3日 日曜日

 鏡に向かい、髪をチェックする。前髪は整っているか、しっかり梳かされているか、毛先に枝毛はないか。まるで学生時代に戻ったみたいに、毛先を遊ばせては整えてみる。長い黒髪をつまむと気持ちパサついて、小さなため息が漏れた。

 思い当たる節は、日頃からの不摂生。ストレスの絶えない職場で給料は少なくて、食生活は崩壊おまけに睡眠不足。その他、挙げるとキリはないが、挙げたところでどうにもならない。

「ま、これでいっか」

 どうにもならないので、前髪の行方は妥協した。

 世の中、どうにもならないことばかり。


 十二月三日、日曜日。

 自宅を出た遙香は、最寄り駅から各停に乗る。快速停車駅で乗り換えようとしたところで、数学の問題みたいに思えて面白くなった。


 問.三

 遙香はいま、ひばりヶ丘駅にいる。早すぎず遅すぎないちょうどいい時間に待ち合わせ場所の池袋駅に着くには、快速に乗り換えるべきか否か答えよ。


 こんなことを思い浮かべてしまうのは、詩織のせいだ。詩織が苦手にしている数学を手伝ったあと、己の性欲の発散を手伝ってもらっていたから。

 はっきり言って、どうかしている。どうかしていた。

 詩織相手に行ったこと、してもらったことを思い出すと急に恥ずかしくなって、乗り換えないことに決めた。乗客が少ない方が、耳まで真っ赤になった顔を晒さずに済むから。


 スマホに目を落とすと、メッセージが入っていた。詩織からじゃない。

 今日の予定は、高校の同窓会。メッセージアプリの通知がうるさいくらいに手の中で震えている。せり上がってくるトークをさかのぼって、ようやく彼女の名前を見つけた。

 瀬名結衣。

 今日の同窓会に参加するのは、彼女と会うため。八年越しの想い人に少しでも近付きたかった、一途に彼女を追いたかった。

 だから今日は、遙香にとって勝負の日。

 どうにもならないことを、どうにかする日。


「お待たせ」

 遙香は、いけふくろう像の前で同窓生たちと合流した。

 八年の歳月は、女子高生を大人の女に変貌させていた。「変わった」だの「変わらない」だの、とりとめのない話をしていると、最後のひとりがやってくる。

「おつかれー」

 気だるそうな声の主は結衣だった。

 高校時代と同じ、ざっくり切ったボブ。マナー程度の薄いメイクに、トレードマークのダッフルコート。結衣は、あの頃となにも変わらない。世間の流行すべてに唾を吐きかけて、頑なに自分の世界を貫いている。そんな意志の強さが好きだった。

 幹事役に先導され、かしましい一行は会場へ向けて歩き出す。集団の最後尾を歩いている結衣にそれとなく近付いて、遙香は思いきって切り出した。

「変わんないね、ゆいちゃんは」

「…………」

 結衣は目を細めた。目が悪い彼女は、話しかけてきた人をいつもこうしてにらみつける。我が道を行く性格にくわえて出会い頭にこれだから、友達と呼べる人は少ない。

「……なんだ、ハルか。どこの美女かと思ったよ」

 唇の端だけを釣り上げて、結衣は笑った。美女だと言われて、鏡の前で格闘した十五分が報われた気がする。

「ハルは今なにやってんの」

「普通の営業職。ゆいちゃんは?」

「あたしは普通」

「普通って」

 もう一度ちゃんと聞こうと思った矢先、背後から思いきり胸を揉みしだかれた。

 通称、いきなりおっぱいゲーム。恥ずかしがったら負け。

 こんなイタズラを仕掛けてくる人間は、ひとりしか居ない。

「後ろに居るの、茜音ちゃんでしょ」

 樋口茜音。このバカげたゲームの発案者だ。

「あったりー! ていうかまた育ってるな、うらやましい!」

 結衣は、再び目を細めて言った。

「ああ、あんたも来たんだ、茜音」

「もー。同窓会のトーク画面見たら分かるでしょ」

 遙香の頬は綻んでいた。懐かしかった。

 学生時代は、遙香、結衣、茜音の三人でよく遊んでいた。共通の趣味もないのに三人で池袋に来て適当に店をぶらつく。勉強なんてほとんどせず、毎日遊び倒してばかりだった。

 詩織のように、毎日遅くまで勉強して、日付が変わる頃に「おやすみ」の一言を送るような学生生活じゃない。

 そう、詩織のように。

「顔赤いからハルの負け」

「遙香ちゃんはすぐ顔に出るからね~」

 思い出して、自爆した。潔く負けを認めて、茜音へのクレープおごりが決定した。


 同窓会の会場は、池袋の貸し切りレストラン。

 立食パーティー形式の会場の隅に陣取って、遙香達は同窓生の様子を眺めていた。

 見た顔もあれば、忘れてしまった顔もある。「男子三日会わざれば」という言葉は、女性にこそ相応しい。たいした変化もない男子に比べて、髪も化粧も衣服も違うと誰が誰だか分からないから。

「お、橘くんがアタックした」

「やれ、柏木。橘をフッちまえ」

 結衣と茜音は、同窓会で繰り広げられる恋の鞘当て実況に夢中だ。遙香はひとりスマホに視線を落とし、メッセージを読み直す。

 最新のメッセージは、一昨日の金曜日から途絶えていた。

  『しおちゃん、今日いい?』

『いいよ、ハル』

  『やった』

『楽しみ』

  『だね』

『待ってる』

  『いま会社でた』

『いつもの喫茶店』

 そこからはスタンプの応酬。同じスタンプが大量に並んでいた。

 蜜月のやりとりはそれで終わり。あの日、一方的に関係の終わりを切り出して以来、詩織からの音沙汰はない。

「どした、ハル。彼氏か?」

「えー、遙香ちゃん彼氏いるの!?」

 慌ててスマホを伏せた。遙香が女性しか愛せないことはこの場の誰も知らないし、メッセージの相手を知られるワケにはいかないから。


 遙香のような人々への風当たりは、やはりまだ冷たい。すべてを告白カミングアウトすれば不要なレッテルばかり貼られて、そのせいで失う物があまりに多い。どうにもならないように、この世の中はできているのかもしれない。


「ああ、うん。友達」

 そう言って場を繕い、特に興味もない他人の恋の鞘当てに話題を移すことしかできなかった。ただ、結衣の「彼氏か?」という反応は、遙香の心に小さなひび割れを作った。

 どうにもならないことかもしれないけれど、どうにかしたい。

「しっかし、モテてた遙香ちゃんに居ないとなると、結衣ちーには……」

「居るワケないって。興味もないし」

「ホント、なーんにも変わんないよね。結衣ちー」

 学生時代のようにひとしきりケタケタ笑うと、茜音は「樋口茜音、アタックしてきます!」と言い残し、男性の群れの中に飛び込んでいった。

「茜音、妙にめかし込んでると思ったらこれが目的か……」

「ずっと橘くん一筋だったもんね」

「気が長いね、とっとと告りゃいいのにさ」


 ――告白は、あなたが考えているより重いものなんだよ、結衣ちゃん。


 そんな言葉を呑み込んで、遙香は結衣を見上げた。昔となにも変わらない、誰の借り物でもない意見と世界観。その世界観の中に自分を入れてほしくて、八年間思い悩んだ。

 だけど、もう悩むのは終わりにする。そう決めたのだ。

「ねえ、結衣ちゃん。クリスマスって予定ある?」

「だからあるワケないっての。ケンカ売ってんの?」

 目を細めてくる結衣に、遙香は声の震えが伝わらないように告げた。

「じゃ、女子会しない? クリスマス反省会、来年に向けてがんばろーって感じで」

「がんばる気もないけど。ま、いいよ。予定空いてるし」

「やった!」

 心の底から嬉しかった。

 対岸では、男子達から冷やかされながら、茜音と橘が店の奥へと消えていった。茜音の表情は見るからに真っ赤で、それでいて晴れやかだった。

 あんな顔がしたい、と遙香は思う。

 長年想い続けた人に告白して認められて、晴れやかに笑いたい。

「こりゃ、クリスマスはハルとサシ飲みだね」

「そうだね」

 ありがとう、茜音。ありがとう、橘くん。

 末永く、お幸せに。

「連絡先、交換しとこ」

 おもむろにスマホを取り出した結衣の言葉にハッとして、遙香もスマホを出した。互いのIDを教え合うと、大きな一歩を踏み出せたような気がした。

「じゃ、いろいろ決まったらメールするね」

「ん」と短い返事をして、結衣はスマホをしまう。今時珍しい旧式のスマホを使っているのが、学生時代の頃からケータイをまともに携帯していなかった結衣らしい。

 その時、遙香のスマホが震えた。それは詩織からのメッセージだった。


『会いたい』

『おねがい』


 遙香は、既読を付けずスマホをしまった。

 そして、同窓会の観察に結衣とともに興じる。特に興味もなかった他人の恋の鞘当てが、結衣と一緒だと思うととても楽しかった。

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