紫煙 2


 あの日から、俺の毎日はめちゃくちゃだ。

 毎朝学校に行くのが憂鬱で仕方ない。

 今日も校門の前で足が止まった。まるで登校拒否だ。踏み出そうとしても重みで足が持ち上がらない。

 俺を追い抜いていく生徒たちが、不審そうに俺を見ていた。

「おい」

 後ろから声がした。俺はびくりと身体を揺らす。

「なにしてんだよ」

 声だけで誰だか分かった。当たり前だ。毎日彼が俺を縛る。

 俺は恐る恐る彼を見上げ、かすれた声でおはよう、とつぶやいた。

「おー、おはよ」

 俺の肩に手を回して、そのまま引きずるように校内に入った。

 重かった足がようやく動いて、俺は少しほっとした。

 教室でも、彼の視線は俺を捕らえて放さない。すぐ隣の席だから、というだけではない。その強い視線は、まるで俺の一挙手一投足をすべて監視しているかのようだ。俺は指一本を動かすのすら緊張している。

 入学してから一切学校にやってこなかった彼が、俺の訪問以来、毎日登校する。まともに受けているとは言い難いが、授業にも出席している。たまに俺を巻き込んでサボることもあるが、いつもではない。

 俺はあの日からずるずると彼に支配されたままだ。

 休み時間、少し席を外しただけでどこへ行くんだと聞かれる。昼休みは問答無用で一緒に食事をする。放課後もよほどのことがなければ一緒に学校を出て、ぶらぶらと帰り道を共にする。

 時々、彼の家に引っ張り込まれる。彼の散らかった部屋で、何をするでもなく時間を過ごす。大抵は雑誌やテレビをみていたりするだけで、彼が一人で眠ってしまうこともある。そんなときは俺は宿題や勉強をすることにしている。一度、勝手に帰って次の日ものすごく怒られてからは、必ず彼が目を覚ますか、そうでなければ起こして一声かけてから部屋を出る。

 一体俺の何を気に入ったのかは分からない。

 だからこそ、俺は毎日がとても苦痛なのだ。

 普段の彼は俺の時間を束縛すること以外はそう悪い人間でもないのかもしれない。見た目だけなら完全に不良だが、悪いことをしている風でもない。

 けれど、突然、何がスイッチなのかは分からないが、豹変する。俺の話を一切受け付けず、ただ自分の都合を押し付け、それを強制する。逆らえば冷たい視線と声が俺を捕らえる。

 有無を言わせず力ずくでも言うことを聞かせようとする。だからそんなときの彼には逆らわない。何をされるか分からないからだ。

「なぁ」

 隣の席で、彼は俺に呼びかける。

「今日、家来いよ」

 俺は黙ってうなずく。彼は満足したようににっと笑って、そのまま机に足を投げ出して背もたれに身体を預けた。


 放課後、彼の部屋で、俺は教科書を開く。数学の宿題を片付けてしまうためだ。彼はさっきから、途中のコンビニで買ってきた雑誌に目を落としたままだ。

 相変わらず部屋は散らかっていた。雪崩れた雑誌、脱ぎ捨てた服、乱れたままのベッド。灰皿に溜まる吸殻。

 出された範囲の問題を解いて顔を上げると、彼が俺を見ていた。いつの間にか雑誌を投げ捨て、俺のすぐ隣に座っている、

「な、何?」

「別に」

「別にって……」

 なら、どうして俺を見ているのか。時々、彼はこうして俺を見つめる。何を言うでもなく、ただ、見ているだけだ。

「真面目だよな、お前」

「そうでもない」

「そっか? 真面目だろ。委員長だしな」

「──普通だ」

 真面目かそうでないかの二択なら、間違いなく真面目なのだろう。けれど俺はがり勉タイプでもないし、普通に友人とも遊んでいる。根暗というわけでもないし、付き合いも悪い方ではない。

 彼は煙草をくわえてライターで火をつけた。ゆるやかに紫煙が上がる。それを指に挟んで再び俺を見ると、

「ようやく敬語やめたな」

 と、笑った。その笑顔がやけに優しげで、俺は戸惑う。

 ふぅ、と煙を吐き出す。俺はいつも、それを目で追ってしまう。彼もそれを分かっていて、わざと俺が目で追えるようにそれを吐き出す。すぐに立ち消えてしまわないように、細く、けれど深く。

 目が合った瞬間、彼が俺の後頭部を引き寄せる。

 苦い。

 まるであの日から、当たり前のように、彼は煙草を吸いながら俺にキスをする。俺がその煙たさにむせるのが楽しいのか、口に残る苦味に顔をゆがめるのが楽しいのか、それとも両方か。

「慣れねーな」

 今日もむせた。

「こんなの、平気な方が、おかしい」

 舌の先には苦味が残っていた。口の中にわずかに吐き出された煙が、俺の頭をくらくらと回す。喉と肺が痛かった。

「慣れろよ」

 どうしてこんなものに慣れなくてはいけないのか。それに答えてくれるほど、優しくないだろう。俺は手の甲で唇を拭った。そこに残る渋さを取り除きたかった。

「慣れろって言ってるだろ」

 俺の手をつかんで、彼が言った。スイッチ。今の俺の行為がそうだったのだろうか。

「お前──」

 彼がその手に力を入れた。俺の手首がきりきりと痛んだ。その目は冷たく、俺をただにらんでいる。

「いい加減に──」

 続きは聞くことができなかった。彼は唐突に俺の手を放し、煙草を灰皿に押し付けた。

「帰れ」

 そう言って、自分はベッドにもぐりこむ。

 俺は急いで勉強道具を片づけ、部屋を出た。

 意味が分からない。どうして俺ばかりがこんな目に合わなくてはいけないのか。彼の家から帰る間、俺は悔しさと悲しさでいっぱいだった。


 次の日、学校に来た彼はいつもと変わらず俺に声をかけてきた。昨日のことなんてなかったかのように。

 あんな目をして俺を見ていたくせに、今日は優しく笑う。

「昼飯、屋上な」

 立ち入り禁止のそこを、彼は気に入っていた。だから大抵の場合、昼ご飯はそこで食べる。

 食後に煙草に火をつける。その立ち上がる煙を、俺は今日も目で追いかける。

 初めのうちは空き缶やご飯のときに食べたヨーグルトの空き容器、時には屋上の床にそのまま直に吸殻を捨てていた。けれどある日俺が差し出した携帯灰皿を、ちょっと驚いたような顔で受け取ってから、彼はそれを使う。

 煙草の煙は風にあおられてすぐに消えていった。俺はそれを少し寂しく思う。

「来いよ」

 彼が手招きする。俺はおとなしく従った。

 彼の隣に座ると、ふっと短く吐き出した煙が、目の前で広がった。それはまた、風に吹かれて消えた。

 彼の腕が俺の肩に回る。頭を近づけられ、またあの煙にまみれたキスがくるのだと身構えた。けれど今日は黙って煙草を吸うだけだった。俺の右のこめかみに、彼の額に近い頭が触れていた。何がしたいのか分からなかった。けれど逆らったり突き放したら、またスイッチが入るような気がしてできなかった。

 視界の端で、彼の金色に近い髪の毛が揺れていた。時々その視界は煙で白くぼやけた。

 俺は黙っていた。彼が何も話さないから。

 携帯灰皿に煙草を押し込んで、彼が今まで煙草を持っていた右手も俺に回した。まるで抱きつくような格好になった。額はまだ触れている。

「なぁ、なんで逃げねーの?」

「…………」

 答えられなかった。正直に言えば、多分、スイッチを入れてしまうからだ。あの冷たい目も、声も、俺には恐怖しか感じない。

「お前、俺が怖い?」

 はっとした。思わず体が反応し、それが多分彼に伝わった。彼は両手を解き、俺から離れた。

「そっか、だから逃げねーんだ」

 まるで自嘲するように笑った。

「そりゃそーだよな」

 俺の心臓はばくばくと音を立てていた。

 落ちる。

 あの時思ったことを、今でも覚えている。

 間違いなく俺は、彼の瞳に魅入られていた。地の底に落ちていくような恐怖感。そこは闇の世界で、俺は震える。

 スイッチ。

 それが一体どれなのか、分からない。けれど彼は豹変する。まるで俺を憎むかのように、冷たい目で俺を見て、冷たい声で俺を落とす。

「だったら、一生逃がさねー」

 俺の腕をつかんで、彼が言った。その目が冷たさを増した。

「お前は俺のもんだ」

 感情のこもらない声に、身震いした。

「どう──して」

 かすかに口から声が漏れた。それを彼は聞き逃さなかった。にやりと笑う。

「考えればいいだろ。勉強、得意なんだし」

 そんなものは勉強とは何の関係もない。そう言いたかったけれど、口にできなかった。その視線は俺を凍りつかせる。

 かち、と音がした。ライターに火がともっていた。彼が煙草をくわえ、火をつける。

「お前の怯えた目、最高だ」

 その煙を俺は追えない。この冷たい目のときは、いつも。まるで吸い込まれそうになる。魅了され、俺は自分自身の感情すらコントロールできない。

 煙は──どこへ向かっている?

「怯えてるのに、俺から目が離せない」

「っ!」

「ほら、いつもみたいに追えよ」

 そう言って煙を吐き出す。その煙は俺の目の前に広がり、空に消える。俺は見開いた目を彼からそらせない。煙草の煙が目に染みて、涙が滲んできた。

 その紫煙を、俺は追えない。

 だって、彼の目が俺を捕らえる。

「お前が自覚しねーから」

 彼の手が俺の胸倉をつかんだ。近づいた顔が、ぶつかりそうだった。

 くわえたままの煙草が俺の顔に触れそうで、怖かった。

「いい加減、気付け」

 指先でつまんだ煙草をおろし、彼が俺にキスをした。煙は感じなかったけれど、口の中にいつもより強く苦味が広がる。舌がびりびりとしびれた。差し込まれた舌が絡まり、その渋さが口内を侵す。苦しくて鼻で大きく息を吸い込んだとき、口の中と、外、両方で煙草のにおいがした。

 それが、俺からにおうのか、彼からにおうのか、分からないくらいに混ざり合う。

「怖いなら、目をそらせ。嫌なら逃げろ。──俺を見てるんじゃねーよ」

「見てるのは──」

 ぜいぜいと息を切らして、俺は目元に浮かんだ涙を拭った。

「見てるのは、そっちだろう」

 彼の表情は変わらなかった。黙って俺を見ていた。

「だから、俺は、いつも不安で、緊張して、どうしていいか分からなくて」

 右手の指先に挟んだままの煙草から、細く紫煙が立ち上がっていた。俺はそれから目をそらす。

「だから……」

 そうして彼が俺を見つめるのか、そして捕らえるのか、その意味を考えた。何度も。蹴れ結局答えを出すことはできなかった。だって、俺は彼の気持ちを何一つ知らない。

 俺ばかりがいつも、彼の視線に戸惑い、身を震わせ、なのに目を離せない。

「あんな目で見られたら、誰だって逃げられない」

 彼が左手を伸ばして、俺に触れた。俺の頬に指先を滑らせ、そのままそれを後頭部に回した。そして自分に引き寄せる。額が触れた。

「言ったろ」

 俺は目線を上げて、彼と合わせた。彼はまっすぐに俺を見ていた。

「慣れろって」

 こんなに近くで見た彼の目は、いつの間にかあの冷たさが消えていた。

 右手の煙草はいつまでこの紫煙を立ち上げているのか。俺はそれを確認することもできない。彼の目を見つめ、そらせない。

 あの冷たい目ではないはずなのに。

 彼が喋るたびに煙草の香りがした。

 俺の口の中にさっきの苦味がよみがえった。つばを飲み込むと、まだ苦い。

 慣れることなどできるのだろうか。

 俺はもう一度、その苦味に侵されよう、と思った。

 もしかしたら、初めから。

 俺は、この目に落とされたいと思っていたのかもしれない。

 目が離せない。彼の視線が俺を捕らえる限り、俺はその冷たい目を見返すことしかできないのだ。

 彼の目を見つめたまま、俺は言った。

「俺を──落として」

 その意味が分かったのかどうかは、聞くことができなかった。

 俺はただ、口内に広がる苦い唾液を飲み込んだ。


 了



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紫煙 hiyu @bittersweet

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