矢田川怪狸

第1話 

 私が自分の体験をこうして記録に残しておこうと思ったのは、最近になって自分が緩やかに正気を失いつつあることに気づいたからなのです。

 それは朝起きぬけの少しの間、脳の機能がうまく立ち上がらずに夢の中に取り残された気分がするのによく似ていて、何か日常の動作をしていても態々にその手を止め、自分がどこにいて何をしているのかを確認しなくてはならない――つまりは忘我の瞬間が多くなってきたのです。

 世間で云う記憶障害の類とは全く違います。本当に全くが起き抜けの夢のように、体の感覚や機能は現実をきちんと知覚しながらも思考だけが切り離されて体を動かすことさえままならない、まるで自分の肉体が自分のものでは無くなってしまうような感覚なのです。

 そんなときに自分の肉体さえ投げうった私の思考が何を考えているかというと、たった一人の男のことなのです。

 これを読んだあなたは私のふしだらを笑うでしょうか。いいえ、きっと笑うのでしょうね。

 なにしろ食べ物を食べている最中に襲い掛かった忘我に囚われて箸をとり落とすのみならず咀嚼しかけていた口中のものをだらしなく口の端から垂れ流すときにも、交差点のど真ん中で通行人の流れを妨げてまで立ち止まりクラクションをかき鳴らされてさえ揺るがぬ忘我の最中にも、考えているのはただ一人の男のことだというのですから。

 もしかしたらどれほどのロマンスがあるのかと微笑ましい妄想をなさる方もいるでしょうか。寝ても覚めてもただ一人の男を想うなんて、恋に身を焦がす小娘にはありがちなことだと。

 いいえ、そうではありません。ただの恋煩いであるならば、これほどに自分の正気を疑うこともなかったでしょうに。忘我の瞬間に私をとらえているもの、それは愛しい男の形をしてはいてもすでに『彼』ではない忌むべき呪いの具現化したものだと、私は自覚しているのです。

 なぜにそんな呪いを呼び込んだのか――話は三年前にさかのぼる。そのころ、私は『彼』を海で喪ったばかりでした。

『彼』は海洋の生物を専門とする学者で、その時は特定の海域にのみ生息する特殊な生物を調査するのだと張り切って出かけてゆきました。特に入り組んだ岩礁があるわけでも、深海まで潜るわけでもなく、ごく浅い海底を探査するだけだから心配はないと言い残して。

 ところが『彼』の乗った探査船は海の底で何があったのか、二度と浮かんでは来ませんでした。もちろん救助艇が何艘も出て大掛かりな捜索が行われたけれど、探査船のかけらすら見つからず、潮流に流されて大海原のどこかへと流されてしまったのではないかというのが海洋警察の見解でした。

 だからお葬式の時に棺桶におさめる死体すらなく、骨壺におさめる骨さえなく、ただ彼の名前が新しく刻まれた墓石に向かって手を合わせるような虚しい形だけの弔いしかできないことを、私はひどく悔しく思っていました。

 そもそも、骨のない骨壺を収めたあれは、本当に彼の墓といえるのでしょうか。私にとって『彼』の棺は遺体を収めたまま海底にあるはずの探査船であり、墓は墓石すらない大海原そのものなのですから。公園墓地の片隅にあるありきたりな四角い御影石に向かって手を合わせるという行為は私にとって弔いの意味など何もなく、彼を失った悲しみの何一つさえ慰めてはくれませんでした。

 そこで私は会社に休暇願を出して旅行へと出かけました。行き先は彼の探査船が消えた海域からほど近いところにある福島という島でした。

 名前こそ『福島』とついていますが、そこは東北の福島県とはなんのゆかりもない場所です。若狭湾の内海を抜けたあたりに存在していて、風が強く『吹く島』であるというのがその名の由来だということですが、確かに舞鶴の港を出た小さな定期船を降りると、たっぷりと潮の匂いを含んだ強い風が吹いていました。

 私は宿につく前に島を散策しようと思っていたのですが、砂を巻き上げては顔にたたきつける浜風に辟易して散策を諦め、真っすぐ宿へと向かうことにしました。

 タクシー乗り場は港を出てすぐのところにあり、ちょうど一台のタクシーが止まっていました。運転手は暇つぶしなのか休憩中なのか、だらけきった様子で運転席を倒して転寝していたのですが、私が窓を叩くと飛び起きてドアを開けてくれました。

「お客さん、どこまで?」

 そう聞いた運転手は人懐っこそうな若い男で、声も夏風のようにからっと明るい好男子でした。ですから私も気安く言葉を返すことができたのです。

「桝内までお願いします」

 その地名を聞いたとたん、明るかった彼の表情が明らかに曇りました。

「桝内ですか? 本当に?」

「ええ、本当に。ネットの予約票で見た地名が……これなの」

 私はスマホを取り出して自分が予約した宿のホームページを運転手さんに見せました。この島に住んでいる彼の方がここの地理に詳しいのだし、下手な説明をするよりも手短かに済むだろうと思ってのことです。

 しかし彼は、スマホの画面に顔を近づけてまで、何かを思い惑っている様子でした。

「桝内の2丁目か。場所は大体わかるんですけどね……」

「だったら、行ってちょうだい。そこにある、『海鳴荘』って民宿だから」

「いや、ですからね……」

 彼はひどく渋いものを食べてしまったときのように唇を小さくすぼめていました。

「そんなところに民宿なんてあったかなあ?」

 彼が嘘をついているわけではないということは、表情からも明らかでした。彼はすっかりこまりきって眉根を下げて、しきりに鼻の頭をこすっていたんですから。

「これ、本当にその民宿のホームページなんですかねえ?」

「そうだと思うけど。予約もこれでとったんだし」

「そうですか……」

 都会のタクシーならば、これだけで問題なく発車してしまったことでしょう。こちらはとりあえず行先を告げたのだし、運転手にはその行先に文句をつける義理なんてありませんからね。

 しかし、田舎の青年である彼は誠実で親切な性質のようでした。それでもまだ、私に向かって確認をとってくれたのです。

「本当に行っちゃっていいんですか、桝内に」

「ええ、だって、予約した宿がそこなんだから、行ってくれないと困るのよ」

「でもねえ、こんなところに民宿があるとは思えないんですよ」

「そんなの、行ってみなくちゃわからないでしょう?」

「そうですね、確かに。俺も正直、桝内にはそこまで詳しくなんで、もしかしたらあるのかなあ……」

「大丈夫だから行ってちょうだい。もしもここに民宿がなくっても、あなたのせいじゃないんだから。タクシー代を踏み倒したりしないわよ」

「そうですか? そういうことなら、まあ」

 タクシーはやっと走り出したけれど、彼はそれでもまだ、不服な様子だった。

「お客さん、島の外から来た人ですよね、桝内には何かのご用で?」

「ええ、そうだけど……ずいぶんと桝内にこだわるのね。まるで行きたくないみたい」

「まあ、そうですね、できれば行きたくないところではありますね」

「どうして?」

「いやあ、お客さんは今夜、あそこに泊まるんでしょう? だったら聞かないほうがいいんじゃないかなあ」

 自分から話を振っておきながら勝手なことだとは思ったけれど、少しくぐもった彼の口調から察するに桝内には何か怪談じみた話があるのだろうと思いました。だとしたら私にそれを聞かせたがらないのは気づかいであり、それを踏みにじってまで彼を追求するのは気の毒だと、私はそう考えました。

 ああ、でも、それがそもそもの間違いだったのです。遠慮などせずに彼を問い詰めて、桝内がどのような場所なのかを聞きだすべきでした。

 もっとも、それは今だから思うだけのこと、人は自分の身に降りかかる厄災をあらかじめ予測することなどできないものなのです。

 だから、その時の私はそれ以上は何も言わずに、窓の外に視線を向けて波がなだらかに海岸を洗う風景を楽しむことにしたのでした。


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