第11話 このシーンはなぜ必要か?

 いよいよあの有名なシーンです。


カンタ「さっき新池でサンダルが見つかったんだ」

 はっとするサツキ。そして走り出す。

カンタ「まだメイのものって決まってないぞー」


 幼いころ頃に見た時から、何度見てもこのシーン、強烈に印象に残っています。

 しかし、このシーンを一言でまとめると次のようになります。


 ばあちゃんのはやとちり。


 宮崎駿監督の演出には頭が上がりません。この単なる「ばあちゃんのはやとちり」をどうすればここまで強烈にインパクトのあるシーンに描けるのでしょうか。それにはいくつかポイントがあります。

 この名作「となりのトトロ」には死ぬ人はいません、血すら一滴もこぼれなければ、お母さんの病気が悪くなったり、苦しんだりするシーンも一切ありません。ですが、ここで初めて「死」を彷彿させるシーンが登場します。それだけでインパクトがあります。しかし、ここですら一言も「死」だったり、「溺れる」と言ったキーワードも出てきません。ただ単に「さっき新池でサンダルが見つかった」それだけです。

 このシーンを盛り上げるにはいくつかポイントがあります。

 まずこのシーンを持ってくるタイミングです。

 もし、メイが迷子になったかもしれないと分かった時点で、このシーンが来たら、読者はどう思うでしょうか。


 メイが迷子になったかもしれない

→(探しに行こうとしているときに)

→新池でサンダルが見つかった

→ ???


 この少し早いタイミングでこのシーンを出してしまうと、読者はこう思うでしょう。


……いや、それ違う子のものじゃない? だってメイは池なんかには行かないだろうし、そもそも七国山病院に向かったんじゃないの? …… 


 しかし実際は、見ているほとんどの読者が、そのサンダルはメイのものかもしれない、と思います。それはなぜでしょうか。

 それは前のシーンがあるからです。

 サツキは精いっぱい探した、人にも聞いた、走った、とても走った。バイクの人に話を聞いて、松郷から七国山までの道にもメイはいない、一体どこへ? どこか予想もしないところに行ってしまったのでは? 

 という前置きがあるからこそ、このシーンが生きてくるのです。またその前置きがあるからこそ、「死」や「溺」と言ったキーワードが無くても、


「新池でサンダルが見つかった」


 というキーワードだけで、読者の頭から「メイが溺れ死んだかもしれない」という恐怖心を引きずり出すことができるのです。


 また、このシーンはなぜ必要なのでしょうか。

 それはやはり前の章でも書いた「大義名分」のためです。


 サツキは サツキは精いっぱい探した、人にも聞いた、走った、とても走った。バイクの人に話を聞いて、松郷から七国山までの道にもメイはいない、ひょっとしておぼれ死んだ? 違った……違うのは良かったけどでもじゃあ一体どこに……。もう、時間がない……。


 ここまでサツキを徹底的に追い込んでこそ、やっとあの「未知なる生物に助けを求める」大義名分が与えられるのです。


……もうトトロに頼むしかない……


 わらにもすがる思いで考え付いたその方法に、この時点ですでに読者の中で異論を唱えるものはきっとなくなっていることでしょう。

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