第8話 ……ああ、そう言えば罠を仕掛けてたな
さて、当初の目的だったが焼き林檎がどうなったか、だが。
『ちょっと、この状態のアルジェントにやれというのは酷ですかね』
真赭改め朱夏のその言葉で、術の使い方を学ばせるのは後日となった。
いや、本人にやる気はあるのだが、どうやらこの包丁を使う術というのはかなりのバリエーションがあるらしく、アルジェントがどれを使おうかと迷ったあげく、オーバーヒートを起こしたのだ。まあ、術の知識があればなんとでもなるようなので、後でちょっと試してみようとも思う。
という状況なので、予定通り私が作っている。
と言っても、油を敷いたフライパンに、スライスした林檎を並べて焼くだけなので、大したことではない。シナモンをかけることもあるが、まあちょっとアルジェントの好みに合うかはわからないので、食べるときにかければいいということにした。
「お兄さま、大変そう」
「大変というか、うん、面倒だな」
『……』
何をしているかというと、林檎を焼いているだけである。オーブンはあるが、フライパン用のコンロを熾すのが手間すぎて、それよりはマシと思った方法を採ったのだ。何しろ豆炭か炭を熾してそれで焼くとか、なぁ。
なので今、手にしたフライパンに均等に熱を送って、じっくり焼き上げているところである。
『旅先とかでしたら、わかるんですが』
けっこう冷たい声の朱夏は、最初から呆れていた。
「旅先で聞いたやり方だからな」
相手は人間だったけれど、魔法使いでもあった。野営するときに楽だよと笑って教えてくれたやり方だ。一人分でいいときなどは、けっこう便利である。
『食料のストックがないことは分かるんですけど、燃料はちょっと、納得行きませんね?』
「悪かったな。普段は使わないから忘れてたんだよ」
……まあ、そういうことだ。
焼きあがった林檎を出してやると、アルジェントが幸せそうに食べ出した。
さて、朱夏の分はリクエストどおり、シナモンをしっかりかけようか。焼き方はもちろん、同じである。
酒を欲しがる朱夏だが、聞けるわけがない。というか、お前な。二日酔いになるのが誰だと思ってるよ?
「今度、アイスクリームにカルヴァドスでもかけてやろうか」
『ぜひ! ぜひお願いします!』
……まずったかな。
そんなこんなで時間を潰していると、門の呼び鈴が鳴らされた。どうやら仕立屋が来たようだ。
二人を広い方の食堂へ向かわせて、私は門へ出迎えに出る。
何のことはない、鍵を開けないと開かないのは門として当たり前のことだからな。
やってきた仕立屋を部屋へ送り届けると、私は暇だ。
なんでって、異性の採寸なんぞ、立ち会えるわけがないだろう。という名目で避難してきた。金額は気にするなと言ってきたせいか、朱夏が嬉しそうだったが。そう、朱夏が。頑張れ、アルジェント。わたしは出来上がりを楽しみにしているからな。
……さて、と。
アルジェントが動けない今のうちに、朝顔の駆除でもしにいくか。
念のため、館の門は閉じておく。
駆除自体は、大したことではない。燃やすのが楽ではあるが、凍らせてもいいのだから。親株を見つけて、根っ子まで完全に凍らせて、それで終わりだ。
ただ問題は、種をとばしていたこと。それから生えることはまずなさそうだが、しかし、茨の檻なんぞが発動したらとんでもないことになる。……主に、私が。
「──覆え、
地を這う草の代表、クローバー。それに魔力を注ぎ、地を這わせる。こぼれ落ちた茎や種を探させるためだ。とんでもない距離を飛びそうなので、森全体に広がるように調整した。朝顔自体は見つける端から凍らせているし、ほぼ一直線に追われているので、楽なのだが、種は流石にそうも行かない。とはいえ、今日中に全ての駆除など無理だろうから、適当に切り上げるつもりだが。
蓮華草は、地力を回復させる。が、あの妖化朝顔には敵わない。特に種は、周囲の魔素やら栄養分やらをやたらと喰って芽を出すので、森を潰しかねない厄介者だ。故に森全域にクローバーを這わせ、枯れたところを重点的に調べる。発芽された分は、クローバーを再度植えればどうにかなる、という算段だ。
「……道はどうするかな」
実は以前に、森の中に道を通したことがある。作業自体は術で出来るので多少疲れる程度だが、手入れをサボるとすぐに埋もれる。実際、今歩いて来た道がそれだ。周囲に比べれば道だと分かるが、けっして歩きやすくはない、そんな道になるし……慣れない奴が入ると、道に迷う。
朝顔以外は放置してるから、たまに変な魔物もいるし、アルジェントのことを考えるとちょっとまずいと思うのだが。
「ぎゃーっ」
「……相変わらずだな、馬鹿勇者」
学習能力がないのかね、勇者ってのは。溜息しか出ないのだが。
二代目妖皇の知己でありながら、隣国で一の勇者に成り上がり、エレーミアに宣戦布告すると同時に捕らわれの身となった阿呆である。確かにその方法で全面戦争は避けられたようだが、微妙な対立関係だったものを完全に敵対関係にしたとかな、もう阿呆か馬鹿かと。送り出した国側は、結果がどちらに転んでもよかったに決まっている。
いまだにそれを認めない阿呆なので、本心を言えば放置したいところだが、一応は救出に向かおう。どこかの二代目妖皇が護身用にとか言って炎使いの能力なんか与えるものだから、森が焼かれたことがある。あれは後始末が面倒で敵わない。
そう言えば行方をくらましてずいぶん経つが、何をしてるんだろうな、二代目は。
「……ああ、そう言えば罠を仕掛けてたな」
程なくして見つけた勇者は、見事に罠にひっかかっていた。しまったな、そうすると館の方がうるさかっただろうな。
魔物におそわれたわけじゃなかったか。放置……はできないな、魔物に襲われていたほうがよほど放置出来たな。うん、勇者だからな。
「おいこらトゥエリアス! なんで罠なんか仕掛けてんだよ!?」
「何でって、ここは私の森で、私の狩り場だが?」
勇者が叫ぶが、いやそれは筋違いだろう。そもそもここも、泉守としての領地だし。
泉守である以上、館を長期間不在にすることは出来ない。狩りで数日間留守に、とかふざけるなということになる。しかし、肉は欲しい。となると必然、罠を仕掛けることになるだけだ。……ま、彼奴の助言で魔物でも何でも捕らえられるものを作ってはあるがな。
「肉か!? そんなん買えばいいだろ!?」
「日持ちしないだろうが」
冷凍庫を用意するという手もなくはないんだが、何しろ温度調整に魔力を使う。消費がというより、人間に合わせて作られた道具だから、
術で冷やすのはさらに面倒で──ああ、先ほど見せたな。あんな風に、器具や物に手を触れたままにしておかなければならない。しばらく凍らせておく、くらいならまだしも、冷凍し続けるのは非常に手間がかかる。まあ、温度を限界まで下げて、氷室などに放り込めばそうでもないんだが、今度は氷室を作らなければならないし。
……待てよ、それなら氷室を作るような機器を探せばいいのか?
「そこにいるなら下ろしてほしいんだが?」
「ちょっと待て、考えをまとめるから」
なるべく大きくて単純なものにすれば、今までのような小型のものよりは調整も楽だろう。氷を作って置けば、供給が半日やそこら遅れても問題はないはずだ。肉の方は冷凍してからそこに放り込んでおけばいい。しまったな、どうして今まで気づかなかったんだ。
ああ、ちょうどいい今度の市で探してみるか。行商人ならどこかに伝手もあるだろう。いや、隊商を当たった方が早いか。
「よし、帰るか」
「帰る前に下ろせってぇぇ!?」
どさ、と鈍い音がした。なぜにここにいたかは気になるところだが、相手にする気はない。せっかく来たのに下ろさずに帰るのも面倒だ。怪我をするような高さでもないし、この程度でいいだろう。
「いや、俺にあるの。ちょっと相手してよ」
行く手を塞がれて、私は溜息をつく。まったく、この俊敏さがありながら、どうして獣用の罠にひっかかるんだか。
「クーデターの話なら、何度言われても答えは同じだ。──離せ」
腕を捕まれては瞬間移動しても意味がない。服か何かなら切り捨てて逃げるところなんだが。
「フェネクスが協力するって言ったら、やるんだよな。それの確認だよ」
「──彼奴が協力するとは思えんが」
言質を取りに来たようだが、甘い。
魔王フェネクス、二代目妖皇側近筆頭。今は気ままに最下位まで降りて、自分の屋敷に引きこもっている。それでも嘗ては凄腕の外交官として恐れられていた奴だ、勝算の見込みもないことに手は出さない。
いや、それ以上に彼奴、宮仕えに戻る気なんぞないだろう。どう考えても。
「でもさ、妖皇宮に強制召還だぜ? 流石に腹に据えかねてるみたいだしさ」
……阿呆。奴がその程度で短気を起こすわけがないだろうに。あ、いや。別の方向に行くかもしれん。……ちょっとそれは困るな……。
「仕込みがお前とばれなければな」
一応、釘は刺しておく。いや、どう考えてもばれるに決まってるんだが。
「俺は何もしてねーよ。てか、あの妖皇を操れるかっての。お気に入りのレディでさえ閉口してんだぜ?」
どうだかな。というかその程度も出来ないでクーデターを企てることのほうが信じられん。
「で、確認だが……レディはその気になったのか?」
「え。…な、なんでレディ? 関係ないっってっ」
わかりやすい狼狽をありがとう。いや、うん。お前が担ぎ上げようとする人材が他に思いつかないだけだよ?
何しろ魔王連中は、私も含めて、妖皇の地位なんぞに興味がない。あの妖皇の下につくのは嫌だけれど、自分が成り代わる気にもならないから放置して、騒動が起きない程度にいなせばいい。それが共通認識だ。
レディ──魔王グリモアもその一人で、元は隣国の王女、つまりは人間という変わった出自だが、彼女自身に妖皇位につく気はない。本人も明言しているし、彼奴もそう言っていたから、まず間違いはないだろう。妖皇になれるだけの教育を施したとは、言ってたが。
「では、妖皇を引きずり下ろして、その後を空位か。いっそお前が妖皇位にでもつくか? 各国との駆け引きは今のまま、各魔王に任せてしまえばいい。ああ、そうすれば──お前の契約も、切れるな。ずいぶん壮大な自殺計画だな」
指摘してやると、勇者の手が強ばる。
二代目妖皇と交わした契約の内容を、側近たる私が知らないとでも思ったか。
勇者はただの人間だ。それなのに、不死にも等しい妖魔、その皇の食客としていきる限り、エレーミアは勇者の生まれた国を襲わない。そんな無駄な契約を交わして、今も生きている。少なくとも私より先に食客に収まっていたから、数百年は生きていることだろう。
契約を交わしたのは二代目妖皇。しかし、契約上は妖皇位に就く者となっている。
──そこで、勇者が妖皇位についたら?
契約は、無効になる。その時点で不死は失われ、最悪はその場で消えるだろう。ま、下手に苦しむことはないだろうけどな。
「死ぬ気はねーよ。……ただ、今のままじゃよくないって思うだけで」
「どうだかね」
死なない身体をいいことに、けっこうな無茶をしていると聞く。壊れかけた人間が破滅へ向かう、そんな状態だと誰もが思うことだろう。今のままではよくないという点は、賛同するが、言う気はない。
「ま、いずれにしろ答えは変わらない。彼奴が乗れば、乗る。それだけだ。ああ、それと」
ふと思い出したことがあって、顔が緩んだ。それを利用するために一歩を踏み出すと、勇者がついてきたので、安心してとある印を示す。
「……なんだよ、これ? 踏めってか……おわぁっ!?」
頭上から落ちてきた網にからめ取られた上で、樹上に引き上げられる。
野生の獣相手だとよほど間抜けな奴にしか使えない罠なんだが、うん。やはりこういうものは、人間の方がひっかかりやすいな。
「罠に引っかかるのも壊すのもかまわないが、炎だけは使わないでくれよ? ではな、勇者。次に合うのは妖皇宮だ」
何か喚いていたが、触らぬ
※ ※ ※
さて、思わぬ相手に無駄な時間を取られたな。
私は懐から時計を取り出して、時間を確認する。時計台の時間は正確だが、鐘がついていない。なので普段はこうして、懐中時計を持ち歩いている。見ることは珍しいが、嗜みとしてな。
これは人間の職人が作ったもので、単なるネジ式だ。二重蓋になっていて、蓋を開けなくても見える硝子式なのが気に入っている。
ふむ、館を出て二時間か。まあそろそろ、終わっている頃だろう。
と、思ったのだが。
「まさかまだ、終わってなかったか……」
『お姉さまが、すごく楽しそうなの』
まあそうなるだろうとは思ったが、朱夏が主導権を握っているらしい。まあ、下手に入れ替わると面倒だと言うことはアルジェントにも分かっていて、取り返す気はないようだ。念話が出来て何よりだな。
「しかし仮縫いって……まあ確かに可能な限り早くという注文はつけたが、他人の屋敷でやることじゃないよなあ」
『あはは』
アルジェントの乾いた笑いが痛ましい。
布を合わせているうちに型紙が引けてしまって、仮縫いが始まったそうだ。合わせながら縫いたいとのことで、私はまた、追い出されている。仮縫いを始める際に、アルジェントは止めたそうだ。私の許可を取っていないから、と。
だがまああの朱夏なので、気にもせずに許可を出した、と。うん、拒否はしなかったと思うからそれはいいんだが、……メモリアのアルジェントが気にする
……アルジェントには、後で風呂を用意してやろう。入るときは朱夏をこちらに釘付けにしておくかな、うん。
「……そう言えば、おまえは常識がある性格だな」
『常識?』
「良識と言ったほうがいいか。他人に迷惑をかけるとか、そういう認識さ」
ま、メモリアでは意味がわからないだろうな。さて、どう説明するとわかりやすいかな。
「アルジェント。お前から術の情報がなくなったら、どうなると思う?」
『なくなったら?』
「そう、なくなったら、お前は生きていると思うか?」
『……生きてる、よね? だって、術は……知ってるだけ、だし』
「正解」
あっさり答えたな。まあ、当たり前かもしれないな。彼女が言ったとおり、術は知ってるだけ、知識だけと理解しているようだし。
「ま、要は生まれ持った性格だな。術に溺れる愚か者はいるが、根本は変わらない。朱夏の場合は……」
『お姉さまは……』
二人で沈黙する。
「…………」
『────』
アルジェントが何か言おうとした気配を感じたが、分からない。うん、わからなくていい。言葉にするなよ?
『ところでお兄さま、何してるの?』
「ああ、米を炊こうかと思ってな」
手持ち無沙汰だったので、取りあえず米を研いでいた。完全に透明とまではいかないが、まあ後は水を切ればいいだろう。
炊飯器? ああ、世の中にはあるんだが、これは面倒でね。魔力を貯めておくことが出来ないから、ごく僅かな魔力を炊きあがるまで流し続けなければならない。で、当然、流し損ねると壊れるので、持っていない。まあ、魔力を流し続けるとか敷居が高すぎて、一般にも広まらなかったらしいがな。
さて、しばらく吸水させる、と。……時間短縮、ぬるま湯でやろう。
『何、つくるの? 美味しい?』
「ああ、旨いよ。塩むすびと焼きむすびだな」
『……うー?』
「まあ、待ってろって」
こればかりは、まあ誰が作っても旨いんだけどな。炊くのに失敗させしなければ。
吸水させる間に、塩と醤油とフライパンを用意する。……七輪もあるんだが、炭がないんでな。ま、…油を薄くしけばいけるだろ。いつものことだし。作ったものに直接熱を通すことも出来なくはないが、旨くないんだ、それをやると。
「しばらく待ち時間だな。アルジェント、様子はどうだ?」
『──何か、着てる』
「着てる?」
『ドレスの形した、変なの』
「……ああ、仮布を使ったんだな」
以前に経験があるので思い出した。ドレスなどを作る際に、現物の布ではなく、仮縫い用の適当な布地を使って雛形を作り、細かいところを詰めていくやり方だ。もうそこまで進んだのか。さすがは当代一の仕立屋だ、手が早い。
「それならもう終わるな。アルジェント、終わったら朱夏を連れておいで」
『はーい』
さて、…まあこれくらいかなというところまで吸水出来ているので、炊き始めよう。
使うのは土鍋である。懐中時計を見えるところにかけておき、計った水と米を鍋に入れて、均す。で、蓋をして鍋全体に熱を送り込む。ま、このやり方だと鍋から離れられないんだがな。手を離した瞬間に熱が冷めるし。
沸騰したら二分、これを懐中時計で計る。熱を弱めて三分、と。後はさらに熱を下げてさらに五分。
寒い日なんかは時間が足らなくてもう少しかかることもあるが、恐怖は問題ないようだ。水気も抜けたし…よし、芯もないな。
蒸らしに十分で出来上がりだ。
「お兄さまー」
ん、アルジェント? 朱夏がくるかと思ったが、入れ替わってたか。
「だって、美味しいって言ったし」
「ああ、言ったな」
……餌付け効果恐るべし。なんてな。
「あとね、これ見積書だって」
「ああ……って、え、なんだこれ」
一瞬、目を疑いたくなる金額が記載されていた。別に支払えないとかは言わないし、余裕綽々だが、いやこれ、……ドレスでこんな金額になるものなのか……。
そうか。朱夏が表に出てこないのは、この金額のせいか。
「お兄さま、出来た」
「あ、悪い。すぐやるからちょっと待て」
一口ほおばって、芯がないことは確認出来たので、そのまま握る。手で握ってもいいんだが、これも術で握れるんだな。
『無駄にも程がありますよ……』
「そうそう、彼奴にもそう言われた。手で握ればいいだろうってな。幾つか同時に出来るし、楽なんだよ」
実は彼奴が二つ同時の作業が出来ないせいだと後から知って、思い切りどついたが。
海苔があればよかったんだが、これも買ってこないとな。そのまま手に持たせると、何も言わずともアルジェントは食いついた。瞬く間に一つ食べ終わり、ふにゃあと幸せそうな顔になる。
つい、もう一つを渡してしまった。今度はゆっくり、味わうつもりのようだ。
『美味しそうです』
「お前の分もあるから、心配するな」
握った分に醤油を塗って、これはフライパンへ。均等に熱が通るように、そして少し焦げ目がつくように熱を回す。強すぎると黒こげだし、弱すぎると醤油が蒸発しないので、けっこう慣れがいる。
焼きあがった分を一つだけ確保して、アルジェントに差し出す。予想通り、全て彼女に食い尽くされた。
『あの…わたしの分は……?』
「うん、今日のところはこれで我慢してくれ」
確保してあった塩と焼き、一つずつを朱夏に示す。私自身の分も、アルジェントに食われたからな、まあ諦めろ。
結局このあと、アルジェントのおねだりに負けて、三回ほど炊き直してむすびを作ったことを、明記しておく。
──人間ていいな、満腹感があって……。
※ ※ ※
「素晴らしい出来映えです。流石は当代一の仕立屋殿──文句のつけようがありません」
「恐れ入ります」
身にまとったドレスを目をキラキラさせて絶賛する朱夏に、若干、アルジェントが引いている。まあ確かに、文句のない素晴らしい出来なのは認めよう。
だが。
「──昨日の今日で、なんで出来上がるんだ」
そう。注文し、仮縫いまで仕上げていったのは、昨日である。これが普段着のようなものならあり得なくはないが、指定した柄で刺繍を施した上にレースをふんだんに使っている。このレース、確か特注扱いで値段が切られていたはずだ。ということは、在庫など持っていないはずなのだが。
「はい、本来はもう少しお時間をいただくのですが──
「レディの?」
昨日の話にも出した、元人間の魔王である。なるほど、新調する予定だった生地をこちらへ回してくれたか。後で礼を言わないとな。
そう言えば、そもそもの舞踏会自体も彼女の無聊を慰めるためとかいう理由で二代目が始めたんだったか。
「はい、トゥエリアスさまがパートナーをお連れになるのは珍しいから、そちらを優先するように、と」
「──言ったのか、私のことを?」
「いえ、勇者様からと」
ああ、そうか。そう言えば昨日来たのだったか。あー……。会わせなくて正解だったな。うん。
「それから、伝言を言付かっております」
「伝言? 私にか」
「はい。フェネクス様ご滞在ですので、早めにいらしてはいかがか、と」
「──彼奴か。そうだな……」
この時点で、私は気づくべきだった。誰からの伝言なのかを、この仕立屋が口にしなかった事実に。
だが、長く合っていない友人に会うというのは、魅力的な誘いであって。
「いいだろう。少し早いが、ここにいる必要もないしな。いいか、朱夏?」
「……」
返事がない。ただの屍ではあるまいに。
「おーい、朱夏?」
「……」
やはり返事がない。
よほどこのドレスが気に入ったのだろうか。
「朱夏」
肩を叩いてやると、びっくりした顔で朱夏が振り向く。──その瞳に、涙が浮かんでいた。
「……どうした、そんなに気に入ったか?」
「え、あの。……わたし…は」
涙に気づいていなかったのか、あわてて拭う。
「落ち着け。その様子だと聞いていなかったか?」
「いえ、聞こえておりました。早めに妖皇宮へ向かうというお話…ですね」
「ああ。いいか、それで?」
「はい」
本当に大丈夫なのか、不安はある。まだアルジェントの術も扱いはあやしいし。だが、どうせ行くことに変わりはない。勇者が何を考えているのかもわからないし、早めに行って様子を見るのはいい考えかもしれないな。
「よろしければ、私どもがこれから妖皇宮へ参ります。ご一緒にいかがですか?」
「ありがたいお誘いだが、不要だ。館の片づけもあるしな。済まないが、明日には伺うと伝えて貰えると嬉しい」
「──承知いたしました」
こちらが断ると思っていなかったのか、返事には一瞬の間があったように思えた。
「あと、舞踏会当日の着付けなんだが──」
その後、当日の着付けなどについても確認をし、万事請け負うとの約束(むろん、それなりの金額だ)を取り付けて、仕立屋を送り出した。
「トゥエリアスさま……片づけは何を手伝えばよろしいです?」
「ん、ないぞ? なんだ、本気にしたのか」
え、と言う顔で朱夏が私を見る。いや、あの流れで他にどんな理由を付けて断れと?
「ですが……せっかく馬車ですのに」
「そこか」
まあ確かにこの屋敷に馬はいないんだがな。一応、馬車はあるぞ。
『馬車、あるの?』
期待に満ちた声でアルジェントが問いかけて来た。うん、あるんだ。一応な。
「一応、ですか」
「ま、見せたほうが早いよな」
一階の奥にある物置部屋へ、二人を案内する。
ここはいわゆる術具と言われるものが納めてある部屋だ。その中に、一室丸ごと使って保存してある。
「わ、すごい」
『これは……また立派な馬車ですね』
「初代妖皇が作った品だそうだ。管理を任されてるだけではあるがな」
王侯貴族が乗っても恥ずかしくないであろう出来の馬車である。そんなものが部屋に入るのかって?
うむ、これに関して入るのだ。なにせ、一抱え程度の大きさでしかないからな。
「でも、馬がいないよ?」
周囲を見回したアルジェントがそれに気づく。
「中にいるからな」
扉を開いて、中を見せる。そこに四頭の馬──の模型がおいてある。昨日の鳥のような、金属で出来たものが。
「うわぁ、可愛い」
「……そうか、可愛いか」
この…いわゆるブリキの馬を見て、可愛いと表現したのはお前が初めてだよ、アルジェント。
カッコいいとか、そういう表現になると思うんだがな。
『感性は人それぞれ、ですよ。ああ、でも……本当に素敵ですね』
アルジェントの興味は馬、朱夏の興味は馬車そのものというところか。
「これ、もしかして動く?」
「流石に分かるか」
その通り、あの鳥と同じく動かせる。ついでにサイズも変わるので、妖皇宮へはこれで出向くつもりだ。ただ、問題があってな。
「起動にけっこうな魔力を消費するんだ。だから、お前たちの能力も借りるぞ?」
一人で全部やったら倒れるからな、確実に。
その後、アルジェントのドレスや宝飾品を鞄に詰め込ませ、用意は終わった。外へ運び出し、玄関に横つけて、まずは馬車を起動する。これは、希望により朱夏に任せた。
その後、アルジェントに変わって馬を起こす。
実はこの馬車、初代の試作品らしい。起動そのものは簡単に出来るが、魔力があふれ出す作りになっている。何でも威力調整が苦手だったころの品で、大量の魔力を消費し、それでも暴走しないように敢えてあふれるようにつくったのだとか。それもあって、単騎で起動を仕掛けると、どちらかしか動かないという自体になってしまうのだ。だが。
『術具からあふれた魔力を吸収して利用する──確かに、アルジェントなら可能ですね』
相変わらず魔素は操れないままだが、やはり魔力になったものは操れた。その魔力を馬へと注ぐことで、目覚めさせたのだ。
「館はこのまま鍵をかける。忘れ物はないな?」
『ええ、大丈夫ですよ。ドレスの一式だけですし』
「……お片づけは?」
「昨夜のうちにすませたよ。さて、では乗ろうか」
馬車の中は快適だ。人数が少ないこともあるが、空間が広い。揺れも少なく、よほどでなければ酔うことはないだろう。このあたり、初代が相当に凝ったらしい。
なぜこの馬車を持っているかって?
さて、彼奴から館を譲り受けたときに最初からおいてあったからな。彼奴も何も言わないし、もしかしたら知らないんじゃなかろうかと思っているが。
アルジェントは窓にへばりついて、外を見ている。とりあえず、館が見えなくなるまではゆっくり行こうか。
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