2日 土曜日
ハルに出会ったのは、去年の春だった。
高二の春、「お小遣い稼ぎになる」って言われて、サイトにIDを登録した日の帰り道。バスを降りた時にスマホが鳴って、あたしに会いたい人が池袋に居ることを知らせてきた。
ホ別ゴ有、池袋西口@苺。
その頃のあたしは、呪文みたいな単語の意味が分からなくて。でもみんなやってるし、お金になるならいいやって軽い気持ちで「OK」と伝えた。今ならそんなバカなこと、絶対にしないけど。
中野駅からバスで池袋へ。バーガーショップの前に、小汚いおじさんが待っていた。『電器店の紙袋が僕のチャームポイントだよ^^;』ってメッセくれたからすぐ分かった。キモい。
おじさんはあたしに「君かわいいからイチゴじゃなくてゴナシサンゴは?」なんて言ってくる。苺が珊瑚に変わるのは、あたしがかわいいからなんだ、なんて思ったし、さらに「ソクソクならゴゴ」って付け加えてくる。
苺、珊瑚、午後。
やっと閃いた。すべては数字の語呂合わせ。
「つまり、ゴナシでソクソクなら五万五千円?」
おじさんは、ニタアって笑った。キモかった。表情を引きつらせないようにするのが大変だった。
でも、女子高生にとって五万五千円は大金。おじさんとセックスして五万なら我慢してもいいやって、その時のあたしは思った。クソつまんないおじさんのシャレを聞き流してホテルへ歩きながら、さっきの呪文の意味をネットで調べて、愕然とした。
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手元のスマホから頭を上げておじさんの横顔を見た。春なのに冬景色な頭、春なのに真夏みたいな額の汗、春なのに秋みたいな食欲旺盛ぶり。ぽかぽかした日なのに寒気がして鳥肌が立った。
こんな人に、あたしの春を売りたくない。
人気の少ない路地に入ったとたん、キモオヤジはあたしの手を湿った手で握ってきた。離そうにも握力が強すぎて、これ以上触りたくもなくて振りほどけない。
不潔で小汚いキモオヤジとホテルに入るなりフェラして挿入。
想像したら怖かった。なんてことをしてしまったんだろうって、今さらながらに後悔した。「やっぱやめよう」って言いたかった。
でも、怖くて言えない――。
「そうだ、君は初めて?」
「初めて……?」
聞き返したところで、気づいた。処女かどうかってこと。
あたしの反応を見たキモオヤジはまたニタァっと、見たことないようなキモい笑顔を見せてきた。
「あの、あたし……」
「心配ないよぉ。おじさんが優しくしてあげるからねぇ」
キモいキモいキモい、怖い怖い怖い。
あたしはこのキモオヤジにもってかれる。心も、体も、おっぱいも、子宮も。もう終わりだと思った、助けてほしかった、軽い気持ちで援交になんて手を出すんじゃなかった。
誰か、助けて――。
「あの、ちょっと道をお尋ねしてもいいですか?」
あたしの前に現れた、ほがらかに笑う大人の女性。年齢は、二十代そこそこで。色白で長い黒髪の、綺麗なお姉さんだった。
「駅前交番に行きたいんですけど、案内してもらえませんか?」
「え、駅前交番は……」
キモオヤジは、交番という言葉であからさまにキョドった。握られた手が強く締めつけられて、あたしに言うことを聞かせようとしているみたいで。
「じゃあ、そちらの娘さんに頼みますね」
お姉さんは、優しい笑顔だった。その優しくてまぶしい笑顔のおかげで、あたしはようやく気がついた。
この人は、あたしを助けようとしてくれている。だったら。
「ご存じないですか、駅前交番?」
「……知ってます。ついてきてください」
キモオヤジの手を振り切って、あたしは池袋西口へ足早に戻った。キモい声がしたけど振り返らず、まっすぐ路地を抜けて大きな通りへ出た。
もう、追いかけてはこない。気が抜けたあたしは、立っていられなくなった。
「……大丈夫、怖かったね。もう心配ないからね」
お姉さんの声で安心した。お姉さんの声に泣いた。
お姉さんの声が好きになった。
お姉さんに連れられて、近くの喫茶店へ入った。援助交際の代償は、大人でも子どもでも大きい。都条例とか決まっているらしいけど、この時のあたしはただただ子どもで、事の重大さをなにも分かっていなかった。
だから、お姉さんがあたしを交番に連れて行かなかったのはきっと、お姉さんの優しさだと思う。
「さて、なに食べよっか! ここはお姉さんに任せていいから」
お姉さんは朗らかに笑って、あたしに見えるようメニューを開いた。ドリンク、サンドイッチとページをめくり、最後のケーキセットで手を止める。
「ケーキにしよっか。苺がいい? それともチョコ?」
苺は、一万五千円。ホ別ゴ有で。
「……チョコで」
「私もチョコ好き~」
お姉さんはとろけるような笑顔で、店員を呼んで注文する。その間、あたしはスマホの通知を切ることに必死だった。キモオヤジの連絡先を消去した。援交サイトのIDは消去できなかったから、絶対に誰も使わなさそうな適当なIDで上書きした。今日あったこともなにかで上書きしようと必死だった。
でも、上書きできない。消えてはくれない。ハゲた汗かきのデブ、電器店の紙袋。そしてあの気持ちの悪い笑顔。
「よしよし」
お姉さんは、私の頭を撫でてくれた。注文したケーキセットが届くまで、あたしはずっと震えていた。
「落ち着いた?」
四角いチョコレートケーキを見ながら、あたしは小さく頷いた。長い間息を止めていた人みたいに、一気に息を吸い込んで吐いたら、やっとお姉さんの顔を見る決意ができた。
「……ありがとうございます」
「ふふ、美少女がだいなし」
お姉さんはそういうと、使っていないおしぼりであたしの顔を拭いてくれた。きっと、涙と鼻水でひどいことになっていたんだと思う。恥ずかしい。
「ありがとうございます、助けてくれて……」
お姉さんは「あはは」と笑った。笑顔が素敵な人だった。
「気をつけなきゃね。都会は怖いから」
意外と短いお説教のあと、お姉さんはケーキの虜になった。「おいしい!」、「シャスデリ!」、「シェフを呼べ!」なんて変なことばかり言うから、あたしはついつい笑ってしまう。
「ん、かわいくなった! お姉さんイチオシ!」
どきりとした。キモいおじさんに「かわいい」って言われるのとは、全然違った。
それが柄にもなく、恥ずかしくて。でも、イヤな恥ずかしさじゃなくて。
なぜか、このお姉さんにもっとほめられたいって思った。
「ほら、美少女ちゃんも食べよ食べよ!」
あたしの手はまだ震えていたけど、怯えるばかりなのもイヤだった。フォークを掴んで、四角いケーキを縦に割って突き刺した。不格好でもいいから、ケーキくらい普通に食べられるところを見せたかった。
「シャスデリ?」
お姉さんの一言で、やっとのことで食べたケーキを吹き出した。
あの喫茶店のチョコレートケーキは、今ではあたしの大好物なのに。すごくもったいない。
だいぶ落ち着いてきたから、喫茶店を出ることになった。財布を出したけど、お姉さんは見ず知らずのあたしのケーキセットまで支払ってくれた。
そんなお姉さんにお礼がしたくて、あたしは名前を聞こうと思った。だけど、別れ際、とっさに出てきたのは――
「お姉さんは、何者ですか?」
我ながらひどい聞き方だったって思う。もっと聞き方あるだろって。仮にも恩人なのにだし。
お姉さんは「恩着せがましくなるから名乗りたくはなかったんだけど」と唸って、鞄の中から名刺を取り出した。
「サラリーマンしてます。支倉遙香です」
聞いたことのない会社の名前とロゴ、そして営業部・支倉遙香の文字。
お姉さんは、遙香さんと言うらしい。漢字は違うけど、うららかで暖かい、春らしい素敵な名前。
「そうだよね。名乗らないと不安だったね。気づかなくてごめんなさい」
「いえ、そんなことない――」
ずるり、とあたしの頭の中にあの光景が蘇る。悪夢がこびりつくのと同じように、ちょっとやそっとじゃ消えてくれないのかもしれない。
春先は、花冷え。日が落ちると、急に冷えてくる。でも、震えるのは、寒さのせいじゃなかった。
あの記憶が、あたしを追い詰めてくる。
「……怖い」
「だ、大丈夫?」
遙香さんの心配そうな声がする。この人には、これ以上迷惑を掛けたくない。大丈夫なところを見せて、安心してもらいたい。
でも、膝は震えて、歯はガタガタ鳴って。あたしは喫茶店の入口でうずくまる。
目の前に広がるのは、日が暮れた街並み。街灯とネオンサインが照らす大通りが、あの時に見た人気の少ない路地に見えて。
「ごめん、なさい……。歩けない……」
あの時のトラウマが蘇って。
あたしは、怖くて進めない。
「ん~……」
遙香さんは、うなり始めた。一番迷惑を掛けたくない人に、あたしは迷惑を掛けてしまった。こんなあたしのことは放っておいて、家に帰ってほしかった。
でも、心のどこかで、この人に甘えたかった。
あの最悪な記憶を、上書きしてほしかった。
「遙香さん……上書きしてください……」
「上書き……?」
自分でも何を言っているんだろうって思った。あたしの口から出てきたのは、とてつもない方法で、普通に考えたらあり得ないこと。本当にひどい、無茶苦茶なワガママ。
とてもよく覚えている。だってそれが、すべての始まりだったから。
「あたしとホテルに行って……記憶を、上書きしてください……」
あたしはその日、
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