おやすみ

hiyu

おやすみ


 初めて手をつないだときのドキドキは、いつになってもきっと忘れないと思っていた。

 どちらともなく伸ばした手が、ほんのわずか触れ合ったとき、思わずその手を引いた。お互いに、同時に。

 それに気付いて、顔を見合わせて、小さく笑った。

 そんな一瞬さえ、私たちは知らなかった。

 自分の気持ちを意識する前までは。


 いつから手をつなぐことが当たり前になったのだろう。

 女の子同士の私たちが手をつないでいても、誰に何を言われるわけではなかった。仲のいい友達同士のじゃれあいの延長で、それは認識されていた。

 女の子は、いつも一緒。

 移動教室や、トイレや、下校のときも。

 きゃらきゃらと笑う女の子の中にいれば、私たちのつなぐ手なんて、簡単に溶け込んだ。

 けれど、初めて手をつないだとき、私はその意味を考えてその夜は眠れなかった。

 好きと気付いて初めての、夜だった。

 触れた手が熱く、熱を持つ。

 私の手のひらは汗でじんわりと滲んで、それを彼女に気付かれたらきっと気持ち悪がられると思い、すごくはらはらしていた。

 別れ際、彼女が言った。

 緊張したね、と。

 持ち上げた手を、私たちは見つめた。

 初めて手をつないだから。

 彼女は私と向き合って、つないだ手を私たちのちょうど真ん中に浮かせた。そして、もう片方の手をそれに重ねた。

 私はこのまま自分の心臓の音で世界中の音がかき消されてしまうんじゃないかと思った。

 大好き。

 彼女がそう言って、私に向かって笑った。

 その手が離れて、私たちはお互いの家に帰ったけれど、その帰り道はずっと、泣きたいくらい寂しかった。

 さっきまでつないでいた手は急激に熱を失い、私はその感覚がとても辛かった。

 その夜、私はベッドの中でずっと、彼女のことを考えていた。膝を抱えて猫のように丸くなって、少しでもその身を縮めようとした。私の手のひらがすっぽりと私自身を包めればいいのに、と思いながら。

 彼女とつないだ手は、きっと、彼女の気持ちを少しくらいは残してくれている。だから、その手のひらで私を包んでほしかった。

 泣きたいくらいに寂しい。

 けれど心臓はうるさいくらいにドキドキと高鳴っていて、いつまで彼女の笑顔が頭から離れなかった。

 眠れない。

 私のこの胸の高鳴りも、寂しさも、きっと誰もが感じることに違いないはずなのに。

 大好き。

 布団の中で小さくつぶやいてみた。

 彼女の声が、それに重なったような気がして、私はまた、泣きたくなった。

 大好き。

 そんな一言を、こんなにも嬉しく思う。

 そして、こんなにも寂しく思う。

 手をつないだ夜、私は一人、少しだけ泣いた。


 初めてキスをした。

 そして、彼女の唇が甘い香りを漂わせていたことに気付いた。

 それは昨日、一緒にドラッグストアで買ったリップクリームの香りで、何種類ものフルーツの香りの中から、私が一番好きなイチゴの香りを、彼女は選んだ。それを思い出して、私は真っ赤になってしまい、薄く開いた目から見えた彼女のきれいな顔が、ぼんやりと滲んでいくのを感じた。

 ゆっくりと彼女の唇が離れて、私の目を覗き込んだ彼女が、その目に不安そうな影を落とした。

「嫌だった?」

 彼女の黒味がかった茶色の瞳が、ゆらりと揺れる。

 私は慌てて首を振る。

 イチゴの香りは私に移り、彼女が離れた今も、私を包んでいた。

 こんなに苦しくなることを、私は知らない。

 大好き。

 彼女の言葉を、何度も頭の中で繰り返した。あのときの声、あのときの顔、あのときの気持ち。

 大好き。

 今だって、もっと。

「大好き」

 私が小声で言ったその台詞を、彼女はちゃんと聞き取ってくれた。

 滲んだ涙を指先で優しく拭って、彼女が笑う。

 私の唇にはかすかにイチゴの香り。

 私はもう一度、目を閉じる。その香りが再び近付いて、私はもっと、甘くその香りに酔う。

 寂しい。

 離れたくない、と思った。

 手をつなぐだけであんなに寂しいのなら、キスをした今日は、どれだけ辛く寂しい夜を過ごすことになるんだろう。

 私はそんなことを考えて、不安だった。

 彼女の細い身体に両手を回し、ぎゅっと抱き締める。彼女の両手も私を優しく抱き締め、向き合ったその顔は近く、お互いのまつげが触れるくらいだった。

 彼女と触れたまつげや、頬や、唇が、侵されていく。彼女に。

 私の身体中が全部、彼女のものになればいい。彼女に溶け込めばいい。そうすれば、夜に一人で寂しくて泣くことはないから。

 彼女はもう一度私にキスをして、微笑んだ。互いの瞳の色しか分からないくらいの距離で、なぜか私にはそれが分かった。

 手をつないで帰ったあの日、その手が離れるのが辛かった。

 今だって、彼女と離れるのが辛い。

 大好き、誰よりも。

 イチゴの香りは柔らかく、彼女の吐息も、体温も、そして私を見つめるそのまなざしも、どれも驚くほどの熱と、優しさと、甘さを含んでいた。

 きっと、今日も眠れない。 膝を抱えて、ベッドで丸くなって、私は多分、泣くのだろう。

 こんなに幸せな一瞬のためなら、そんな夜は仕方ないのかもしれない。その犠牲を払ってでも、私は彼女との今を手に入れる。

 彼女の細くて、でもとても柔らかい身体を抱き締めている今を。

 彼女の手が、私の背中をなぞる。

 離れたくないと感じてくれているのなら、いい。

 私も同じだと、そう思っていてほしかった。


 ベッドに横になった私は、ぼんやりと天井を見つめていた。

 彼女と触れ合っていた身体が、まだ熱いような錯覚を覚えていた。

 熱なんて、とっくに引いていた。

 けれど、錯覚でもいい。それを一生でも覚えていたい。

 手をつないだ日、私はあのドキドキを一生忘れないと思っていた。

 きっと、忘れない。

 私は両手で自分自身を抱き締める。今日、彼女を抱き締めたその腕で。

 彼女が大好きと言ってくれたあの日、寂しくて泣いた私の心臓は、異常なほどに高鳴り、いつまでもそれは止まらなかった。苦しくて、寂しくて、こんなに辛いのなら彼女を好きにならなければよかったと思った。

 けれどそんな考えはすぐに打ち消した。

 嫌いになんてなれない。それどころか、今まで彼女をどんな風に思っていたのかすら、もう思い出せなった。

 大好き。

 それ以外の気持ちを、何一つ、覚えていない。

 彼女の声が私に告げる。

 大好き。

 頬を染め、少し恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに笑う彼女の顔を、今もはっきりと思い浮かべられた。

 私だって、大好き。

 私の身体が、私の気持ちが、彼女にすべて溶け込めばいいのに。

 私は両足を胸元に引きつけて、身を縮める。

 寂しかった。

 自分を抱き締めたまま、私は泣く。

 明日も会えるのに、今すぐに彼女に会いたいと思った。

 こんな寂しさを、他に知らない。

 彼女の唇は柔らかく、甘い香りで私を酔わす。

 手をつないで。

 その声で名前を呼んで。

 大好きとささやいて。

 寂しい。

 きゅうと胸の奥が痛んだ。心臓はまだ大きく音を立てていた。

「大好き」

 口にしたら、もっと寂しくなった。私は顔を上げ、天井を見つめた。真っ白な壁紙が、蛍光灯に反射して、とてもまぶしく感じた。きっと、目に浮かぶ涙がレンズのようにその光を増幅させているのだろう。

 今すぐに会いたい。

 その手で抱き締めて。

 その声で私を呼んで。

 そして、キスをして。

 こんなに寂しい夜を、私一人に過ごさせないで。

 私は目を閉じた。目の縁に溜まっていた涙がぽろりとこぼれた。

 せめて、一言。

 その声を聞きたい。

 一人で泣いていた私の耳に、着信音。私はゆっくりと目を開けた。

 彼女の名前が記されたディスプレイ。私はそれを耳に当てた。

「はい」

 電話の向こう、彼女が笑った。

『起きててよかった』

 その声は少し、弾んでいた。まるで、私の声が聞けて嬉しいかのように。

『寝る前に、一言だけ』

 彼女は優しく、私に告げた。

『おやすみ』

 ほんの短い言葉。

 私はその声を聞いて、なぜか、さっきまであんなに重苦しく私を支配していた寂しさが、突然どこかへ消えてしまったことに気付いた。

 彼女の声が、私を救う。

 寂しさは、私を支配する。けれど、それを取り除くことは可能だったのだ。

 私は泣く。

 今度は、嬉しくて。

 電話の向こうで、彼女が少し、心配そうに私の名を呼んだ。

 私は涙を拭って、笑った。

 そして、思いをこめて、彼女に告げた。

「おやすみ」

 明日も手をつなごう。

 そして、キスをしよう。

 寂しさを感じる暇もないくらい。

 初めて手をつないだ日の夜のように、私は膝を抱えて丸くなり、ベッドの中にもぐりこんだ。心臓は同じようにドキドキと高鳴っていて、また少し寂しいと思う気持ちが生まれていた。

 けれど、きっと、今日は眠れる。

 彼女の声を思い出して、私はきゅうんと締め付けられる胸を押さえて、もう一度、おやすみ、とつぶやいた。


 了

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