誰が聖夜に笑うのか
パラダイス農家
第一章 ハルとしおちゃん
1日 金曜日
私には、ふたつの顔がある。
「お疲れさまです」
支倉遙香は、自身のタイムカードを切って、足早に職場を出る。
今日は平成二十九年十二月一日、金曜日。運命のクリスマスまでは、あと二十日あまり。この長くも短い期間で、どうしても掴み取らねばならないものがある。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「いいよ。宿題やってたし」
事前に決めた喫茶店で、遙香は村瀬詩織と合流する。テーブルには食べ終わったケーキセット。そして教科書とノート。
来年、受験を控えた彼女は、勉強に余念がない。制服を着崩さず、身なりもこぎれいにしている。見た目はまさに、真面目な女子校生。決して“そういう事”をしているような、不真面目な子には思えない。
いや、そういう事をする子は不真面目、という考え方自体がもう古いのかもしれないけれど。
「じゃ、行こうか」
「うん」
ケーキセットの代金を支払い、遙香と詩織は日が落ちた繁華街を歩く。遙香はフォーマルなコート、詩織は学校指定のブラウスの上からダッフルコート。
池袋の街を行き交う人々は、連れだって歩く二人の女性をどう見るだろう。先生と生徒か、歳の離れた姉妹か、はたまた歳の近い親子か。それとも、誰も二人のことなど気にもしていないか。最後であればいいと遙香は思う。
二人は、池袋駅西口を目指す。目的地は、乱立するネオンサインを抜けた先にあるファッションホテル。
「今日はどこにしようかな~?」
ホテルの自動ドアをくぐると、部屋の写真がタイルのように並んでいた。その前に立って、詩織は楽しげにタイルを指さしていく。「どこにしようかな」と、その後に続く調子外れなささやき声が、遙香の心に楔を打ち込んだ。
もちろん、分かっている。詩織は、遙香の心に楔を打ち込むようなことはしない。
遙香自身が作った亀裂に、自分勝手に詩織の言葉を打ち込んだだけ。
「ねえ、ここでいい?」
「ああ、うん……」
詩織は一番安い部屋を選び、ボタンを押した。選んだ部屋のパネルが点滅し、そこへ向かえと遙香を責め立ててくる。二〇七号室。
女子高校生・村瀬詩織。どうしてこんな子が、と思えるくらいに平凡な少女が、自身の若い性を売り物にしている。
そして二十五歳になるOL、支倉遙香は、そんな彼女を買っている。
二〇七号室。借り物の清潔さが漂うこの部屋で、これから二人は売買契約を結ぶ。契約書も領収書もない、記録に残らないやり方で。
「ハル。キスして」
詩織は、遙香の事をハルと呼ぶ。こんな風に遙香を呼ぶのは、詩織を除いて一人しか居ない。でもその人は、遙香にこんなことを言ってはくれなかった。
抱き合って、口づけする。柔らかな唇の感触が、遙香の決意を揺るがせた。だけど、言わなくてはいけない。今日詩織と待ち合わせたのは、決意を伝えるためだ。
この関係を終わりにする。
だけど、言い出せない。唇だけではなく、その決意までもが詩織とのキスで封じられてしまう。
いつの間にか、互いの衣服は脱がされていた。二人分の女の抜け殻が、冷たいホテルの床を這っている。
「お風呂入れていい? 勉強漬けだからゆっくりしたくて」
頷くと、詩織は湯船にお湯を貯めはじめた。白いブラウスと下着だけ、その後ろ姿が愛おしくて、切なくて。いけないと分かっているのに、抱きしめてしまっていた。
「しおちゃん……」
「甘えんぼだね、ハルは」
バスタブに腰掛けた詩織の腰に抱きついて、滑らかな太ももに顔を埋めた。
止められない。この関係が、仮初めのものだと分かっているのに、ぬくもりを求めてしまう。
最後なのだから、触れることなく終えようと考えていたのに、最後なのだから思う存分詩織を堪能したくなる。理性なんて、本能の奴隷だ。理性は、本能が決めたことを正当化する役割しかない。
だから、詩織が一糸まとわぬ姿になった時も、二人で体を洗い合った時も、軽い愛撫をしあってキスした時も、互いの体をタオルで拭きあった時も。遙香は、欲求を正当化できる口実を探していた。
自分は客だから。対価を払っているから。割り切った関係だから。最後だから。
だから、詩織を抱きたい。詩織に抱かれたい。
甘い匂いと温かな体温の中に、溶けていきたい――。
下着をはき直して、ベッドのへりに二人並んで座る。「まずは話をしてから」というのが、いつしか二人の間の不文律となっていた。
最近のトピックスは、詩織の受験勉強について。はやる心をおさえながら、遙香は詩織に尋ねる。
「勉強はどう?」
「まあまあ。模試の成績もよかったし」
「たしか立教だっけ。しおちゃんの家からは遠いね」
「終電なくなったら、ハルを呼べばいいかなって」
「私、お金なくなっちゃうかも」
「その時は、さ……」
詩織は、言葉に詰まった。答えを促すと、返事代わりに詩織がもたれかかってくる。
同じシャンプーを使っているのに、詩織の匂いはまるで違う。シャンプーのラベンダーが、詩織の甘ったるいバニラの香りに負けているから。
そして遙香も、この匂いに負かされる。遙香を突き動かすスイッチが入って、五感すべてで詩織を求めてしまう。詩織もそれを知っているから、唇を近づけてくる。
これが、始まりの合図。
「好きだよ、ハル」
お金を握らせて言わせている、都合のいいウソだ。だけど、ウソだと分かっているのに、遙香は救われる。唇を合わせ、肌のぬくもりを感じるだけで、日々のどんな苦しみも忘れられる。
仮初めの、お金で買っているだけの愛モドキが、ひび割れた心へ染み込み、乾ききった愛欲を満たしていく。伝えられない言葉も、別れの決意もすべて等しく呑み込んで、その瞳が、唇が、舌が、指先が、遙香の思考を真っ白にとろけさせる。
――はずだった。
「ハル、泣いてるの?」
詩織に指摘されるまで気づかなかった。まぶたを開くと、覗き込んでいる詩織の顔がぼやけていた。
泣いていた。行為の最中だというのに、涙が止まらない。
「痛かった?」
痛かったのは、詩織の指先じゃない。
身勝手な自分へ向けられた詩織の優しさが、痛かった。
「ハル――」
「ねえ、しおちゃん」
泣いてしまうと分かっていた。でも、けじめをつけたかった。
本能の奴隷に過ぎなかった理性を律して、遙香はずっと言おうとしていた言葉をひねり出した。
「私たち、終わりにしよう」
詩織は目を見開いた。感情を表に出さない詩織にしては珍しい驚きように、遙香は続く言葉を継げなかった。
「なん、で……」
「……ごめん、もう帰ろう。ちゃんとお金は渡すから」
遙香はひとり起き上がり、シャワーも浴びずに着替え始めた。二人の間に言葉はない。先ほどまでの蜜月は冷え切って、ひび割れて、壊れた。
「本当に、終わりなの?」
背中に投げかけられた詩織の声は震えていた。それでも、遙香は振り返らない。
「ここにお金置いておくから。余ったら参考書でも買って」
質問に答えず、顔も合わせずに、遙香は二〇七号室を足早に立ち去った。
自分はあまりに身勝手だ、と遙香は思った。
だけど、どうしても掴み取りたいものがあった。諦めきれないものがあった。
だから、心地よい仮初めの関係を葬ってでも、一途に追いかけようと決めたのだ。
人混みの池袋駅を足早に歩む。会社の同僚に見つからないように、目を光らせる警察に見つからないように、そして詩織に見つからないように。
駅のホームから満員電車に乗り込むまで、髪が濡れたままになっていることにすら気づかなかった。
私には、ふたつの顔があった。
ひとつは、援交サイトで知り合った村瀬詩織を買うダメな女の顔。
もうひとつは、幼馴染みの瀬名結衣へ想いを捨てられない女の顔。
でも、顔はひとつだけでいい。
私は、村瀬詩織を断ちきって、瀬名結衣に告白する。
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