第9話 魔王フェネクス
第9話 魔王フェネクス
「さて、と」
一通りの準備を終えて、私は立ち上がった。
私──そう、魔王フェネクスの称号を持つ、妖魔である。
ここは私の屋敷、その一角にある泉の前だ。本来であれば澄んだ水を湛えるその泉は、渾沌に満ちた不可思議な色で染められている。ここがただの泉ではなく、”畏域”へ通じていることを示す色だ。
”畏域”──妖魔が生まれ、還るところ。そこがどのようにして作られたのか、誰も知らないし、知ろうともしないところ。ついでに言うなら、その中へ行こうなどと、優秀な魔王であっても考えもしないところ、かな。
今し方、私は結界を張った。それは、ここが危険な状態になったからに他ならない。”畏域”で生まれる何者かが泉を通して出てくるかもしれず、それのせいでこの館が壊されたらと思うと、余り歓迎出来ないためだ。
幸い、今までには一度もないのだが──それでも、張って置いた結界が壊れていたことは、一度や二度ではない。幾重にも張り巡らせたそれのおかげで、未然に防げているようだ。
私は今から、”畏域”を訪れる。幾度目の訪問なのかも忘れてしまったし、どうして訪れているのかも思い出せない。それでも──もしかしたら、それに出会ったら思い出すかもしれないから、私はそれをやめられない。
ぴちゃんと、泉に踏み入れた足下から水音が鳴り、波紋が広がっていく。水底を踏むまでのその間に私は術を発動させた。
私の周囲を幾つもの光が取り囲み、舞い踊る。少々派手だが、私への攻撃全てを迎え撃つ、攻性の結界だ。この光全てが消えるまでが、”畏域”の滞在時間となる。
数歩を歩く、その間に泉は”畏域”へと姿を変える。どこが境界なのか、未だに把握出来ていないが、これはもうそういうものだとして気にしないことにしていた。それがわかっても何の助けにもならないのだから。
そうして訪れた”畏域”は、本来なら凪いだ海。しかし今は、かなりの荒れ模様だ。
「当たりを引いたか」
幾度も訪れた中で、ひときわ激しい時化。これは、生まれた魂を”畏域”へ戻そうとする反射作用らしい。そのときに、魂の抵抗が激しいほど時化も激しくなり、”畏域”は攻撃的になる。
結界に叩き付けられるのは
さて、探そうか。新しき同胞──その魂を。
眼下に広がる、果てしなく荒れた海。周囲を吹き荒ぶ風。それがすべて、魔素の変異だと、知っていても信じられないが、そのどこかに生まれた魂がいる。
波間に漂う何かにすがり、自我を得たものもいた。
ああ、今も──この荒れた中ですら存在を示すものがある。
”尾を食い合う蛇”が装丁に浮き彫りにされた本。
鮮やかな扇。
不思議な形のあれは、包丁だ。
私が手に取ることの出来ないものたち、だが、そのどれにも隠れた魂などは見あたらない。
耳をすます。叩きつける波の音、荒れ狂う風の音──全て、充満する魔素が作り上げる偽物だ。そんな音を全て意識から閉め出して、それでも残る何かに意識を向ける。
この間にも、私の結界は忙しく働いていることだろう。この荒れ模様だと、あまり長居は出来ないのだが、間に合うだろうか。
さあ、どこにいる?
私は
「──……」
「!」
聞こえた──気がする。
その場所へと望むだけで私は移動した。”畏域”ではそれが当たり前で、それが移動の方法だ。そしてはっきり聞こえた言葉が。
『開けても閉じてもただの闇』
「え?」
そんな声が聞こえたそこはただ、真っ暗な闇の中だった。
荒れ狂う海も、吹き荒ぶ風もない。ただ真っ暗で、何も見えないだけの闇。
……なんだ、これは。何が起きている?
『あれ? もしかして、誰かいる?』
「──ああ、いるよ」
揺らぐ声が聞こえる。近いのか遠いのか、掴めもしないが、ここにいることは間違いないようだ。
『なあ、聞いていいか?』
「何を?」
『ここが何処か』
「此処か」
さて、どう答えようか。先ほどまでは”畏域”だったが──ここは違うようだし。
考えてる私の耳元で、チリリと鈴が鳴った。
『わからないならいいや。ほかのこと聞いていいか?』
「すまないな。何が聞きたい?」
『オレってさ、化け物?』
「は?」
思わず間抜けた声を返してしまったが……なんだ、どういう意味だ?
『気づいたらここにいたけど、オレ、首だけみたいだし』
「首だけって……いや、お前は妖魔で……待て、もう少し詳しく頼む」
妖魔であり化け物ではないと答えるのは簡単だ。だが、この魂はどうも、勝手が違う気がしてならない。
『や、だって身体の感覚ないし。目を開けた感覚はあるから、首だけかなって。それって化け物っしょ。違う?』
「……悪い、私にはお前が何処にいるかがわからない」
事実である。この闇の中で何も見えていないし、目を開けているかどうかすら分からないくらいだ。身体の感覚はあるが、自分自身すら見えていない。
『すぐそばにいるよ? オリの向こう側、かな』
「オリ?」
すぐ近く、というその言葉を信じて延ばした手に、何かが触れた。これは、──棒か?
触れたそれを中心にして、意識を広げる。それに応じたかのように、闇の中でそれは姿を現した。──巨大な鳥籠だ。
繊細な意匠の檻、その中に──何かの気配がある。
『あー……なんだ、首ですらないんだ、オレ。やっぱ化け物かぁ』
「いや、だから化け物ではないとさっきも言ったはずだ」
だが、首ですらないというのは、どういう意味だ?
私には気配しかわからない。首かどうかなど、見えてもいない。
『そんなオレと離せるってことは、あんたも化け物?』
『化け物じゃないから! 妖魔だから!』
思わず言い返してから、私は額を押さえた。私を化け物扱いだと?
元とは言え魔王筆頭のこの私を。
面白いな、お前。
『それ、化け物と違うの?』
「……お前の言う化け物の認識って、何だ?」
取りあえず、認識に齟齬があることはわかった。まずはそこを正し、一つにしなければ話が進まない。
『──”化け物”。動植物や、無生物が化けたもの。器物百年を経て、精霊を得てより化けて人の心を誑かす。これを
その答えに、私は思わず笑っていた。旧世界の遺産──《御伽草紙》の一説を引き合いに出すとは、なかなかの博識だ。
「そういう意味で捕らえるなら、化け物とは言わないな。私たちは最初から、妖魔としての自我を持っているのだから」
化け物という言葉が、人間ではないという意味なら否定は出来なかったが、今の解釈であるならまあ、否定していいだろう。
返事はないようだが、──届いただろうか?
「自分が何者か、知りたいか?」
『それは、どうかなあ?』
知りたいなら私と来い。そう続けてようとした私は、その返事に言葉を見失った。
……どういう意味だ、それは。そんなに化け物でいたいのか、こいつ。
『化け物は、まあ……でも、オレは、オレだし。自分が誰か──なんて、別に?』
『──”誰”か?』
ちょっと、待て。何を言っている。お前が誰かなんて、知るわけがないだろう?
『オレは、オレだ。誰でもないよ』
「……ああ、そうだな」
認識の乖離──いや、まあたぶん、最初からかみ合っていなかったのだろうな。
私は”妖魔”という存在について、語ろうとしている。彼は自分の存在そのものについて語っている。まあ、かみ合うはずはないな。下手に修正するより、話を変えるか。
「ではここについて、知りたくはないか?」
『あー……それは、知りたい。出来れば抜け出し方も教えて貰えると嬉しいな?』
「なら、私と来い。このままだと消えるぞ」
興味は引けた。ではこのまま、引き出せばいいだろう。
『消える?』
「そう、魂ごとの消滅だ。此処は”畏域”、長居出来る場所ではない」
『そこのところ、もうちょっと詳しく』
「時間がない。聞きたいなら来い」
膠もないので切り捨てる。お前が理解出来るまでつきあっていたら、確実にこちらも消滅だ。そんな莫迦につき合えるか。
『非道い、莫迦って言った。化け物だからって、莫迦って言われたら傷つくんだぞ?』
「だーかーらーっ」
なんなんだ此奴は。引きずり出していいか、引きずり出されたいんだよな?
よし、そう言うことにしよう。
鳥籠なんて、野生で生きられない小鳥を守るためのものだ。どうみてもこの坊やは一人で生きられるだろうし、ダメなら私の保護下におけばいい。少なくともここで消滅するより、マシな選択肢のはずだ。
壊すのがもったいほどの繊細で丁寧な作りのそれは、どこかで見たような錯覚を起こさせるほどの代物だ。それに、引き上げ戸も鍵が外せそうな作りをしていて──ん?
「なんだ、開くじゃないか」
簡単な鍵で、ただ下ろしてあっただけだ。鳥なら開けられないかもしれないが、これなら中からでも開けることは出来たんじゃないか?
『いや、手がないからさ』
「まだ拘るか。いいさ、手も足も──全部、私が作ってやる。私の好みでな」
『ちょ…っ、なにそれ!?』
「私の魔力で人体を模して作ってやる。声や口調からすると、人間で言う十六,七くらいかな。生意気盛りの坊やというところだろう。どんな見た目が合うかな。中性的に仕上げても面白いか? ああ、いっそそうしようか。人間じゃないから、性別は必要ないしな」
『なんでそうなるんだよ!?』
「お前がいつまでもウダウダ言っているからだ」
ふん、ちょっとした冗談だ。魂の性質と余りにかけ離れていると、精神が分裂するからな。基本的には思考を読みとって、それに近づけることになる。まあ、多少は私の好みが入る程度だろうし、中性にもならないだろう。
『オレは、オレだからな?』
「そう言うなら、こちらへ来い。鍵は開いた、いつまでそこでうずくまっているつもりだ?」
『──動けないんだよ』
急に声の調子が変わる。なんだ、そう言うことなら早く言えばいいのに。
『来るなよ。お前まで抜け出せなくなるから』
「私が?」
あり得ないので一笑に付す。魔王の一人、先代妖皇筆頭を捕らえるような罠など、そうそうお目にかかれない。
『罠じゃねぇ。ヘドロだ。……来るなって!』
気にせずに、私は足を踏み入れる。
外からは見えなかったが、中央には丸い籠のようなものが吊り下げられていた。その中に何かの気配を感じるから、おそらくはそれが会話の相手だろう。見た限り、ヘドロなどないのだが。
「うわっ……」
抱き上げようと籠に手を入れたら、そこには粘性のある液体が待っていた。思わず腕を抜きとって、凝視する。
なるほど、臭いのないヘドロと言ったところか。ま、臭いがない時点でヘドロのわけがないのだが。
それに、驚いただけだ。最初からあると分かっていれば、無様な真似はしない。
『あはは、驚いた?』
「流石にな。だが、これで分かったよ」
隠す必要もないので、素直に答えておく。これは魂が成る前の状態──渾沌だ。
妖魔の魂には核がある。それが”畏域”に満ちる魔素を吸い上げることで魂となり、身体を得る。だが、これは違う。
魂そのものが魔力を生み出し、それを纏う。そのために、核を守る鎧と言うべき魂が成らない状態だ。
「懐かしいね。彼奴もそうだった」
もうどれくらい昔のことか、忘れてしまった。今では友となった彼奴──魔王トゥエリアス。奴も魔力を生成することが出来るために、魂が成らない状態で見つけだしたことを思い出す。
『いるのかよ、オレみたいな化け物が』
「黙れ」
もう話を聞く必要はない。必要なのは、魔素を集めることだ。
この籠──おそらくはこれが、魂の保護と同時に魔力の檻となっていて、魔素だけを集めることが出来ないのだろう。
「……壊すのは、惜しい気もするがな」
その言葉が聞こえたかのように、檻が霧散する。
そして瞬きほどの間に、周囲はまた、荒れ狂う海に戻っていた。
足下には、少年が一人、へたり込んでいる。
「……なんだ。あるじゃないか、身体」
やはりあの籠が、魔素を寄せ付けなかったのだろう。私の結界内にも魔素はあるから、それで必要な量が補えたようだ。
少年は何も言わず、私を見上げる。うん、やはり十五,六といったところだな。さて、ここから育つかな。
「立てるか」
手を差し出せば、ふらつきながらも立ち上がる。意識もあるようでなによりだ。
「ここ…は……?」
「”畏域”。まあ、詳しいことは抜け出すまで待て、あまり時間がない」
無数に飛んでいたはずの光珠は、後数個を残すのみ。そのうちの一つに魔力を追加で送り込み、輝きを強くする。
「なに、それ」
「んー…囮かな」
”畏域”は異物を受け入れない。魂のように飲み込めるものなら飲み込むし、そうでないものは排除する。まるでここに、自我ある者は不要だと言うかのように。
幾度も訪れるうちに、それが強い魔力を持つものであるほど優先されることに気がついた。
囮とは、そういう意味だ。
「これを利用して、ここから抜け出すのさ」
「だ、……大丈夫、なんだよな?」
「ああ、問題ない」
まあ少し、誇張が入っていなくもない。何しろこの術、使ったのは過去に二度きりなのでな。
完成するまでにいろいろと試したし、まず問題はないだろうという判断でもあるが……心を読まれなくてよかったとも、実は思う。
少年の腰に手を回し、しっかりと抱き抱える。
「目は閉じておくことを勧めるよ。けっこう、目を回すからな」
「え。何、待ってそれどういうこと!?」
その焦りようが面白くて、私はつい吹き出した。
「すぐに分かるさ」
そう告げた私の耳元で、チリリとまた鈴が鳴った。その違和感に、意識が逸れかける。
「……頼むぜ?」
「ああ、任せろ」
その声で気を引き締め直し、周囲を探る。そもそも、余計なことを考える余裕など、ありはしないのだ。──私をここに連れ込んだ先達なら、あるかもしれないが。
「三」
遠く、目映いほどの魔素の本流が、こちらを目指している。
「二」
かなり速い。方角はまっすぐ、針ほどの狂いもない。
「一」
万が一にもはぐれることのないように、結界を一つ追加する。
「零!」
視界を奪うほどに濃い魔素の嵐に、私たちは飲み込まれた。
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