第3話
そこは、外観から感じたとおりの普通の民家でした。玄関の間口も狭く、そこを入ってすぐのところに靴が五足も並べばいっぱいになってしまうような狭い三和土になっておりました。上がり框も私が腰かけてしまえばふさがってしまうほどの狭さで、その狭い玄関の大部分は下駄箱に占められているようなありさまでした。
靴を脱ぎ、上りが街に踏み上った瞬間、ぷんと強く香る魚油の匂いが鼻の奥に流れ込んできました。新鮮な魚の心地よい生臭さではなく、古い魚のはらわたを放り出したような腐れかけた匂いです。
「う」
息が詰まりましたが、鼻を押さえるのはあまりにも失礼でしょうか。何しろこの匂いを女将は一つも気にしていないのですから、私にとってどれほど不快なにおいではあっても、この家の生活臭というものなのでしょうから。
ふいに、女将が振り向きました。
「お泊りいただくのはハナレなので、ご心配なく」
自分の不快感が表情に出ていたのかと焦りましたが、どうやら女将が気遣ったのは別のことのようでした。
「びっくりしたでしょう、狭い家で。だけどハナレは娘が生活するために建てたものだから、新しいし、バリアフリーですし、ちょっとした台所もつけてあるので、なんの気兼ねもなくくつろいでくださいね」
ここで私は、彼女が言っているのは『離れ』だということに気づきました。なるほど土地のある田舎のことですから、庭先のあまった場所に小屋が建ててあるということなのでしょう。普段は娘に使わせているこれを私の客室として使うということで、これはとてもありがたいことですけれど、私は少し気後れして女将さんに聞きました。
「あの、いいんですか? 娘さんのお部屋なのでしょう?」
女将は少し不機嫌そうな声を出して答えました。もっとも、表情は眉毛ひとつ揺れぬほどに無表情だったのですけれど。
「確かに普段は娘の部屋に使っとりますが、掃除はきちんとしてあるし、民宿ってそういうもんですよ?」
「ああ、そうじゃないんです。私が部屋を使ってしまったら、娘さんは困るんじゃないかと、そういうことなんです」
女将の声が幾分和らぎました。
「ああ、そういう……そりゃあ、あの子も民宿屋の娘なんで、心得てるから大丈夫ですよ」
この時まで、私は娘というのが大人なのだと勘違いしていました。だって離れを建ててもらって一人で生活しているのですから、きっと年齢的には親元を離れるような年なのだろうと勝手に考えていたのです。
だから私は、続く女将の言葉に耳を疑いました。
「それに離れにばっかりこもらせておくと、学校の宿題をさぼりますからね、今夜はこっちでちゃんと宿題を見てやろうと思うんです」
「宿題……娘さん、学生さんなんですか」
「ええ、小学生です」
「小学生! なのに、離れで暮らしてるんですか?」
「ええ、まあ掃除洗濯なんかは私がやってるんだから、本当にあそこは寝るだけの部屋なんですけれどね。うちの娘はちょっと特別な体なので、こっちの狭い母屋では暮らしづらいだろうと思って建てただけなんですよ」
「特別な体?」
「ああ、外から来た人にはわからんですよね」
私はこの時まで、この女将は全くの無表情だと思っていました。おそらくは感情の起伏というものもあまりないのだろうと。でも、そうではなくて、ふい層の向こうからこちらをじっと見つめる水族館の深海魚が顔の筋肉というものを持たぬがゆえに表情を作れないのと同じ、ただ単に表情の動きが乏しいというだけの話だったのです。
彼女は私を見上げて、確かに笑っていました。口の端をかすかにあげて、目玉をやたらとぎょろつかせて、およそ私が考える笑顔とは程遠いものでしたが、確かに笑っていたのです。
「どうです、会ってみますか?」
「誰にです?」
「うちの娘にです」
私が返事に困って立ち尽くしていると、女将は目玉をさらにぎょろぎょろ動かして、かがみこむように下から私の顔を覗き込みました。
「お客さん、ここへ来たのは探査船の事故に関係のある人だからじゃないんですか?」
「どうしてそれを……」
「いえね、こんな何もないところに来るなんて、なんか理由があるんじゃないかと思っただけですよ」
「確かに、私はあの探査船の事故で恋人を亡くした者です」
「だったら、ウチの娘に会いなさいな。あの探査船の人たちは海に出る前日、ここに泊まった。そして、ウチの娘と海のいろんな神秘について語り合っていた。きっとお客さんを慰めるような、事故の前日の恋人さんのお話も聞けるかと思いますよ」
これはとても魅力的なお誘いでした。
死んだものを悼もうとするとき、人は死者の足跡をたどりたがるものです。新たに増えることのない思い出の代替品を求めるかのように自分の知らなかった過去のエピソードを集め、死者の面影が消えぬようにとすがるものです。
ゆえに私は、女将の言った『事故の前日の』というフレーズに強く心惹かれたのでした。それでも分別ある大人ですから、無条件に諸手をあげてこの話に飛びついたわけではありません。
「娘さんは小学生なんでしょう? そんな子に死んだ人の話をさせるなんて……」
申し訳なさそうな私の言葉にも、女将の表情が揺らぐことはありませんでした。
「死んだ? 誰が?」
「ですから探査船の……私の『彼』です」
「ああ、ああ、あの人たちは死んだわけじゃない、海に『還った』だけですよ」
「『還った』って……」
おそらく島であるからこその死生観なのでしょう、桝内では特に海難事故で死ぬことを『海に還る』と言い表すらしいのです。字面だけの話ではなく、海上に墓標をたてた者の魂は海にとどまり、海と一体になり、海としてこの世に留まるのだと本気で信じられているようなのです。
全てを体験した今の私ならわかります、桝内の海に沈んだ者は確かに海に還るのだと。だけどこの時の私はそんなことは知る由もなく、この不思議な言い回しを口の中で反芻するばかりでした。
「還る……海へ……還る……」
女将はそんな私に焦れたか、飛び切りに目玉をぎょろつかせていました。
「どうするんです、話、聞かないんですか?」
「いいえ、聞きます、聞きたいです!」
私が慌てて答えると、女将がにやりと笑いました。いいえ、表情に乏しい女将のことですから、眼に見えて笑ったわけではありません。だけど口の端をほんの少しだけ釣り上げて目玉をぎょろつかせたそれが笑いを浮かべようとしているみたいに見えたというだけの話です。
女将はいくらか浮かれた声で、私に向かって手招きをしました。
「では、こちらへおいでくださいな。娘はちょうど庭に居るはずですよ」
今になって思えば、これが全て恐怖への伏線だったのです。『やつら』が描いたおぞましい計画のプロローグだったのです。だけど、それをどうやって過去の私に伝えることができましょうか。
私は何も疑うことなく、女将の後について庭先へと足を下したのでした。
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