第2話
風が強いこともあって、海の表面には無数の波が立っていました。それはまるでのこぎりの歯を立てたように鋭く、空から降り注ぐ晴天の日差しを細かく砕いて本物の金物のようにきらきらと輝いていました。
空にはカモメの一羽二羽が飛んでいたような気もするのですが、それはもはや定かな記憶ではありません。ただ、沖合に小さく船が見えたことを良く覚えています。
船は本当に遠く、まるでおもちゃのように小さく見えていました。それが遠目に見てもわかるくらいゆらゆらと波に弄ばれているのが悲しくて、私はあわてて目をそらしました。
そう、悲しかったのです。不吉に揺れる船の様子に彼の死を重ねてみてしまって、私はたまらなく悲しくなってしまったのでした。
彼の探査船をつないだ船も、あのように大波に揺られて頼りなく海上に浮かんでいたのでしょうか。海の底に潜った探査船をつなぐワイヤーの重みに踏ん張りながら、それでも押し寄せる波に揺られながら……。
手の甲に温かい雫がポツンと落ち、私はここで初めて、自分が両頬から伝い落ちるほどの涙を流していることに気づきました。
運転手さんがバックミラーを覗き込んで声をかけてくれました。
「お客さん、その……大丈夫ですか?」
私は片手をあげて大丈夫だと伝えたのですが、彼はそれしきのことでは納得しなかったみたいです。
「良かったら車止めるんで、少し海風にでもあたってきますか? いや、もちろん、サービスなんでメーターは倒しておきますよ?」
私はようやくの思いで彼に言葉を返したのです。
「いいから、止まらないで。早く海の見えないところに行って」
「そりゃあ無理でしょう、この島のどこにいたって海は見えるんだし」
「それでもいいから、止まらないで。ここにいたくない」
「そうですか?」
運転手さんが操作してくれたのでしょうか、私の顔の横で窓がほんの少し下がって、海の匂いのする風が一気に流れ込んできました。
「もしもの時はこれ。これを使ってください」
運転席から差し出されたのは買い物の時に渡される白いプラスチックの袋。なるほど、運転手さんは私が車に酔ったのだと思っていたらしいのです。
「桝内まではあと五分くらいもあればつきますけどね、どうしてもダメそうなら遠慮なく言ってくださいね。車、止めますんで」
どうやらこのまま勘違いさせておけば、よけいな詮索などされなくて済むのだと私は気づきました。だからシートに深く身を沈めて、いかにも具合が悪いかのように両目を閉じてみました。これならば景色も見なくて済むし、何よりも涙を流さずに済むので都合が良かったのです。
ただ潮騒の音だけは、私の不安と悲しみを煽るかのように鳴り続けていました。まるで鼓膜の奥にまで沁み込もうとするような不快な音でした。しかし、耳まで塞いでしまうのは少し大げさなのではないかと、私は目を閉じたままで一言だけつぶやきました。
「『彼』がここの海で死んだんです」
それは誰かに聞かせようとしたわけではなく、潮騒をかき消すほど大きくもない小声だったのだけれど、私の心はどうにか少しばかり落ち着きを取り戻してくれました。
そして、運転手さんにも聞こえたのでしょう。彼は小さな声でぽつりとつぶやき返してくれました。
「それは、ご愁傷さまです」
あとは本当に無言のまま、タクシーは桝内の集落へと向かったのでした。
タクシーを止めた運転手さんは、真っ先に驚きの声をあげました。
「あった、ありましたよ、海鳴荘!」
その声に目をひらくと、窓越しにペンキで手書きされた看板が見えました。看板は木枠にトタンを打ち付けただけのちいさなものでしたが、手書きのペンキ文字は確かに『海鳴荘』と読めました。看板の真後ろにあるなんの変哲ない民家が、どうやら目的の民宿であるようです。
「で、お客さん、本当にここでおろしちゃっていいんですか?」
お金を払う時、運転手さんは小声で聞いてくれました。
「この島にはちゃんとしたホテルもあって、いま時期なら飛び込みでも部屋は空いてると思うんですよ。そっちにした方がいいんじゃないですかねえ」
それから彼は、本当に囁くような小声で言葉を続けました。
「正直、ここで何かあっても、島の人間は助けに来ちゃくれないでしょう。ここはそういうところなんです」
「治外法権的な何かなの?」
「いや、そういうこっちゃないんです。なんていうか……そうだ、忌地!」
「忌地?」
「ここは人間が立ち入るべきじゃないところだとされているんです」
「そんな馬鹿な、だって、住んでる人がいるじゃないの」
「それはみんなここに最初から住んでいたモノたちですからね。みんな人間じゃないのかもしれない」
その時、ちょうど宿の女将らしい人物が玄関の引き戸を開けて出てきました。それは二本の足で立ち、日本の腕をそなえた、どこからどう見ても間違いのない人間の姿だったので、私は運転手さんに向かって言いました。
「人間じゃないですって、あれが?」
「あ~、そうっすよね。まあ、ここが忌地だってのも年寄りが言ってるだけのことだし……だけどね、そういう話を子供の時から聞かされて育った俺は、どうしてもお客さんをここへ置いて行くことに良心がいたんじまうんですよ」
そう言った後で、運転手さんは助手席の辺りをごそごそとかき回して、おつりと一緒に小さな紙を渡してくれました。
「うちの営業所の番号が書いてあるんで、何かあったら連絡してください。うちには迷信なんか蹴飛ばして歩くような若いやつも何人かいるんで、助けに来ますよ」
その時の私は、彼が恐れているものの正体が良くわかっていなかったのです。田舎だし、島だし、古臭い迷信の類に惑わされているだけだと本気で思っていたのです。
そして迷信の根源はきっと部落差別だろうと――住人が人間扱いされなかったり、立ち入ることさえも嫌がられる土地であるという条件が、いかにも前時代的な部落差別を思わせるものだったのですから、仕方ないことです。
ともかく私は、彼を差別主義者だと決めつけて不快に思い、もらったばかりの小さな紙をびりびりに破り裂いてしまったのです。
宿の女将はそんな私をじっと見ているだけでした。両手を体の横にだらりと下げて、首が少し前に突き出るほどの猫背の姿勢のまま、ただ立ち尽くしているだけだったのです。
破り裂いた紙きれを持て余して私が振り返ると、女将はやっと軽く頭を下げてくれました。
「遠いところから、ご苦労様です」
女将が顔をあげた瞬間、私は「あっ」と声をあげそうになりました。女将の顔はあまりにも魚にそっくりだったのです。
世間には魚顔と揶揄されるような顔立ちもありますが、あれは単に目の間が人より開いているとか唇がぽってりと厚ぼったいとか、その程度のことでしょう。女将の顔はそんなものの比ではないくらいに魚に似ていたのです。
まずは顔全体がのっぺりとして表情に乏しく、目玉はぎょろりと見開かれて今にも眼窩からこぼれ落ちそうなほど前にせり出しており、おまけに鼻梁は異常なほどに低くて横になだらかに引き延ばされたような形になっており、まったく水族館のガラスの向こうで冷たい水の中に身を投げ出した深海の魚を思わせるような顔立ちなのです。
それでも大っぴらに驚いたり、じろじろ眺めたりするのはあまりにも無礼でしょうから、私は驚きをごまかそうと深く頭を下げました。
「お世話になります」
私の頭の上で女将の声がしました。
「あらあ、今どきの若い人にしては礼儀のある方なのねえ」
その声は本当に感心したようにため息まりで、何気ない一言だったのですが、まるで海の底から聞こえたかのように深みのある低音であり、私はこれを少し恐ろしいと感じました。
だから、表情を見せないように顔を伏せたのは正解だったのです。女将は私の恐怖には少しも気づかぬようで、妙に明るい声音で話しておりました。
「お疲れでしょう、まあ、まずは上がってくださいな」
私は驚きや怯えが表情に現れないように注意しながら顔をあげて、女将についてゆきました。
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