紫煙

hiyu

紫煙


 まるで深い闇に落ちていくように。

 彼の瞳に魅入られて、俺は諦めを知った。

 もう、一歩も動けない。

 このまま足元が崩れて、地の果てに落ちると言われても、俺はそれを信じるだろう、と思った。


 一度も会ったことのないクラスメイトに、たまりに溜まったプリントやノートのコピーを届けてやれ、と言われた。俺はクラス委員で、命令したのはクラス担任。拒否することはできなかった。

 入学してからひと月、教室にいつも空席があるのは、すぐに気付いた。俺の隣、名簿で確認してみる。その男子生徒は、一度も出席していないどころか、欠席の連絡すら入れていないらしい。

 登校拒否だろうと考えた。

 せっかくの高校入学を期に、新しい生活を始められるはずが、結局引きこもったままになっている。そんな想像をした。

 呼び出された職員室から戻ると、俺は隣の机に突っ込まれた大量のプリントをまとめ、担任からもらった封筒に詰めた。ノートのコピーは全教科はすぐに無理だ。今手元にある数教科のものだけを、印刷室でコピーした。それも別の封筒に入れる。

 それらを抱えて、俺は学校を出た。もらったメモに書かれた住所に向かう。

 初めは心配していたのだ。なんたって隣の席だ。いつも人気のないその席が、一体誰の、どんなやつのものなんだろう、と考えたこともある。窓際の一番後ろ、そんな俺の席の隣はこの席しかなくて、どうしても気になってしまうものだった。

 それがどうだ。ひと月もすればそんなことも忘れて、初めからなかったことみたいに過ごせている。隣の空席はデフォルトで、初めから誰も割り当てられていなかったに違いないと思うほどに。

 学校に来ないクラスメイトのことなど、いつの間にか心の端にも留まることはなかった。

 登校拒否って、どうせ、あれだろ? 暗い部屋に一人引きこもり、うじうじと何か考えているんだろう?

 俺は別にそれを否定するつもりはないが、多分気は合わないだろうなと思った。

 SOSでも出されているなら力になれるが、きっと向こうが俺たちを望まない。

 そんなやつのテリトリーに足を踏み入れるのは、正直気が進まなかった。

 けれど俺はどういうわけかクラス委員で、担任教師に逆らうことは許されない。

 だから仕方なく、それを了承したのだ。


 メモの住所に着くと、底はマンションで、部屋番号を確認して俺はチャイムを押した。

 もし在宅なら、本人が出てくることはないだろうと踏んでいた。多分、家族の誰かがドアを開ける。だから俺は簡単な自己紹介をして封筒を渡し、さっさと帰ろう。そう思っていた。

 インターフォンから声が聞こえた。

 若い男の声だった。

『誰だ?』

 まるで投げ捨てるような響きがあった。だからちょっと、返事が遅れた。

 俺は名乗り、用件を話した。インターフォンの向こうでしばしの沈黙があり、そのあとに小さく舌打ちが聞こえた。

 ──舌打ち?

 聞き間違いでなければ、間違いなく。

 俺は急に不安になった。

 このまま封筒を置いて、走り去りたかった。

『今、開ける』

 ところが声はそう言ってインターフォンを切った。数秒後、目の前の扉が開いた。

 俺は硬直した。

 目の前にいるのは、目つきの悪い金髪の若い男だった。だらしなく着崩したジャージ姿で、口元には火のついた煙草をくわえている。

「──で?」

 その口が動いたのを、やけにゆっくりに感じた。

「あ、の──」

 俺は手にしていた二つの封筒をぐいと差し出した。まるで胸に押し付けるような格好になってしまい、男は少し顔をしかめた。

「プリントと、ノートのコピーです。足りない分はまた後日届けます」

 一度も学校に来ないクラスメイトの名前を確認し、彼に渡してください、と言った。

 その瞬間、男が妙な顔をした。どうしてそんな顔をするのだろう、と思っていると、突然にやりと笑った。

「それ、俺だ」

「はい?」

「だから、俺。お前のクラスメイト」

 衝撃的な一言に、俺は思わずめまいがした。

 登校拒否児だとばかり思っていた空席のクラスメイトは、ただの不良だった。

 彼は煙草を吸い込み、俺に向かって煙を吹きかけた。俺がげほげほとむせるのを、楽しそうに見ていた。俺が落ち着くのを待って、

「足りない分って、何?」

 封筒の中身をぱらぱらめくりながら訊ねる。

「ノ、ノート。今日、全教科持っていたわけじゃないので」

「ふーん」

 途端につまらなそうになって、封筒をぽいと部屋の中に投げた。中身がばさりと広がる。

 散らかったそれを、彼が気にしている様子はなかった。けれど俺は、彼の身体の横から覗く、その広がったノートのコピーから目をそらせなかった。だって、他にどこを見ればいい? 目の前の彼の、鋭い目を見ていろとでも言うのか?

 彼は俺の視線の先をたどって、散らばったコピーを見た。そして俺に視線を戻す。

「気になんの?」

「え?」

「それ。気になる?」

「え、はい、あ、いえ」

「どっちだよ」

 俺の返事がおかしかったのか、彼はくっくっくと笑って利う。かんだ煙草のフィルターが覗いた。俺は今度はそのフィルターから目が離せなくなった。

 彼はまたしても俺の視線をたどり、左手でくわえていた煙草を挟んで口元から離した。

 ふぅ、と少しすぼめた唇から、白い煙が細く流れた。

 俺の目はその煙を追った。そして、その姿が掻き消えようとした瞬間、自分の身体が傾いたのに気付いた。はっとして顔を上げると、目の前に彼の顔があった。

「おもしれー」

 にっと笑うと彼は煙草を一口吸い込み、俺の顔に近づいた。

 そして──

 一瞬、目の前が真っ暗になった。口の中に苦く煙たいものが広がり、次の瞬間、むせた。

 けれどむせ返る前に、俺の目が捕らえたものは、彼の鋭い瞳だった。ほとんどゼロの距離で、彼の目が俺を見ていた。

 むせ続ける俺に、彼がにやりと笑って舌を出した。

 煙草の煙を口の中に吐き出された。それはつまり、俺と彼の唇が重なったということで──

 思考はそこで突然乱れた。

 キスされた。

 そう思ったら、パニックだった。俺は忙しなく目を泳がせ、どうしていいか分からなくてわたわたと周りを見回した。そんな様子を、彼が面白そうに眺めているのに気づいたが、反論する余裕はなかった。

「何、でっ」

 俺は手の甲でごしごしと自分の口元をこすり、言った。

「さあ」

 彼は不敵に笑った。

 俺の身体がぴくんと跳ね上がり、次の瞬間、ここにいてはいけないという危険信号をキャッチした。だから慌てて走り去った。振り向きもせず、エレベーターを待つのももどかしく、階段を駆け下りた。

 後ろから彼が何か言ったようだったが、何を言われたのかは分からなかった。


 俺は自分の教室で、頭を抱えていた。

 昨日のことを思い出すと、叫び出したい衝動に駆られる。

 誰が登校拒否児だって?

 自分が勝手に決め付けていたのにも関わらず、その責任を誰かになすりつけようとした。けれどその相手はどこにもいなくて、俺はごんごん、と机に頭を叩きつけた。

 屈辱だった。

 完全にびびった。

 同い年のクラスメイトに。

 おまけにあんなことまでされた。

 そう思った瞬間、俺はがばっと顔を上げて、再び叫び出しそうになった。うわあ、とさらに頭を抱え込み、そのままごんごんごん、と机に頭をぶつける。

「いかれてんのか?」

 そんな声が、上から降ってきた。その声に聞き覚えがあった。俺は恐る恐る顔を上げた。

「それとも、新しい遊び?」

 にやりと笑うその顔は、昨日と同じように俺を捕らえる。

「俺の席は?」

 俺は黙って隣を指差した。ずっと空席だった、それを。

 彼はへえ、とつぶやいて椅子を引き、どっかと腰掛ける。身体はなぜか俺の方を向いている。

 教室中、ざわついていた。そりゃそうだろう、入学以来一度も姿を見せなかったクラスメイトが、突然やってきた。しかも、金髪で目つきの悪い、どう見ても不良だった。そしてなぜかクラス委員である俺を知っている。あちこちでこそこそと交わされる会話が、俺の心中をますます追い詰める。

 彼はざわつく教室を一瞥し、その鋭い視線で一瞬にして沈黙を呼び込んだ。

 つまらなそうに椅子の背もたれに身体を預ける。

 彼が着ている制服は新品同様で、けれど、すでに着崩された様相だった。開いたシャツの襟元にだらしなく下がるネクタイ。俺はきちんとシャツのボタンを留め、ネクタイも結んでいる。別に真面目なわけじゃない。だらしないのがあまり好きではないから。

 なぜ彼が突然学校にやってきたのか、理由は分からなかった。ホームルームで担任は初めて彼と顔を合わせ、どこか引きつったような顔でようやく全員そろったな、などと言った。彼はつまらなそうにその言葉を聞いていたが、彼意外はみんな背筋を伸ばしてぴりぴりと張り詰めた空気を感じていた。

 授業のたびに担当教師が彼の姿を確認し、ぎょっとした。中には二度見した教師もいたくらいだ。

 彼は、意外だったがまともに授業に出ていて、途中居眠りしながらも午前中をきちんと教室の俺の隣の席で過ごした。

 昼休み、俺は彼に捕まった。飯食いに行こうぜ、なんて声をかけられ、がっしりと肩を組まれて逃げられなかった。その様子を他のクラスメイトが、まるで、ご愁傷様、とでもいうように見ていて、もちろん誰も助けてはくれなかった。

 昼はいつも、売店でパンを買って食べている、と言うと、彼はそれに倣った。俺と一緒にいくつかのパンと飲み物を買い──いつもよりスムーズに買い物ができたのは、多分気のせいではない──場所を移した。

 いい場所はないか、と問われても、思いつかなかった。いつもは教室で友人と食べている、と答える。すると彼はふーん、とつぶやいて、思いついたように階段を上った。

 屋上は、立ち入り禁止である。しかしそんなことは彼には関係ないらしい。施錠されていた鍵を開け、外に出た。ここの学校のセキュリティはどうかしている、と俺は思った。屋上に続くこの扉の鍵は、ただのサムターン式だったのだ。内側からなら、誰でも簡単に開けられる。

 半ば無理矢理屋上に連れられ、俺は諦めにも似た境地でパンをかじった。隣で同じように惣菜パンをかじりながら、彼が空を見上げていた。しばらく無言で食事を続けた。買ってきたパンを食べ終えてしまうと、やることがなくなった。

 缶コーヒーを一口飲んで、彼が軽く伸びをした。

「あー、やっぱ、学校かったりぃな」

 そう言ってあくびを一つ。

「どうして──」

 俺の言葉に彼がこちらを見た。

「どうして、急に、来ようと思ったんですか?」

「て、お前、敬語かよ」

 そりゃ、目の前の彼の人相風体を見たら、タメ口で話す勇気なんてない。

「つかわなくていいよ、そんなん」

 かちりと音がして、くわえた煙草に火をつけた。

「は、はい……ええと」

「学校なんて、興味ないけどな」

 彼は空になったコーヒーの缶に、灰を落とす。

「お前が、おもしろかったから」

「は?」

 間抜けな返事をしてしまった。返事に負けず劣らず、表情の方もそうだったのだろう。彼はおかしそうに口元をゆがめた。

「そういや、なんだっけ、お前の名前」

 逆らえないのは分かっていた。だから俺は素直に答えた。

 彼はうなずいて、反芻した。覚え込むように。

「あの、戻りませんか?」

「何で?」

「午後の授業が──」

「サボれ」

 言い切られた。

「でも、学校は、勉強するところだし」

「うるせぇ」

 突然、その声が冷たく響いた。

「逆らうな」

 今までが作り物だったかのような、急な変わりようだった。鋭い目を俺にまっすぐに向けられ、その冷たい視線に硬直する。

「言うこと聞いてりゃいいんだよ」

 煙草の煙がゆらりと空に舞った。俺はその煙の行方を追うことができなかった。まるで魅入られたかのように彼を見ていた。

 ゆっくりと、その顔がにやりと笑みを作る。

 背中がぞくりとした。

 なぜ、俺は彼から目をそらすことができないのだろう。

「ここにいろ」

 俺の手を引いた。そんなことをされなくても、俺に立ち上がる気力はなくて、足元からずぶずぶと地面に埋まっていくような感覚を覚えた。

 落ちていく。

 闇に。地の果てに。

 彼はまだ俺を見ている。

 その瞳は、俺を逃がしてはくれなかった。

 もう、動けない。

 彼の手が伸びてきた。俺は彼から目をそらせない。その手が俺を殴るのか、それともやさしく触れるのか、判断することもできなかった。

 せめて目を閉じることができたら、楽になるような気がした。

「逃がさねーよ」

 彼の声に、落とされた。


 了

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