第2話 ……迂闊です、トゥエリアスさまは。

 ごぼごぼごぼ。ぶくぶくぶく。

 そんな音が聞こえて来て、私はそこが水の中だと気づいた。金鳳花の結界は既になく、私たち二人とも水中に放り出された状態だ。

 まさか、”畏域”から水中に放り出されるとは思わなかった。いつもなら水面に抜けるから、きにもしていなかったが、こういうこともあるのだな。

 ごぼごぼとうるさい音を聞きながら、私は水面へと移動する。さて、…水も滴るいい男とはというよりも、濡れ鼠だな、これは。


「し…、死ぬか…と…思っ…」

 相変わらず派手に咳き込みながら、真赭が呟く。そんなわけがあるか、人間を模した身体とはいえ酸素は必要ないし、水中に落ちたところで魔素は──……ん?


「……真赭?」

「違…う、それ、…げほっ」

 派手に水を吐いた少女を地面に下ろす。どうやら本来の持ち主に戻ったようだ。”畏域”を抜けるときの衝撃に耐えられなかったか。まあ、指輪は無事なようだし、そのうちに気がつくだろう。


「ったく…」

 もう少ししっかり保護してやるべきだったかもしれないが、まさかここまでまるきり魔素が扱えないとは思わなかった。指を鳴らして余分な水を抜いてやると、どうやら呼吸は落ち着いたようだ。ついでに双方、服も乾かしておく。


「あ……、ありがと…」

「どういたしまして。…さて、どこまで覚えている?」

「あの……、姐さまが、術が発動しますって言った、そこまで…」

「姐さま? ……ああ…うん、姐さまか。分かる気はするが……」

 あの一瞬は、私も怯んだ。まあ、……その辺りは当人に任せよう。下手に口を出す必要はないな、うん。

 ……だが。


「お前、真赭──その姐さまを、脅してなかったか?」

「脅してない、脅してないよっ!?」

「『ねぇ、その術が取り戻せるとしたらどうする? わたしを消して、知識を持っていく?』だったか?」

「──っ!?」

 どう聞いても脅しとしか思えない台詞だな。真赭がどう受け取ったかは知らないが、なかなかの度胸と言えるだろう。存在的には格上でも、技術的には遙か高みにいる存在相手に、自分の命を賭けたのだから。


「脅し…かな、やっぱり。あのときはその、……必死、だったから…」

 あ、萎れた。面白いな、こいつ。


「…あなたは、あのときの魔王さま?」

 しばらくしてからこちらを見た少女は、青灰色の瞳を持っていた。

 ああ、と私は頷く。


「あの一瞬では顔を覚えるのは無理か。…そう言えば、私の髪が虹色だとか言っていたか?」

「…言ったし、見た。…けど、今は黒に見える」

「見えるじゃなくて、黒なんだよ」

 納得がいかないという顔の少女に、私も応える。何を錯覚したら虹色に見えるのかは知らないが、そういうこととしか思えないし、そういうことにしておこう。


「名乗ってなかったな。私は魔王トゥエリアス。エレーミア妖皇国に仕える魔王の一人で、お前の言う姐さまの主だな」

「姐さまの?」

 思いがけない内容だったのか、少女は驚いて首を傾げた。


「…じゃあ、姐さまに術を掛けて放り出した人?」

「違う、そっちじゃない!」

 周囲の気温が下がったかと誤解するほどの殺気を、少女が放った。嘘だろう、この可愛らしいなりで、なんでそんなことが出来る!? てかメモリアって魔素を扱えないのが標準だぞ!?


「──完全体じゃないうちは、誰かの庇護下に入った方が安全なんだよ。真赭の意識があったから、先に契約しただけだ。間違えるな、阿呆」

「…あれ? 姐さまだけ…?」

「ああ、そうだな。まあ、そうだな。主というより、一人前になるまでの保護者とでも思えばいい。契約も簡単なものだから、解けたら解放──独り立ちを認めよう。真赭もともにな。それでどうだ?」

 少女はその場で考える様子を見せた。流石に、即答しないだけの分別はあるか。


「”盟約の鎖”──主から配下となる者に与える鎖。保護者と庇護者の関係を示す。ある程度の術と魔力が扱えれば従者からの解除が可能となるため、配下の成長を見る意味で与えることもある。……これ?」

「…そうだな、お前が望むなら」

 なるほど、このメモリアの特性は術に関してか。皮肉なものだな、先天的に術を扱う能力を欠くメモリアが、この世の誰よりも術に詳しい存在だとは。

 ってちょっとまて、それを扱える真赭って、最強の存在じゃないか、もしかして。


「いいよ、それで」

「……いや、お前もう少しその術を調べて見ろ。本当にいいのか? その…鎖だぞ?」

「でも、これ以上の情報…出ないよ?」

 ないのか。それしか情報がないのか。そう言うものなのか、それともこの少女が成長すればもっと詳しい情報が手に入るのか?

 というか、鎖だという時点で何か見抜いてくれ、頼む。


「…もっと、強力なのがいい? 刺青刻むのとか、あるけど」

「いや、そういう意味では……」

 ないのだが、ああ、そうか。確かに術で探すとそう言うことになる。仕方ない、それでいいだろう。

 引き抜く髪は一本で、契約書とペンになる。少女の髪を一本貰って術に巻き込めば、それがインクに早変わり、だ。


「これに名を書き込めば契約成立だ。…というかお前、名はあるのか? 名付けを契約の代わりにしてもいいんだが」

「”妖魔の名付け”──名付け親の庇護下に入るという契約であり、契約書に準ずる効果を持つ。双方の意志があっても破棄は出来ず、より強力な妖魔により再度名付けられたときのみ、旧契約が破棄されることになる。…なにこれ?」

 …ああ、そう言えばそんな契約もあったか。術ですらないから、忘れていたな。


「妖皇国で魔王に仕える場合にのみ有効だな。この場で術を掛けると言うより、妖皇宮に契約書を提出することで、所属をはっきりさせるだけだ。別に、それでもいいぞ?」

 完全な役所仕様なので、効果としては国に所属するすべての者に通達が行く。その反面、本当に書類だけなので、実質は何のつながりもなく、拘束もない。正直、メモリアに関してはその方が安心なのだが。


「”鎖”でいい。解くの、楽しそうだし」

 さほど考えた様子もなく、少女が応えた。まあ、そういうつもりがあるなら、鎖でもいいか。だが…そこで話が戻るわけだが。


「で、名はあるのか?」

「んー……?」

 ないんだな。ああ、わかっている。というか、なくて当然だ。真赭のように、名を持っている時点で特殊な存在なのだから。


アルジェント

 少女の瞳は青灰色。だが、角度によっては、銀にも見える。だからだろう、そんな言葉が口をついたのは。


「──わかった、わたしはアルジェント」

 その答えのまま、少女はペンを走らせた。いいのか、それで!?

 …まあ、姐と慕う真赭も、その意味は水銀だし…悪くはない…か。気に入ったなら、私がとやかくいうことではないな。

 ちょっとだけ嬉しい気がするのは、内緒だが。

 少女──アルジェントが名を書き終わると同時に、ペンと契約書が光の粒子となる。その片方が私の手に、残る片方は──まあ、彼女の首に巻き付き、光の鎖となって消えたら契約完了だ。


「……ほんとに鎖なんだ」

「ああ、本当に鎖だよ。後悔したか?」

「ぜんぜん。…とっとと解いて見せるから、見てなさい」

「ああ、早めに頼むよ」

 それは本心からの言葉なんだが、アルジェントは訝しむような顔をした。

 ああ、だからな。


「子供に鎖をつけて喜ぶ変態と、からかわれるんだよ……だから、舞踏会の招待状が来るまでには、解いて欲しいところだな」

「……子供じゃないから!!」

 ……真っ赤になって叫ぶ辺りは、子供としか思えないんだが…どうなんだろうな。

 ましてここは、森の中で。


「──まあ、いいか。今夜は──…」

 ザワ、と周囲の枝が揺れる。風ではなく、魔物がそれらに乗ったが故に。


「どうせ、帰れないしな」

 ボキボキと枝が折れた音を皮切りに、魔物たちが飛びかかる。おそらくはメモリアの魔力が目当てだろうが、勝手に枝から落ちる程度の魔物に遅れを取りは……勝手に?


「トゥエリアスさまの手を煩わせるほどでもありませんよ?」

 にっこりとアルジェントが笑う。…まあ、真赭であることは明白だ。どうやら枝を落とした時からすべて、彼女の仕業だったらしい。本人から許可が出ているとは言っていたが、他者の魔力を、よくもまあここまで鮮やかに操るものだな。感心するよ。


「優秀な配下でありがたいが──」

 私は地を蹴ってアルジェントを抱え、更に瞬間移動で距離を取る。私たちの立っていたちょうど真ん中に、地面から何かが生えてくる。


「──…あ、れは…?」

 流石にかなりの距離──二キロは離れたはずだから、そうそうこちらに気づきはしないだろう。今は彼女も術は使っていないようだし。


「たぶん、朝顔だな。元はメモリアの保護を目的とした妖化植物だが、野生化してるようだ」

「保護…ですか?」

「初代妖皇が造ったらしいんだが、メモリアは術が使えないという前提でな。メモリアが術を使ったら隷属と見なして強制保護に動くそうだ」

「……はいぃ!?」

「まあ、その後にメモリアでも術を使えることが判明して、研究室に在る分は改良されたらしいんだが…野生化しててな。あれは、駆除対象だ」

 まあ、ほとんど意味はない。何しろ、とんでもなく生命力が強く、茎が地に着いたらそこから根を出して増えていくのだ。その根を掘り起こして焼却し、ようやくその株の駆除である。恐ろしいのは、その根がほんの少しでも残っているとまた生えてくることだろう。

 普段は少し大輪の花を咲かせるだけで、見た目も綺麗なんだがな。


「まあ、この後で術を使わなければ追っ手は来ないだろう。この辺りに小屋があるはずだ、そこまで行こうか」

 とりあえずはアルジェントを下ろし、方角を見定める。また移動しようとして──今度はがくりと、膝を着いた。


「トゥエリアスさま!?」

「ああ、大丈夫…力が入らないだけだ」

「力って──っ、その瞳!?」

 瞳? …特に自覚はないが、何かあるか?


「お気づきじゃないんですか、色が反転してますよ!?」

 ああ、そういうことか。

 実を言えば、妖魔の特徴はその瞳にある。人と違うと明示するためだろうか、人で言う白目に色がついていて、黒目に当たる部分が白いのだ。ただ、これは普段、私たちでさえ忘れるほど、表には出てこない。

 身体を構成する魔力に余裕がないときだけ、色が反転──本来の組み合わせに戻るのだ。

 更に言うと、この状態になると見ている景色が一変する。魔素や魔力の強弱でしか物が見えなくなって、色がわからなくなるのだ。なぜそうなるかと言えば、これはもう自分を守るための保護機能である。襲ってくるのが魔物なのかただの動物なのか、それで見分けがついてしまうのだから。

 よくよく考えて見れば、先の襲撃も、それで地中の様子に気がついたのだ。

 まあ、かなりの魔力を放出したし、自業自得だな。


「見た限り、この辺りに魔物はいないようだ。悪いが、肩を貸してくれるか。小屋まで歩こう」

 不満そうに、真赭が私を支える。情けない主で、不満になったかな。


「……迂闊です、トゥエリアスさまは」

「あー……否定はしない」

 友人たちにも言われたことだから、今更否定する気はない。何せ誰かがいると何かをやらかすから、まあいろいろ、さんざん、説教を食らっている。配下からも遠慮なくド叱られたこともあるし、その辺りは……まあ、そういう性状なんだろう。


「原因はわたしたちですから、大きなことは言えませんが──あんなに魔力を放出する必要はなかったんです」

「……そうなのか?」

 知らない術で魔力を貸せと言われること自体、経験がないのだ。どの程度の魔力を渡せば足りるかなど検討もつかないし、あれでも自分には余裕が残るように生成したはずなんだが。


「…申し上げましたよ、間違って魂に手を出してしまったと」

「魂? ……ああ、そういえば言ってたな。あれは、…どういう意味だ?」

 示す方へ歩きながらも、真赭は怒っている気配を漂わせている。


「根幹に手を出して、かなりの魔力を戴いていたんですよ。…まあ、簡単に言うなら過剰供給ですね。それは、今の結果を見てもわかるでしょう?」

「……あー……」

 理解した。

 つまりあの段階で、私が魔力使用を許可するだけでよかったのか。いや、それに留めた方がよかったのか?

 …ちょっと、待て。根幹の魔力をそこまで使用されたら、私の存在はどうなる?


「危なかったですね。余剰分は魂の方に戻させていただきました。でも、魂からの再供給はうまくいかなかったようです」

 そうか。…うん、すばらしく優秀だ。まさか”畏域”巡りでこんな配下を得られるとは、思っても見なかったな。


「ほめられることじゃないです。…主人を危険にさらすなんて、許されません」

「私は気にしないが。…それにその時点で、お前たちの主になってたか?」

「──…なってません、けど。でも、それしか、なかった…ですし」

 面白い、真赭が拗ねたらしい。


「二度目がないなら、それでいいんだが?」

「当然です。アルジェントにもよく言い聞かせます」

 …そうか。よく、言い聞かせるか。…うん、頑張れアルジェント。私が口を出すと返って大変なことになりそうだからな。


「…まあ、優しくしてやれ。…あ、悪い真赭、あれ、採れるか?」

「はい?」

 真赭が見上げた先には、ひらひらした白っぽいものの塊が見えただろう。くす、と笑ったような気配の後で、それが纏めて落ちてきた。全部ではなく、その半分ほどだ。


「楽しみにする誰かのために、半分残す。──山菜取りの鉄則、ですよね」

「なんだ、知ってたか。…お前、器用だな」

 上着にでも包もうかと思ったのだが、真赭が籠を作り出したので、ありがたくそれを使うことにする。妖魔の着る衣服と同じ、魔力で造った代物だ。まだしっかり余裕があったので、道中に見つけたほかの茸や木の実も採ってもらった。呆れた顔をしつつも楽しそうなので、まあ、いいだろう。

 …どうも、何か忘れている気がするのだが、それを思い出すよりも先に目的の小屋を見つけてしまった。

 真赭が率先して小屋の掃除を始めてしまったので、私は外周へと結界を張ることにした。気配を感じた真赭は慌てて飛び出してきたが、問題はない。既に張り終わっている。


「……忘れていませんよね、わたしが肩を貸した理由を?」

「ああ、大丈夫だ。もう落ち着いたからな」

 彼女の目が朱く見えるから、まず間違いないだろう。そう言えば茸を採っていたときも見えていた気がしなくもない。だがちょうどいい、これなら支えなしでも動けるし、料理も出来るだろう。


「……本当ですね。あと、お任せしても?」

「ああ、問題ない。疲れたか」

 いえ、と真赭が笑った。


「アルジェントが退屈しているようなので、少し相手をと思いまして。後は幾つか、術の使い方も教えようかと」

 そんなことをいいながら、いそいそと布団を敷いている。端の方へ敷いたようだが、別に遠慮せずに囲炉裏の近くに来ればいいものを。まあ、後で移動させてやるか。まだ火も入れていないしな。

 ん?

 だが……あの身体、持ち主はアルジェントだよな。彼女の意志を抑えつけたということか?


「……鍋が出来上がるころには戻してやれよ?」

「はい、そのつもりです」

 うん、まあ…頑張れ、アルジェント。美味い茸鍋が待ってるからな。

 目を閉じたアルジェントは、寝息を立てない。先ほども言ったように、呼吸の必要がないためだ。起きている間は会話に必要だから空気を取り込むが、眠るときはそれが不要になるので、呼吸が止まるのである。

 ちなみに先ほどアルジェントが溺れかけたのは、呼吸が必要ないという認識がなく、水を体内に吸い込んでしまったためだろう。良くも悪くもこの身体は優秀で、ほぼ完璧な人間だ。故に慣れぬうちは意識してそう言った切り替えをしないと、彼女のような目に遭うことになる。ま、死にはしないのだが。

 まあ特に、彼女の場合はメモリアで、妖魔にとって本能レベルの知識すらないわけだから、大変だろうな。その辺りも本来なら私が教え導くことになるのだが──幸いにも、真赭が率先して引き受けてくれるようで、何よりだ。


「さて、と」

 まずは囲炉裏に火を入れようか。炭をくべるのは慣れているし、火をつけるのは術でいいから、楽なものだ。部屋を暖めるのも目的なので、まずは強く燃え上がらせておく。


 ん? 妖魔のくせに何故に部屋を暖めるのかって?

 しつこいようだが、妖魔の身体は人間を模して造られている。つまり、暑い寒い痛いなどの感覚がしっかりあるのだ。まあ風邪を引いたりはしないんだが、やはり快適な温度というものがある。つまり、寒いものは寒いのだ。

 まあ術で周辺を暖めればいいのではないかという話もあるし、それを実践する奴もいるのだが、私はやらない。炭が燃えているのが好きだし、いろいろなものを焼いて食べることが出来るのも楽しい。何より、術だと相当に作り込まなければ、眠っている間に効果が切れる。寒さに目を覚ますとか、そんな寒い真似は二度と御免ごめんこうむりたい。

 ……ああ、気づかれたか。うん、昔にやったことがあるのだ。だから、二度とやらない。わかったかな。わかったなら、それ以上は話題にしないでくれると在りがたいな。うん。


 さて、いい感じに炭も燃え始めたところで、鍋を掛ける。中身は当然、先ほどの茸だ。と、その前に昆布だな。小屋の棚にしまわれた中から、干し昆布を一枚、取り出す。…流石に一枚すべては多いので、その半分──掌二枚分程度を降りとって、細切りにした上で鍋に入れる。残りは丁寧に包み直して、棚に戻した。

 実はこの小屋も、友人から譲り受けたうちの一つだ。といっても自由に使っていいからと鍵を渡されているだけで滅多に使わないし、本人も整えはしたが使わないと言っていた。保存の利く調味料がいろいろと揃えてあるので、時折利用させてもらっている。

 そうそう、後は醤油だな。前は味噌もあったようだが、発酵が進んで味が変わるからと、今はもうおいていないそうだ。確かどこかで干した味噌玉があると聞いた気がするが、今度探してみるか。彼奴も在れば使う気になるだろう。

 分量はまあ、適当に。こんな山小屋で計量器具などある……あるかもしれないが、出す気はないから、目分量で十分だ。後は火にかけて煮上がるのを待てばいい。

 彼奴は昆布を煮込まずにすくい上げると言っていたかな。まあ山小屋料理だし、その辺りは好き好きだろう。

 採ってきたものはほかに…栗と木通あけびか。木通はそのままでいいとして、栗か。焼いて食べたいところだが…爆ぜるよな、あれ。切れ目を入れておけばいいんだったか?

 …まあ、私たちなら怪我と言うほどのこともないし、いいか。適当で。渋皮辺りまで切れ目を入れれば大丈夫だろう。

 後は出来上がるまですることもないが…ああ、いや、そうだった。布団を近づけて置こうか。私の分も敷いて…とは言え流石に私が眠るほどは時間もないし。どうするかなぁ…。

   

 ※ ※ ※

   

 ここはいったい、どこでしょう……わたしはいったい、だれでせう……。

 そんなことを呟きたくなる此処は、真っ白な空間です。真赭まそほ姐さまによると”集合的無意識下にある領域”で、妖魔なら誰でも訪れることが出来る場所、らしいよ。

 うん、わたしは姐さまに放り込まれただけだから、ぜんっぜん理解できないけど。あ、いや…一つだけ理解出来てるかも。

 いやね、『集合的無意識下』ってことは、トゥエリアスも来れるのかって聞いたんだよね。思うよね、普通に考えるよね!?


「トゥエリアスさまも、もちろんいらっしゃることは出来ますが?」


 怖かった。その一言がにっこり笑って返ってきてるのに、めっちゃ怖かったの……!

 ダメだよ。姐さまは、姐様を怒らせたら絶対だめ。間違いなくダメ。ダメだから!

 うん、えっとね。姐さまは優しいよ。ここもね、すっごく居心地よく仕上げていってくれたの。ほら、寝椅子カウチソファもあるし、脇机サイドテーブルもあるし、灯りなんか天井にシャンデリアだし。

 すごく趣味もいいし、素敵な女性だと思う。

 …だから、絶対に怒らせたらダメなの。絶対。


「待たせましたね、アルジェント。退屈だったでしょう?」

「え、いえ、ぜんぜん…っ」

 嘘じゃないです、嘘じゃ。

 だってそんなに待ってた気がしないし。そう言えば寝ててもいいよって言われてたっけ。


「そうですか?  でも外の様子は分からないし……不安はありませんでした?」

 不安というか、疑問というか…うん、そっちはあるかな。

 でもまあ、…何も出来ないからねー。


「今、トゥエリアスさまが鍋を作って下さってます。それが出来たら食べに行っていいですよ」

 え、いいの? 姐さまは?


「もちろん、戴きます。ああ、トゥエリアスさまに昆布を戴きたいですと伝えて下さいね」

 昆布? …あ、御出汁に使ったのかな? うん、好きな人は好きだよね、あれ。

 もちろん伝えますと堅く約束し、姐さまの笑顔を引き出したら、本題が来た。


「あまり時間はありませんが、基本的なことを教えておきますね。まず貴方は、自分が妖魔だという自覚はありますか?」

「妖魔? えっと、エルフとか悪魔とか…そういうの?」

 わたしの答えに、姐さまが頭を押さえた。な、なんか不味いこと言った!?


「いえ、問題ありませんよ。ただ、…大切なことを、一つだけ言っておきます。貴方の知識にある術の数々ですが、他人に請われても教えてはなりません。トゥエリアスさまにも、私にも、です」

 え、ちょっとまって。わたし、姐さまを引き留めるときになんか言ったよ?


「ええ、それも含めて、です。どのみち、わたしに使えても意味はありませんしね。だから、その術はすべて、貴女が使いなさい」

「ふえ?」

 ぷふ、と姐さまが吹き出して、わたしの頭をなでた。


「そんな呆けたような顔をしないで。貴女だって妖魔なんですから、十分に素地はあるんですよ。ただね、…貴女の知る術の中には、禁術が少なくないと思いますから。継承者がいなくて失われただけの術でしたら問題はありませんが、区別はつかないでしょう?」


 あ、はい。無理です。だって、術を探すときって勝手に本が差し出されてくる感じなんだよね。見た目は全部一緒だし。…あれは、せめてジャンル別にわけるくらい、してもいいと思うんだけどな。


「どちらにしても、失われた術という物は値千金です。誰もがそれを欲しがるでしょう──だから、術を教えてはなりません。そして出来れば、貴女が行使するところも見られないようにするべきでしょうね」


「でないとわたしが狙われるから」

 被せ気味に答えたわたしを怒らず、姐さまはまた、頭を撫でてくれた。


「正解です。だから、早く術を会得してしまいしょうね。よからぬ輩に捕らえられても、自力で逃げ出せるように」

「はい」

 撫でてくれる手が気持ちいいなとか思いつつ、わたしはそう答えたのだった。

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