雨・赤色・椅子・窓・海辺
急に雨音が止んだ。隣人のしたしたという足音が妙に大きく聞こえる。私は少し散歩をしても良い気分になったから、薄い上衣を羽織っただけで、部屋着のまま外へ出た。そこへ隣人が扉から顔を覗かせた。私を見付けると呆然とした顔で「雨は何処行ったんですか」と言った。雫が一つ、廊下の手摺に滴った。
国際通りにかかるアサヒビールの看板を遠くに見つめて、白い息を一つ吐いた後、私は吾妻橋の古ぼけた赤色に眼を落とした。かつてはよく手持ぶさたのまま欄干に寄掛かって、宵に沈むまで随分長い間をここで過ごしていた。やがて追憶が手摺を人肌に温めたころ、夜の寒気に身が震えて、私はそこを離れた。
猫がまおまおと鳴くから、私はデスクを前に片付けていた期限の差し迫ったいくつかの作業を中断して、部屋を出ると、玄関脇の椅子に坐った。猫は早速近寄って来てぐるぐると床をのたうち回り始めた。部屋の方から携帯電話のバイブレーションが聞こえてきたが、今の私の仕事はこの猫を眺めることだった。
今晩は書物を眺めてみても何か哀しい心持がするものだった。それはつい半時ほど前に吞んだウイスキーがそうさせるのかもしれないし、或いは開け放した窓から這入り込む冷気のせいかもしれない。秋雨の湿気を吸い込んだこの頃の空気は、また少し人の情緒を物憂くする鉄の匂いをはらんでいるものだから。
旅の思い出は海辺の図書館とともにある。車が海に張り出した道を走っているときに見た、あの大きな建物から漏れる灯りと、窓の中を歩く人の影をまだ覚えている。私はここまで歩いて来られるか母に聞いた。母は歩いては来られないと答えた。だから私の海辺の図書館は、いつまでも違う地平に佇んでいる。
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