第5話
さすがに不快が表情に出てしまっていたのでしょうか、少女は私の顔をじっと見上げて、それからさもさもバカにしたように鼻を鳴らしました。
「は、何をこの程度で驚いてるのよ、今から海の神秘を知ろうって云うのに」
「海の神秘? あの……『彼』の話をしてくれるんじゃ?」
「そうよ、だから海の神秘なんじゃないの」
訳が分からずに立ち尽くしていると、少女はとんでもないことを言いだしました。
「あなたの彼は海になった」
「え?」
「聞こえなかったの? あなたの彼は海になったの。だから死んだわけじゃないわ、元気だしなさいって」
少女の口調は昨夜の晩御飯の話でもするかのように冷静で、これがわずかに私の胸を焦がしました。
「死んでも、海になっても同じことよ、だって、もう二度と彼には会えないんだもの!」
「うるさい。大人なのに、もっと静かに話せないの?」
自分よりもはるかに目線の低い子供にたしなめられて、私は顔を赤らめました。
「あ、ごめんなさい」
「わかればいいのよ、わかれば」
この少女は、どうしてこうも意地悪なのでしょう。まるで私を煽るみたいに、わざと挑発的な声音で話すからでしょうか。
「さあ、聞きたいのは、なんだったっけ?」
ああ、こうした一つ一つ腹の立つやり取りが、すでに契約の一部だったのです。
私は知らず煽られて、少し語気を荒げていました。
「『彼』の話よ! さっきはわかってるって言ったじゃない!」
「ふうん、聞きたいのは『彼』の話なのね」
魚の笑う顔というのを見たことがありますか? 水族館のガラスの向こうにいる顔筋を持たぬ魚が、ふいに唇の両端をあげて鼻先を沈め、にやりと笑ったら……その少女の表情は、ちょうどそんな具合でした。
彼女の口はパクパクと動いて、何か言葉を吐き出しているようでしたが、声が……声がひとつも聞こえません。どうしたことかと耳を澄ますと、耳元で潮騒の音が聞こえました。
(潮騒……?)
まるで海の水に足を浸しているみたいに近く、大きく、ざわざわと鳴る潮騒はとても耳障りで、私は思わず耳を塞ごうと両手をあげました。ところが、女将が大声を張り上げてそれを制したのです。
「ダメ! ちゃんと聞いて!」
少女も、私を見上げて囁きます。
「そうよ、ちゃんと聞かなきゃダメよ。大事な話を聞かせてあげてるんだから」
そのとたん、あれほどうるさく鳴っていた潮騒が止みました。それで私は気づいたのです、あの音は潮騒などではなく、この少女が『話していた』声なのだと。
少女は再び口をパクパクさせて、潮騒の音を吐き出し始めました。ところが、もはや変質し始めた私の耳は、その『音』を『言葉』として受け止めていました。
どんな内容なのかを細かくお話することはできません。陸の上に生活の場を置く生き物では、きっと聞いただけで正気を失うような禍言なのですから。大まかにいうと、陸に暮らす全ての命に対する恨み言と、海を統べる父なる惰魂様への賞賛と、そして、今は長き眠りの中にある旧支配者への賛歌でした。
「いやっ!」
両耳を塞ごうとするけれど、飛びついて来た女将が私を羽交い絞めにして、それを許しませんでした。
「聞きなさい、ちゃんと聞きなさい!」
「いやっ、いやああああ!」
暴れてももがいても、潮騒に似た禍言は容赦なく鼓膜に沁みこみ、私の脳髄に潜り込んでは降り積もるように、記憶の奥深くに蓄積してゆきます。
ふいに、私の脳裏に海の映像が浮かびました。とは言っても美しいパラソルの花が咲く海岸の風景ではなく、日のやっと差し込むような、暗い海の底の映像です。
海底には一面に海藻が生い茂っていて、それが太陽を求めるように大きく体を伸ばしているのです。どれもこれもが人の背丈を超えるような大きな葉をゆらゆらと潮流に揺らせて、まるで踊っているみたいでした。
その中にひときわ高くそびえる形を持たぬ影――それが『彼』でした。
『彼』は海で死んだすべての魂の寄せ集めであり、『彼』は揺るぎなき神性であり、そしてまた『彼』は……喪われた私の恋人そのものでありました。
いいえ、いいえ、あんなものが私の恋人であるはずがない、あれは海で死んだ恨みと恐怖の寄せ集めであり、私の恋人だったものの残滓にすぎず、そしてかつ、人の思い及ばぬ太古より海に住む忌まわしい邪神そのものなのですから。
それでも、心が弱っていたのでしょう、私はそれに縋ってしまいました。
「あなたなの?」
声をかければ、水の底から湧くようにくぐもったうめき声が反されます。
「み……ゆ……き……」
それは数万人もの恨みの声が合わさって出来上がった不協和音、耳に心地よいはずがありません。
それでも私にとってそれは、もう二度と聞くはずのなかった彼の声でした。その声は、うわうわと雑音を混ぜながら、さらに囁くのです。
「会いたい……」
私は無我夢中で叫び返しました。
「私も、私も……あなたに会いたい!」
「俺を……呼んで」
私は『彼』の名前を幾度も呼びました。一字一句間違えるはずがありません、だって、あれは私の恋人を内包した、私の恋人そのものなのですから。
ふいに、耳元で少女の声がしました。
「本当に『彼』に会いたいのね?」
私は悲鳴に似た声をあげます。
「会いたい!」
「そう」
それっきり、私は意識を失ったのでした。
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