この冷たく儚い夏の中に
暮準
この冷たく儚い夏の中に
雨上がりの早朝の空気は澄んでいて、世界は紺一色に塗りつぶされていた。
僕は朝の冷気を浴びながら家を出て、高校へと向かった。今年の夏は例年よりも気温が低いそうだ。冷夏というやつだろう。
鳴き始めた蝉の声の間を縫って歩いていると、僕はいつも通りすぎる池のほとりに女の子がいるのに気付いた。制服を見ると、どうやら同じ高校の生徒のようだ。見かけない顔だった。彼女は草むらに立って、池の鯉に向かってどこか所在なさげに餌をやっていた。
僕は好奇心をそそられ、その女の子の方へと近づいていった。普段ならそのまま無視して学校へと向かっていただろう。だが何故だろう、その時はそうしなかった。
葉についた露を制服のズボンではじきながら、彼女の隣までやって来る。そこで僕は、池の鯉が彼女の餌には全く食いついていないことに気がついた。
「腹が減ってないのかな」
僕が言うと、その女の子は僕の存在に初めて気づいたように肩をぎくりと震わせた。
「……そうかも」
女の子は小さく呟いた。
「……なんで餌をあげてるの?」
僕が尋ねると、彼女は小首を傾げて少し考え込んだ。ショートの黒髪が彼女の肩を撫でる。
「うーん。私、この池で鯉が泳いでいるのを見るのが好きで。でも、これっていつも誰が餌をあげてるんだろうって思ってさ。もし誰も餌をあげなくて死んじゃったら嫌だから、私が餌をあげておこうって思って」
彼女はひとつずつ、紡ぎだすように言葉を並べた。
「……確かに、誰かが餌をあげてるところは見たことないな」
僕はそれだけ言うと、澄んだ水面を泳ぐアメンボに目を落とした。
――ここの鯉は、飢えたらアメンボを食べるのだろうか。
そんなことを考えた。
そうしてしばらくふたりで池を眺めていた。
「僕も、ここは好きだよ」
「うん」
女の子は餌をあげるのを諦めたようだった。最後まで池の鯉は餌を食べなかった。
池の周りの木々の向こう、通学路の方から誰かの談笑する声が聞こえてきた。
「学校は?」
女の子が僕に尋ねた。
「ああ、確かに。そろそろ行かないと」
僕はそう言うと池のほとりから、来た道へと戻った。
「……君は行かないの?」
僕は振り返り、女の子に訊いた。彼女は餌を鞄にしまい込んでいるところだった。
「うん……私はいいや」
「そう」
僕はそれだけ言うと、そのまま舗装された道まで出た。自転車の走る音、生徒同士が挨拶する声。朝の通学路の喧騒がそこにはあった。池の方を振り返ると、そこにもう女の子の姿はなかった。
名前を聞きそびれたな、と思った。
だけど、また会えるだろう、とも思った。
この世界には隠れた牙がある。
そのことを普段は忘れているけども、ふと油断した瞬間に噛みつかれることがある。そこで、「ああ、そういえばこの世界には牙があったんだ」と気づかされるのだ。
今日もそんな日だった。
「佐伯クン。あとで返すから金貸してくんね? 今日、バスケ部の面子で飯食うんだわ」
放課後、同じクラスの仁科からそう言われた。彼には前にも一度貸したことがあったけど、その時の2000円はまだ返ってきていない。
「ごめん、今は手持ちがないから」
僕はそう言ってやんわりと断ろうとする。
「え、マジぃ? ちょっと財布見してよ」
そう言うと、仁科とその取り巻きが僕のポケットから無理矢理に財布を奪い取った。僕は自分の首筋がちりちりと灼けるように感じた。
「は? あんじゃん。何で友達に嘘つくん。これ罰金ね」
仁科はそのまま3000円を抜き取った。僕は抵抗しなかった。抵抗すれば、彼らは躊躇なく手を出してくるだろう。
「あんがとね、必ず返すから」
そのまま彼らは立ち去っていく。僕はもっと早くに教室を出ていればよかったと後悔した。ちょうど結末に差し掛かっていた小説があり、どうしても先が気になったので読み終わってから帰ろうと思っていたのだ。
仁科のような連中は交通事故のようなもので、“遭う”ものだ。自分が注意さえ怠らなければ向こうが意図的でない限り、避けることもできる。今回も、さっさと教室を出ていれば金を盗られることはなかっただろう。
僕はリュックを背負い直し、学校をあとにした。何やら苦いものが口に残った。
帰り道に池のそばを通ると、朝に会った女の子がいた。
朝からずっといたのだろうか。
いや、そんな訳ないだろうと思い直し、そのまま近づいていった。
「あ。朝の男の子」
今度は草むらの途中あたりで彼女が僕に気づいた。
「どうも」
僕は会釈する。
「なんか、見るからに元気ないね」
「そうかな」
「うん。不良にカツアゲされました、って感じの顔してる」
「はは。……まぁ、その通りだよ」
「うそ。キミっていじめられっこ?」
「なんていうか……そうとも言えるかもしれないけど、どちらかというと良い金ヅルって認識されちゃった感じかな」
「ふーん」
意外とずけずけと来る子だな、と思った。朝とは少し印象が違う。だけど、彼女に言われると不思議と不快ではなかった。
「じゃあさ、私にも何か奢ってよ」
「それは……うん? 嫌かな」
「へー、不良には奢るのに?」
「本当なら不良にも誰にも奢ったりしたくはないんだ」
「冗談だよ。私そんなにお金に困ってないし」
「よかった。飢えて初対面の男にお金を恵んでもらおうとする可哀そうな女の子はいなかったんだね」
「ん? はは……キミも冗談を言う人なんだね」
彼女は少しだけ笑うと、池に目をやった。つられて僕も池を見る。昨夜の雨で水量の増した池は、いつもと違ってどこか現実離れした印象を僕に与えた。
そうやって、朝と同じく、またしばらくふたりで池を眺めていた。
「そうだ。キミは帰らなくていいの?」
「……佐伯」
「佐伯?」
彼女が戸惑った顔をしたので、僕は慌てて付け足した。
「僕の名前。キミって呼ばれ続けるのも変な気がして」
「うん、確かにそうかも。じゃ、佐伯君……は帰らなくていいの?」
「いや、そろそろ帰るよ。宿題もあるし」
「ちゃんと宿題やるんだね。優等生?」
「いや、それが学生として普通だと思うけど……。君は帰らないの?」
「帰るよ。いつかね」
「いつかって……もう六時だよ」
僕は腕時計を指して見せる。
「まだまだ夜はこれからだよ、青年」
「青年、ね……。じゃあ僕は帰るけど、気をつけて」
「じゃね」
僕は朝来た道とは逆方向、家の方へと歩き出す。
そこで、また名前を聞きそびれてしまったことに気がついた。
――また今度、聞けばいいか。
そう思った。
この世界には隠れた牙があって、時折それが自分に噛みついてくることがある。だけど、その一方で、いつまでも記憶に残るような美しい瞬間というのもある。そういった瞬間はごく稀に現れては、この人生にささいな救いを与えてくれるのだと僕は思う。
翌朝は、遅刻するかどうかの瀬戸際だった。
池のそばを走り抜ける際、またあの女の子が鯉に餌をやっていた。僕が通り過ぎるとき、彼女は手を振ってきた。
「急げよー」
わずかにだけど、まるで他人事のような彼女の声が聞こえてきて、笑みが漏れた。
僕は走るスピードを上げた。
その日の放課後は美化委員として、校内の一斉清掃を行うことになっていた。
「じゃー、佐伯君は東棟の上半分ね。有坂さんと一緒で」
副委員長に担当場所を指定される。
技術室や音楽室などが集まる東棟はひと気がなく、あまり汚れることがないため、僕にとってこれは幸運なことだった。上半分というのは、四階建ての東棟の三階と四階を掃除しろということなのだろう。
つかつかと、僕の方に有坂さんと呼ばれた女子が近づいてきた。
「お、佐伯君? レアキャラじゃん。よろしくー」
有坂さんが手を振る。
レアキャラというのが正確にどういう意味なのかは知らなかったが、特に訊かなかった。
「あ。どうも」
有坂さんはいわゆる“クラスで目立つ”部類の女子の様だった。美人で、制服は着崩し、髪も校則ギリギリの明るさだ。普段なら僕が話したりすることはないタイプだろう。
「んじゃ、私は三階からやるから佐伯君は四階よろしく」
「そうだね、手分けした方が楽そうだし……じゃ、それで」
「ん」
そうして各々掃除用具を手にすると、二手に分かれ、掃除を始めた。ひとりで掃除するのは気楽だった。前に別の同級生とふたりで掃除した時は、話すこともなく気詰まりだったのだ。とりあえず時間が来るまで適当にやろう、と思った。きっと有坂さんはスマホでもいじりつつ、がっつりサボっているのだろう。彼女はどうやってか屋上の合鍵を手に入れ、よくそこでサボっているという話も聞いたことがあった。
三十分ほど廊下を適当に掃いていると、有坂さんが四階に上がってきた。
「東棟四階にトイレあんの忘れてたわ。女子トイレ。私いないと掃除できないっしょ」
「あ、そういえば」
東棟四階には普段は誰も利用しないようなトイレがあったのだった。というか、わざわざ女子トイレを掃除しに来たということは、有坂さんは三階でもちゃんと掃除に取り組んでいたのだろう。僕は、先ほどの勝手な想像をすこし申し訳なく思った。
「確か廊下の角だったよね」
「まー誰も使わないから汚れてないっしょ。見るだけみたいな感じで」
ふたりでそれぞれトイレに入る。
有坂さんの言う通り、東棟の男子トイレは掃除の必要もないくらいに綺麗だった。経年で古びてはいるが、まだ清潔感があった。僕は今度から時間があればここのトイレを利用しようと思った。
と、そこで。
「ちょ、佐伯ー!」
女子トイレの方から有坂さんの声が聞こえてきた。
慌てて向かう。が、流石に女子トイレに入るのは躊躇した。
「これ、入ってってこと?」
外から声をかける。
「うん、いい、いい。虫やって、虫。入り口にいるから」
そう言われ、覚悟して中に入る。
トイレの奥に有坂さんがおり、彼女が指差す方向に大きめのムカデがいた。手洗い場の下で、様子見でもするようにじっとしている。僕はてっきり黒光りするアイツがいるのかと思っていたのでほっとした。まだムカデなら何とかなる。
僕は廊下からちりとりと箒を持ってくると、トイレの床にちりとりを置き、箒でムカデをその中に放り込んだ。そのまま、ちりとりを持って急いで女子トイレの窓まで移動する。近くを通り過ぎる時、有坂さんが身を縮こまらせるのを感じた。僕は窓を開けると、ムカデを外に放り投げた。ムカデは中空で一瞬、シュッと丸まった。そのまま何事もなかったかのように窓を閉める。
「ちょ……。下に人いたらどうすんの……」
有坂さんは自分で僕に処理を任せたくせにそんなことを言う。
「大丈夫、いなかったから」
僕は適当に言った。特に下は確認していなかったが、悲鳴などは聞こえてこなかったので平気だろう。
「はー、危な。佐伯、ありがとね」
何が危なかったのかよく分からなかったが、僕はとりあえず素直に感謝を受け取ることにした。
僕はついでに、せっかくだから女子トイレを見ておくことにした。とはいえ、特に男子トイレと変わりはない。当たり前だが小便器がなく、ちょっと広いくらいか。ほんの少しがっかりした。
と、そこで僕は奥の半開きの個室のドアに何か落書きされているのを見つけた。
「お、相合傘。高校生でこんな落書きするヤツいんだ」
僕が見ていることに気づいたのか、有坂さんも覗き込んでくる。
傘の下にはO.SとK.Nというイニシャルだけがある。書かれたのはだいぶ前なのだろう、所々がかすれていた。
「つーか佐伯、いつまで女子トイレいんだ。ムッツリか」
有坂さんがふと気づいたように言う。
「いや、有坂さんが呼んだから来たんでしょ」
「ん。そうだけど、もう用事は終わったから出て出て。ここ女子の聖域だから」
「聖域……? そんなこと思ってないでしょ」
そう返しながらも、僕は素直に外に出た。確かに女子トイレは男子からすると禁断の聖域だが、いざ合法的に入ってみるとそのレアリティというのは一瞬にして失われていた。
五分後、ぱぱっと掃除したのであろう有坂さんが出てくると、僕らは本部に戻ることにした。
委員会を終えると、六時半をまわっていた。
ひぐらしの声に包まれながら、まだ明るさを残したままの帰路につく。涼しい夏だが、日は長い。池まで来ると、やはり彼女がいた。
僕は道を外れ、さくさくと乾いた音を立てながら草むらを進んだ。その音に気づいたのか、名無しの彼女が振り向く。
「やぁ」
僕の方から挨拶する。
「あ、佐伯君だ。いいの、こんな時間に」
「別に親は心配しないよ。特に僕は男なんだし」
「ふーん。そういえば、昨日と違って何だか楽しげな感じするね」
「そうかな。特に悪いことは起きなかったって感じだけど」
「悪いことが起きない、ってのは良いことだよ」
「なるほど。でもなんだか屁理屈っぽいな」
「真実だよ」
彼女はそう言い切ると、鞄から餌を取り出して池に撒いた。鯉は寄ってこない。もう既に誰かが餌をやった後なのだろうか。
「そういやさ、君は……学校に来ないの」
僕は思い切って訊いてみた。ずっと気になってはいたが、何となく訊けずにいたことだ。
「……うん。もう学校には行かないかな」
彼女はどこか寂しげに言った。
しかし、そういう割には毎日きちんと制服を着ている。
「いわゆる不登校ってやつ?」
僕が言うと、彼女は少しはにかんだように首を横に振った。
「いや、そうでもないんだけどね……いや、不登校っていえば不登校なのかな? とにかく、もう私は学校に行かないし、行けない」
行けない、という部分が引っかかった。
何か問題でもあるのだろうか? 気にはなったけれど、僕はそこまで訊けなかった。
「あのさ、あまり踏み込んで訊く気はないんだけど……」
僕は、自分の思ったことを伝えておこうと思って、言葉を選んだ。
「君が学校に行けない何か理由があったとして、もしそれが解決できるようなもので、僕に少しでも手伝えることがあるなら、僕は喜んで手伝うよ」
ひぐらしの鳴き声が止み、風が池の水面を撫でた。
「……へぇ、佐伯君って優しいんだ。その言葉……割と嬉しいよ」
ついに風もやんだ。僕は彼女とふたり、この池だけしかない狭く奇妙な世界に取り残されたような気分になった。
「じゃあさ、手伝えることがあったら遠慮なく、言うね」
彼女はそう言ってほほ笑んだ。
蝉の鳴き声が戻って来る。鯉の跳ねる水音が遠くから聞こえた。
だけれども、僕にはまだ、彼女のその笑みがどこか寂しいものに見えた。
翌日、僕が仁科たちをステルスゲーム気分で避けながら昇降口へ向かっていると、廊下の掲示板に目が留まった。いつもは地味な掲示物だらけの中に、カラフルな一枚があったのだ。
飛島花火大会。ここらで一番大きな花火大会だ。開催は、再来週。
僕は、勇気を出して彼女を誘ってみようかと思った。
断られたら、その時はその時だ。
僕はポスターを抜き取ると、リュックにしまった。
昇降口を出て、池の方へと向かう。
通学路には珍しく誰もおらず、風が木々を揺らす音がやけに大きく聞こえた。
僕は池までたどり着くと、辺りを見回した。そこに彼女の姿はなかった。鯉だけが優雅に泳いでいる。
彼女のいないその池は、やけに広く感じられた。
僕は、また今度会えるだろう、と思った。
次の日の朝も、彼女は池にいなかった。
その日の帰り道も、池の方を通ったが彼女はいなかった。
そういう時もあるだろう、と僕は自分を納得させた。
しかし、次の日も、その次の日も、彼女はいなかった。
そのまま、また数日が過ぎた。
名前を聞きそびれたままになっちゃったな、と僕はぼんやりと思った。
「佐伯クンさ、悪いんだけど、今日も金貸してくんないかな」
放課後、まだ人がたくさんいる廊下で仁科が手を合わせてくる。
予想外だった。今まではひと気がない時を狙ってきていたのに。周囲の生徒はもちろん、そこに何もないかのように通り過ぎていく。僕だって自分が当事者でなければそうするだろう。無駄な揉め事に首を突っ込むのは、誰だってしたくはない。
しかしそこで、僕は勇気を出して言ってみた。
「……嫌だ」
僕と仁科たちの間に一瞬、静寂が訪れる。
「え? ごめんごめん、聞こえなかった」
仁科が一歩詰めてくる。
「佐伯君さ、帰宅部だよね。俺らさ、こんど落とせないバスケの大会あるじゃん? 学年集会でも話出てたと思うけど。そんでさ、いま金ないのよ。佐伯君は暇でしょ? ちょっと前借りさせてよ、ね」
滅茶苦茶な理論だった。
「えー、仁科に貸すん。じゃあ、俺も俺も。いいよな」
取り巻きのひとりもそんなことを言い出す。
結局、またポケットから無理矢理に財布を奪われた。紙幣を何枚か抜き取られる。
仁科はそれを自分の財布へと移し替えながら、世間話でもするように話しかけてくる。
「あ、そういや佐伯クン、最近あの池によく一人でいるらしいじゃん。川島が見たって。なんで? 死んだ女の子の幽霊が出るってウワサ信じてるん?」
「え?」
僕は一瞬、お金を奪われたことを忘れ、仁科の言ったことに気をとられた。
「え、知らんの? 有名かと思ってた」
仁科が逆に驚いたように口を開けた。
と、そこで仁科の取り巻きのひとりが何かを囁いた。仁科は慌てて今盗ったばかりの紙幣を僕の手に握らせた。
僕が後ろを見ると、そこには岡田先生が立っていた。現国担当で、バスケ部の顧問だ。
「お、仁科に笹原。どうした、そろそろ部活始まるだろ」
「いや、ちょっと立ち話してただけっす。じゃね、佐伯クン」
僕の肩をぽんぽんと叩くと、そそくさと仁科たちがその場を立ち去る。
僕はどうやら、今日はお金を奪われずに済んだらしい。
「佐伯、大丈夫か? あいつらに何かされてねぇか。たく、あいつらガキだからな」
腰に手を当てて、やれやれといった様子で岡田先生は言った。他の先生たちは仁科がバスケ部で活躍しているから大目に見ているところがあるが、顧問である岡田先生は違うのだろう。
「いえ、大丈夫です」
とはいえ事を荒立てたくないので、僕は嘘をついた。
「そっか。何かあれば俺に言えよ、他の先生でもいいけど。俺に言うのが一番効くだろうな。あいつら逆らえないし。俺は顧問だからさ、何だかんだ言っても俺がいねぇと、あいつらバスケの試合に出られないからな」
岡田先生は少し笑ってそんなことを言う。
「いえ、本当に大丈夫なんで。ありがとうございます」
僕はさっき仁科が言ったことが気になったので、早くその場を離れたかった。
「うん。じゃ、気をつけて帰れよ。本当に、何かあったら俺か他の先生に言うんだぞ」
岡田先生はそう言うと職員室へ行くのだろう、立ち去っていった。僕も階段へと向かう。
僕は、今まであまり関わり合いはなかったけれど、岡田先生に好印象をもった。
美化委員の定例会に出るために東棟の多目的室にやってきた僕は、さっそく有坂さんの姿を探した。いない。しばらくして、彼女は時間ぎりぎりでやって来た。
「あ。有坂さん」
「おーす、佐伯」
僕は前の女子トイレでの一件以来、有坂さんと話す機会が少し増えていた。
「あのさ、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「お? どした」
僕は有坂さんなら知っているはずだと踏んで質問してみた。
「高校の近くに池があるけどさ、あそこで死んだ女の子がいるって噂知ってる?」
「あ、知ってる知ってる。事故死した幽霊が出るってやつね」
「……幽霊」
「うん。何でも、あの池で溺れた娘がいるんだってさ。あ、うちの生徒だけどもう十年くらい前の話ね。で、その娘が“出る”んだってさ。有名じゃん?」
「……知らなかった」
突拍子もないことではあるけれど……僕は頭のどこかでそれを既に信じていた。
――池の鯉が彼女の餌を食べなかったこと。
――仁科の友人の誰だったかが、池に“一人”でいる僕を見たこと。
――そして、彼女が学校に“行けない”と言ったこと。
それらの事実が、頭の中でぐるぐると回る。
「いや、本当かどうかは知らないけどね」
有坂さんが付け足した。
でも多分、それは本当だろう。
そこで、委員長が入ってきて定例会の開始を告げた。僕はそこから先を聞いていなかった。あの女の子のことを考えていたからだ。
幽霊か、と僕は思った。
彼女はそれよりも、夏の陽炎のように儚い存在に僕には見えた。
――彼女は、どうして死んでしまったのか。
――なぜ、僕に彼女の姿が見えたのか。
僕はそれを知りたかった。
委員会後、すぐ図書室に向かった。もう既に日は暮れかけていた。
十年前の卒業アルバムと、念のためにその前後二年ぶんを借り、閲覧席で広げる。ひとりだけ残っている図書委員からは変な目で見られた。
僕は名簿よりも、彼らが一年次の集合写真を見ていった。どの卒業アルバムにも必ずあるものだ。一年次、二年次、三年次と、卒業生の歩みを見ることができる。
手を切りそうな固い紙質のページを、次々とめくっていった。
目当てのものがないと分かると、次のアルバムを手に取る。
二十分ほど経っただろうか。
そこで、はっとした。九年前の卒業アルバム。
一年と二年の集合写真で、抜けているクラスがあった。
見つけた、と思った。
ぽとりと机に汗が落ちた。なぜか図書室のクーラーは切られていた。
「あの。もう閉めたいんですが……」
気づくと背後に図書委員がおり、僕はびくりと肩を震わせた。
「ご、ごめん。もう行くから。兄の卒業写真を見たくて……」
僕は必要もないのに嘘の言い訳をする。
と、そこであることを閃いた。
「あ、あとひとつだけ。十一年前の、四月の学校だより?みたいなのはあるかな」
相手が一年生であるのをいいことに、少し強気に出た。
「え。いわゆる……校報、ですか? あるかもしれないですけど……」
「それだけ見たら帰るから、頼むよ」
「……少し待ってください」
佐々木と名札に書かれた彼は渋々といった様子で奥に引っ込んでいった。しばらくすると、彼は古びた紙きれを手に現れた。
「これですね」
「ありがとう」
そこには、「今年の新入生!」という煽り文句と共に、名簿一覧があった。僕はそれを九年前の卒業アルバムの名簿と照らし合わせる。
「え。お兄さんの名前を……照らし合わせているんですか?」
背後から覗き込んでいた佐々木に尋ねられた。
「いや、実は、学校の近くの池で死んだ女の子の名前を知りたくて……」
僕は嘘をつくのをやめ、本当のことを言った。
「へぇ、あの都市伝説の」
佐々木は興味を惹かれたようだった。都市伝説というには少し地域に根付きすぎていると思ったが、指摘はしなかった。代わりに、
「そうなんだ。もう少しで分かりそうでさ」
と、言ったところで。
僕は殴られたような衝撃を受けた。
――あった。
いや、正確に言うと、なかったのだ。
一年二組、紀田夏奈。
彼女の名前は卒業アルバムの名簿になかった。
なぜなら、彼女はついに卒業することはなかったからだ。
――やっと名前を教えてくれた。
僕は胸の内で呟いた。
「これだ」
僕は学校だよりを指さす。
「あ、見つけたんですね」
佐々木も眼鏡をあげ、卒業アルバムの名簿と見比べる。
「なるほど、無い……。噂は本当だったんですね。よく卒業アルバムから辿ろうと」
「ていうか、それしか思い浮かばなかったんだ」
と、そこで図書室の扉が開き、図書委員の担当らしき若い女の先生が顔を覗かせた。
「えーもう、佐々木くーん。とっくに閉館時間過ぎてるんだけどー」
「あ、すいません! すぐに片付けますんで」
佐々木はしまった、という表情を覗かせ、手早く卒業アルバムや学校だよりをかき集めた。
僕は申し訳なく思い、手刀を切った。
「ごめん、ありがとうね」
「あ、いえいえ。大丈夫です」
礼を述べた後、僕はリュックを肩にかけると、先生の前をいそいそと横切って図書室をあとにした。
翌日の放課後、僕は十年前から学校にいた先生に事故のことを訊いてみようと思い、職員室へと向かった。残っていた担任の須藤先生にそれとなく訊いてみると、「あー、岡田先生かな。公立はローテあるから珍しいんだけどね、そんなにひとつの学校にいるのは」と言われた。
戻って職員室の扉の座席表を見ると、一番奥に岡田栄治と書かれてあった。
だが奥の席に岡田先生の姿はない。
「岡田先生なら部活で体育館だよ」
その様子を見ていたのであろう須藤先生に言われた。
「ありがとうございます」
お礼を言うと、僕は体育館へと向かった。
体育館へと続く廊下を歩いていると、ばったり岡田先生と出くわした。
「あれ、岡田先生。バスケ部だったんじゃ」
「うん? いや、そうなんだけどさ、顧問って言っても俺は練習を見るだけだしね。ちゃんとあいつらが練習しだしたら別にいなくてもいいのよ」
はは、と笑ってフランクな調子で答える。
部活で忙しいかもとも思ったが、どうやら時間がありそうだ。僕はさっそく十年前の事故について訊いてみることにした。
「あの、先生は十年前にもこの高校にいたんですよね?」
「うん、いたよ。まだ新米だったけど」
「その時、女生徒が池で死んだ事故って覚えていますか。紀田夏奈っていう生徒なんですけど」
訊くと、岡田先生は少し切なそうな顔をした。
「ああ、あったな。覚えてるよ。新米の俺が、はじめて遭遇した教え子の死だ」
「なんだか……すいません」
僕は今でもその死が先生の中で苦い味を残したままなのだと悟り、頭を下げた。
「いや、いいよ。それに何というか事故っていうか……自殺、だったと思うけどな」
「え?」
思わぬ言葉を聞き、僕は驚いた。
「佐伯。あの池ってさ、溺れるような場所じゃないんだよ。そんなに深くないし。それに、あそこは紀田の通学路じゃないんだ。だからわざとだと……俺は、思う。警察は事故だって言ってたし、ウチの高校も自殺だと体裁が悪いってんでその説を推したけど」
そこまで言うと、先生は頭をぽりぽりと掻いた。
「いや、これはあくまで俺の個人的な考えよ。世間じゃあれは事故ってことになってるし、なんで紀田が自ら命を絶ったのか俺もその動機は分からないしな」
「そうですか……」
それから、先生は僕の方をまっすぐ見つめ、寂しそうに微笑んだ。
「だからさ。俺はお前が仁科に何か絡まれてる時、大丈夫か、って訊いたんだ」
僕は何も言えなかった。
色々な考えが頭の中を渦巻き、こんがらがっていた。
その後、岡田先生と別れ、家に帰ったのを覚えている。
池のそばを通ったことも。
確かに、その池は、どうやっても溺れてしまうような場所ではなかった。
しかしその一方で、僕には彼女がとても自ら進んで入水したようには思えなかった。
だとしたら、何故?
次の日の放課後、クラスに僕を尋ねてきた人がいた。
図書委員の佐々木だった。近くのクラスメイトから呼ばれているぞと言われ、廊下に出た。
「佐伯先輩、どうもです」
「あ。この前はありがとう、遅い時間まで」
「いえいえ、いいんですよ。それより、俺もあの後に興味が出て調べてみたんです」
「え。あの池の事故のこと」
「そうです。昔の新聞にも小さな記事が出てましたよ、溺死だそうですね」
「それは僕ももう知ってるよ」
「いえ、それで、仲のいい図書委員のOBに訊いてみたんですよ。当時のこと」
それは気になる情報だった。当時の先生には話を聞いた。当時の生徒の声も知りたかった。
「それでどうだった?」
「はい。OBが言うには、その紀田っていう生徒は特にいじめられているとかいうことはなかったそうです。なので、自殺じゃなくて純粋に事故だろうと」
「そうか……」
事故。果たして、本当にそうなのだろうか。僕は事故だという見解も、自殺ではないかという意見も、そのどちらにも釈然としていなかった。
僕がそんなことを思っている間に、佐々木は先を続ける。
「でも、そのOBの友達が、死んだ女生徒と同じクラスだったみたいで。その人によると、彼女は退学になるかも、と言っていたそうです」
「退学?」
「はい。その人もそれがどういう意味かはわからないそうでしたけど、よくオカセンと相談していたと」
「ちょっと待った、オカセンって誰だ……」
そこで、僕は気づいた。
翌日の放課後。僕はまたしても職員室前にいた。
僕に呼ばれて、先生が出てくる。
「ここじゃできない話なんで」
僕は屋上まで先生を連れだした。
屋上は開いていた。有坂さんに鍵を借りたのだ。
フェンスに囲まれた夕暮れの屋上で、僕は岡田先生と向き合っていた。
「岡田先生。この前、紀田夏奈さんは事故ではないと言いましたよね。自殺かも、と。でも、僕はそうは思いません」
岡田先生の表情からは何も読み取れなかった。
「彼女は、殺された。それも、貴方に」
先生はふーっとひとつ息を吐いた。
「佐伯。一応訊くが、何でそう思うんだ」
「否定はしないんですね」
「肯定もしていないだろう。何でそういう結論に至ったのか、それを俺は知りたいんだ」
「自殺も、事故も、ありえないからです。先生の言った通り、あの池で間違っても溺れるなんてありえない。水際は浅いんです」
「そうだな。事故はありえない。だから、俺の言った通り自殺ということなんだろう」
「でも、彼女は……あの池の鯉に餌をやるのが好きだったんです。彼女は、彼女がいなければ誰が池の鯉に餌をやるんだろう、なんて言っていた人です。彼女が死んだら、餌をやる人がいなくなるかもしれないのに。しかもそこで自殺なんてしたら、警察が池を荒らすことになります。そんなことを彼女が望むでしょうか?」
「確かにそ……いや、待て。佐伯、なぜお前がそのことを知っている?」
風が、裏山の木々を揺らす音がした。
岡田先生は青ざめていた。まるで、幽霊でも見たかのように。
「では、認めるんですか?」
「いや……。それは、それはお前の妄想と憶測にすぎないだろう」
「他にもあります。彼女は死ぬ前、退学になるかもと言っていたそうです。それは、教師である貴方と彼女が、付き合っていたからじゃないですか。そして、彼女はそれをばらそうとしていた。でも、それは先生にとって都合が悪い。貴方は止めようとしたが、彼女は断り……そして、貴方は彼女を殺したんです」
「今のは、憶測。……だろう?」
先生の声はとても小さく、虫の鳴き声にさえかき消されてしまいそうだった。
「ええ。でも、僕は東棟の女子トイレである落書きを見つけました。……忍び込んだ訳ではないですよ、一応。それは、O.SとK.Nというイニシャルの相合傘でした。イニシャルは苗字と名前を逆にするものですが……書いた人は気にしなかったんでしょう。K.Nは紀田夏奈です」
「O.Sは? 俺の名前は岡田栄治だ」
「オカセン、です」
それを聞いて先生はふっと笑った。だがそれは僕の推測を馬鹿にした嘲笑というよりも、どこか諦めたような笑みだった。
「教師の下の名前を知らない人は多いです。実際、僕もほとんど知りません。書いた人も、途中で気づいたんでしょう。でも、K.Nと書いた手前、もう一つにも書かないわけにはいかない。だから、オカセン……当時の生徒たちが呼んでいた貴方の愛称、それの“セン”です。……深く考えた訳ではないでしょう、単なる落書きですし」
そこで岡田先生は、何か吹っ切れたようにひとつ息を吐いた。
「俺と彼女の噂を知った、悪戯好きの生徒が書いたんだろうな……」
そう言って、岡田先生は池の方を見やった。屋上からは生い茂る木々に隠され、池は見えなかったが。
「どこにあったんだ、その落書きは」
先生は呟くように言った。
「東棟の、女子トイレで見つけました」
「女子トイレね……。そりゃ俺が十年ここにいても見つからないわな」
先生は僕に向き直った。苦い顔をしていた。
「教師、続けたかったんだ。だから彼女を説得しようとした……あの池で。彼女は、周りに公表することで本気だと示そうとしたかったみたいだ。俺はそれをやめさせようとした。でも、こじれた。で、カッとなった」
淡々と事実のみを並べるように、先生は言った。
僕はそれを受け入れた。
「佐伯、その推理……警察は信じないだろうな」
「ええ。ほとんど憶測で成立していますから」
「……妄想は? 彼女が池の鯉によく餌をやっていたっていう、お前の」
「……それは、妄想じゃないんですよ。先生」
僕がそう言うと同時に、ついに陽が落ちた。
屋上に夜の暗闇が忍び寄る。
「まさか……見たのか」
僕が頷くと、先生の顔は青さを通り越して白くなった。
「生徒たちの間で噂になっていたが……。てっきり馬鹿げた、七不思議のようなものだと」
「いえ。多分、ほとんどはそうなんでしょう。面白半分の。でも、僕には……」
その先は言わなかった。
僕と先生の間に静寂が訪れた。屋上を風が吹き抜ける。
その風の冷たさが、もうすぐやって来る夏の終わりを告げていた。
次の日から、岡田先生は学校に来なくなった。
全校集会で、校長先生は岡田先生が実家の都合で退職したと語った。
それを嘘であることを、その場の全員が知っていた。岡田先生が失踪したという噂が既に校内を駆け巡っていたからだ。
だが皆、僕以外、その本当の理由を誰一人として知らなかった。
仁科たちバスケ部は、顧問不在のため大会に出られなかった。
僕は、彼らから金を盗られることがなくなった。
この世界にある牙は、今しばらく僕を噛むのをやめたらしい。
その事実は唯一、今の僕の心に安らぎをもたらした。
その日の放課後、僕は池にいた。
まだ日は暮れていない。
リュックから買ってきた餌を取り出し、水面に投げる。鯉たちは、僕の餌には食いついた。
僕は池の周りを見回した。
視線をさまよわせる。
そこにあってほしいものがないことを確認すると、僕はリュックから飛鳥花火大会のポスターを取り出した。その場で散り散りに破る。紙片を池に撒こうかとも思ったが、そんなことをしたら怒る人がいると思って、やめた。
そして、あることに気づき、密かに胸中で言い直した。
そう。
――そんなことをしたら怒る人がそこには“いた”、のだ。
【了】
この冷たく儚い夏の中に 暮準 @grejum
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