第6話

 翌朝、私は普通に目を覚ましました。あまりにも普通に。

 寝ていたのは客室として用意された離れでしたが、ドアにはしっかりと内カギがかけられており、かわいらしいマスコットのついた小さなカギは枕もとに置いてあったのだから、寝る前に私が自分で施錠したと考えるのが自然でした。荷物もきちんと部屋の隅にまとめてあって、脱いだ服のたたみ方はいつもの私の手癖だったのですから、どう考えても私が自分で寝支度をして、自分でカギをかけ、自分で布団に入ったのだとしか思えなかったのです。

 ですから私は、少女に会ったことも、恐ろしい幻夢を見たことも、すべてが夢だったのだと勝手に納得してしまったのです。そう、仮にあれが夢ではなかったのだとしても、単なる白昼夢を見せられた……いえ、あんな稚い少女にそんな力があるとは思わず、恋人の事故現場に近づくことでナーバスになった精神が何らかの作用を起こしたのだろうと、勝手に自己解決してしまったのです。

 私が朝食を貰いに母屋へ行くと、少女は車いすから降りてテレビの前に座っていました。ついていたのは女の子向けのアニメ番組で、それをとても楽しそうに眺めている姿は、どこにでもいるようなありきたりの少女の姿でした。不自由な足元は、相変わらず青いタオルケットにくるまれて見えませんでしたが、だからこそ余計に、どこにでもいるような少女に見えたのです。

 私は普通にその少女の隣を通り過ぎて朝食をいただき、その宿を出ました。

 恋人の鎮魂の船旅については、特に珍しい出来事など何もありません。海は島に吹き付けている強風が嘘であるかのように凪いで風一つなく、私は目的とする海域で手向けの花束を波間に投げた――陳腐な弔いの作法を行っただけです。

 もうその時には私の心はすっかり変質してしまっていて、まるで作業でもするように心すら動かさず一連の動作を終えたことを覚えています。それは遺骨すら納めていない墓前に手を合わせる時と同じ、一般的に弔いだといわれる形式を真似ただけの虚しい行為でした。

 その時にはもう、『彼』が探査船の残骸の中などにはいないだろうということを、私は悟っていました。なぜならば『彼』は海そのものであり、『彼』こそが海であるのですから。

 私は無意味な弔いを済ませて島を後にし、自分の住む街へと戻ってきました。そしてすぐに、初めての忘我に襲われました。

 その時、私は友人たちと食事している最中でした。というのも、近くに新しくオープンしたレストランがどのようなものなのかを偵察に行こうと、新しいもの好きの友人に誘われたからです。

 オードブルが出て、メインの食事を済ませ、デザートを二口ほど食べた時のことです。私は隣に座っていた友人に強く肩を揺すられ、自分が持っていたフォークを取り落としてしまいました。

「何をするのよ」

 いきなりの暴挙に私は少し怒った声をあげたのですが、これに対して、むしろ相手の方が戸惑いを含んだ申し訳なさそうな顔をしていました。

「ごめん、様子がおかしかったから」

「おかしいって?」

「覚えてないの?」

 友人が言うには、私はフォークを持ったまま、急に動くことをやめてぼんやりとし始めたそうです。目はうつろで焦点が合わず、しばらくの間そうした様子で、ただ座っていたのだそうです。

 ところが、私はこれに覚えがありませんでした。デザートの二口目をつるりと飲み下した次の瞬間にはもう、肩を揺すられていたような気がするのです。

「もう五分くらいもそうやってぼんやりしているから、それで心配になったのよ」

 友人は言いましたが、本当に身に覚えのない私は困ってしまって、無言のままでした。

 これを見かねて助け舟を出してくれたのは、別の友人でした。

「見た目は起きているように見えたけど、本当は気を失っていたんじゃないかしら」

「へえ、そんなことがあるの?」

「よくわかんないけど、ありそうじゃない?」

 友人たちは皆、私が失った恋人の弔いに桝内まで行ったことを知る仲でしたから、そうした精神的な疲れによるものではないかと心配してくれたのです。

「ゆっくりやすんで、念のため、病院も行きなさいよ」

 そう言われて、その日の会食はお開きになりました。病院へも、一度は行こうと思ったのですが、もろもろの日常の雑事に紛れてすっかり忘れてしまいました。なにしろそのあと、一か月ほどは何もなく過ごしたのですから。

 二回目の忘我は、自宅にいる時でした。リビングで家族とドラマを見ている最中に、私は突然に自我を失いました。

 次に目を開けた時、ドラマはすでにエンディングの曲が流れており、母は両目を覆ってさめざめと泣いておりました。父はいつの間に出て行ったのか部屋にはおらず、テレビから流れるラヴ=バラードだけがむなしく聞こえたものです。

 その後、母から何があったのかを聞かされました。私はテレビを見ている最中に突然、がくんと大きく首を垂れて何事かをつぶやき始めたそうです。それは外国語ともまた違った響きの、およそ母が聞いたことのない地獄の音楽ならばさもありなんというような、低い声で発せられる言語だったと。

 その後で、私は着ているものをすべて脱ぎ捨て、家族の目の前でみだらな動きを始めたそうです。父が何度怒鳴ろうとも、母がどれほど揺すろうとも、うつろな表情で目の焦点は定まらず、髪を振り乱して腰を振りながら自慰にふけっていたのだそうです。

 実はこの時の忘我のことを、私ははっきりと覚えています。それは私の意識が『彼』の支配する人界とは違う次元へと囚われた初めての出来事でありましたから。

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