病院の匂い。嗅ぐだけで、病んでしまいそうになる。

「熱はないみたいだから、少し様子を見ましょう」

 保健室の先生に布団を掛けられて、白いカーテンの牢獄に閉じ込められる。こんなことになるんだったら、ズル休みして家で寝ていればよかった。

 目は冴えていた。睡眠は土日で充分取ってしまった。横になるだけで心が腐っていく。よくないことばかり考えてしまう。

「村瀬さん。一時間ほど留守にするから、なにかあったら電話してね」

 カーテンを開けた先生は、学内用のPHSを枕元に置いて去っていった。


 広い保健室に、あたしひとり。七十億個のピースのひとつだけが、囚われてしまった。

 教室を出る前に、密かに忍ばせていたスマホを取り出す。メッセージはない。ハルは既読も付けてくれていない。

 忙しくて見てないだけかもしれない。でも、ブロックされたのかもしれない。あたしが嫌いになったから、あたしじゃダメだったから、あたしが子どもだったから、あたしはハルのピースにハマらなかったから。

 悪い考えが止められない。心が腐る。疼く。痛む。

 泣きたくなかったのに、泣いた。声を殺す必要はなかったから、わんわん泣いた。あの日のホテルでも、帰りのバスでも、家でもこんなに大声では泣かなかったのに、泣き腫らした。

 悲しくて、切なくて、辛くて、自分を責めた。

 冗談だよって言って、笑ってほしかった。

 唇を、舌を、指を、視線を、胸を、脚を感じたかった。


 スマホの写真フォルダを開いた。ほとんどがハルとの写真。笑顔が素敵なハル、寝ぼけた顔がかわいいハル、変顔のハル。ハルハルハル。ハルと過ごした一年半が、あたしのスマホに詰まってる。あたしは、ハル以外の写真をほとんど撮っていない。

 次々スライドしていると、ハルの裸の写真が見つかった。どうしても一枚だけ、ハルの綺麗なおっぱいが映ってるものが欲しくて、無理を言って撮らせてもらったもの。「流出とかしないでよ?」なんて言われて、あたしは怒った。あたしが、あたしのハルを誰かに晒したりするはずないでしょ、って。

「ハル……あたし……」

 左手にスマホを持ち替えて、右手をスカートの中へ潜り込ませた。下着の上から、ハルがやってくれたように指を這わせて、何度も何度も擦りつける。

「ハル……ハル……」

 ハルのことを思い出したら、ほんの少しだけ脳がシビれて、過去に浸ることができた。ホテルでされたこと、ホテルでしたこと。一年半の蜜月をスライドショーみたいに脳裏いっぱいに思い浮かべて。

 ああ、あたしはバカだ。

 こんなことをしても意味はないのに、指を止められない。

 こんなところで、なにをやっているんだろう。

 どうして涙が止まらないんだろう。

 どうしてこんなに惨めなんだろう。


「あー、キミ以外にも人、居るんだけどね」

 びっくりした、バレてしまった――。

 思わず布団を頭から被って隠れた。だけど、カーテンを開ける音は聞こえない。恐る恐る布団をめくると、カーテンの向こうにはぼんやりと人影が浮かんでいた。保健医の先生の声ではない、別の女性の声。

「ま、きっと寝言だよね」

 カーテンの向こうに居る人は、あたしの無様な姿を見て見ぬフリするつもりらしい。あたしはとっさにそれに乗っかって、ハルの名を呼び続けた。さも、切ない夢にうなされているように。

「これはあたしのひとり言だから、聞き流してほしいんだけど……なんて言わなくても、寝てるならいっかな」

 カーテンの向こうの女性はそう前置きして、あたしに語り始めた。

「キミが名前を呼ぶ子は、とても大切なんでしょうね。でも、その様子じゃフラれちゃったって感じかな」

 女性は続けた。

「なら、キミが取るべき行動は、別れて新しい恋を探すこと」

 そんなのは、絶対イヤだ。

 カーテンの向こうの女性に向かって、無言の敵視を送る。すると、女性は「とは言え、諦めきれないだろうから」と前置きして告げる。


「だったら、自分の想いをちゃんと伝えることだ」


 息を呑んだ。

 あたしは、自分の気持ちをちゃんとハルに伝えていただろうか。

 ハルから教えられた愛情表現以外の、あたしだけの言葉で、ハルに気持ちをぶつけたことがあっただろうか。

 振り返る。「ハル、好きだよ」は、ベッドで絡み合う合図。指先を絡めるのも舌を溶け合わせるのも、ハルから教えてもらった肉体言語。あたしはハルに言われたまま、恋人ごっこをしていただけ。

 だったら、そう。恋人ごっこをやめればいい。


「しっかりぶつけて受け止めてもらえ。女の子には、その権利がある!」


 ぶつけよう。あたしの本音を。

 春を売って、春を買う、援交関係の会社員と女子高生じゃなくて、ウソでもごっこ遊びでもない、恋人同士のハルとしおちゃんになりたいから。


「困ったら相談においで。あたしはカウンセラー室でヒマしてるからさ」

 カーテン越しの女性の正体は、今朝の朝礼に居たカウンセラーの先生だった。

 あたしは寝ていることになっている。「ありがとうございます」と言いたい気持ちを抑えて、あたしはもう一度布団に潜った。

 そして、考える。

 あたしがどれだけハルを――支倉遙香を愛しているか、それを伝えるキラーフレーズを。

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