8・科学と、宗教と、それ以前


 ――イタリア共和国・トスカーナ州……フィレンツェにて。

 ――月の大消失から四年目。

 ルネサンス以来の長いあいだ文化の中心地として栄え、世界有数の観光地として知られてきたこの街は今、終わらないアックア・アルタ(高潮)によって沈みかけていた。



 明け方から降っていた雨はようやく止んだが、雲のかかった空は随分と煤けて見えた。

 栗色の髪をポニーテールで束ねた地中海風の風貌の女は、腰辺りまで充ちた水を掻き分けながら、ゆっくりとサンタ・クローチェ聖堂の中を進んで行く。

 サンタ・クローチェ聖堂にはフィレンツェが世界に誇る文化人達の墓廟が在った。ダンテ、ミケランジェロ、ヴィットーニ、マキャヴェリ、それに――

 女はある墓廟の前で立ち止まる。そうしてその大きな彫像を見上げて呟く。


「偉大なるガリレオ……」


 それはガリレオ・ガリレイの墓廟であった。

 墓廟に刻まれた見上げる程大きなガリレオの像は、思慮深い表情を浮かべて惑星の模型と望遠鏡を手にして遥かな高みを見上げている。

 その周りには天体図を掲げた天文学の女神、測量器を掲げた物理学の女神が侍って彼の業績を永遠に讃えている。また墓廟の周りには天使達によって十字架から解き放たれるキリスト昇天の瞬間が壮麗に描かれていた。

 それは見ようによってはガリレオが昇天するキリストを仰ぎ見ているようにも見える構図であった。

 伝承によればガリレオの庇護者であったトスカーナの大公が口添えし、死後数十年間「異端者」として冷遇されていた彼をなんとか此処に顕彰させたという。

 ガリレオが仰ぎ見ていたのもまた結局のところ神の栄光であった……という意匠は当時としてはギリギリの妥協であったのかも知れなかった。

 ガリレオの墓廟の前でしばらく瞑目していた女は、やがて顔を上げると聖堂の入口に引き返していった。


 聖堂の外は水でいっぱいだった。腰辺りまでみんな水に沈み、乗り捨てられた自動車も建造物もみな浸水に苛まれていた。

 改めてその光景に目をやった女は一瞬だけ悲しそうな顔をしたが、すぐに聖堂の入口に係留していたモーターボートに乗り込んだ。ボートにはあちこちのマーケットから掻き集めて回った燃料やら食料が積み込まれていた。

 女はモーターボートのエンジンを入れるとすぐに発進させた。甲高い音を立てながら、ボートは赤煉瓦で彩られた古い街並みを通り抜けていった。



 そこはサポナイ通りにほど近い、古めかしいこの街の中では比較的近代的に見える造りの建築物だった。

 看板にはMuseo Galileo ――ガリレオ博物館と記されている。1927年創立。かつては科学史博物館という名称であったが、2010年にフィレンツェが誇る偉大なる科学者の名に改称された。

 一階部分は水に侵されていたがそこは元より受付口やスタッフの詰所ばかりであったし、僅かに置いてあった展示品はほぼ全てが撤去されていた。


 女はこの建物の二階に居て、大窓から水没したフィレンツェの様子を眺めていた。夕暮れのフィレンツェは静まり返っていた。

 ヴェネチアで起きるアックア・アルタは世界的に有名だが、あれはほんの数時間で後腐れもなく水が引いてしまう。そもそもこんな内陸部で起きる事が従来ならば全くありえない事だ。しかもこの水はもう何週間も引いていない。

 アックア・アルタが始まって多くの住民は家を捨てて高地への避難を始めたとラジオで聞いた。もうどれだけの人が残っているのかも分からなかった。それも無理のない話で、浸水のせいでこの街はもう電気供給すら止まってしまったのだ。


 ――塩分を含んだ水は木も煉瓦もどんどん傷めていく。フィレンツェの街はもう……。


 女は物憂げに外を眺めていたが、丁度その時バシャバシャという水音が聞こえてきた事に気が付く。ストリートの方に目をやると、誰かが水没した道をもたつきながら歩いてきている。

 それは革製のコートを着込んだ金髪の優男で、もたつきながらもまっすぐに博物館の入口を目指している。あてもなく彷徨っている風でもなく、どうもこの建物を目指してここまで歩いてきたようだった。

 確かに入口から中に入って来たのを確認した女は、窓辺に立てかけていた自動小銃を手に取って螺旋階段を下って行く。

 そうして階段の上側から水に浸かった一階ロビーで辺りの様子を窺っていた男に大声で声をかけた。

「ようこそ、ガリレオ博物館へ!」

 銃は構えこそしていなかったが、相手によく見えるように掲げていた。もちろん威圧が目的である。

「――ひ、人がいたのですか! って、うわっ!」

 男はまったく予想していなかった様子でそう口にした。安堵したような顔をしていたが女の持っている銃にはしばらく経ってから気が付いたようで、途端に真っ青になって手を挙げた。

 その様子を見た女は男を害意のある人間とは見なかったのだろう、微笑んで手を挙げて見せてこう告げた。

「数カ月ぶりの来場者ね! いらっしゃい! 私はイザベラ。此処のスタッフよ」



                ◆



 イザベラは男――パウロと名乗った。背は高いが線の細い優男――を水に侵されていない二階へと招き入れてやり、パウロもおずおずとそれに従ってついていく。

 博物館の二階部分は天球儀や古式望遠鏡といった天文学史にまつわる展示品が数多収蔵されていた。

 そしてその一角に、急ごしらえな感じで石炭ストーブと寝袋や椅子代わりの木箱が設置されていた。ずぶ濡れになってしまっているパウロをそこに座らせ、イザベラは言う。

「そのストーブ、調べたらなんと20世紀初頭に使われてた物らしいわよ。呆れた事に倉庫に石炭まで残していて。本当は展示品を傷めるからこの階では使いたくないんだけどね。こればっかりはやむを得ないわ――はい、どうぞ」

 喋りながらもイザベラは慣れた手つきで湯を作ってコーヒーを入れ、さらにクッキーの袋もパウロに渡してやる。

 湯気の立つカップを受け取ったパウロはようやく安心したようで幾分穏やかな表情を見せた。彼はコーヒーに口をつける前にこう尋ねた。


「――貴女は、此処に住んでいるのですか? 住民はとっくに高地に避難したと思っていたのですが」

 イザベラは自分のぶんのコーヒーを淹れながら答えた。

「ええ。この区の住民もここのスタッフもみんな退去してしまったわ。だけど私は、ここの展示品が気になってね――だけど今の所は浸水の害を最小限に食い止めるのも儘ならない感じ。なんとか安全な場所に運び出せれば良いのだけど」

「それで、貴女一人だけが……? 一体どうしてそこまで」

 パウロの問いに、イザベラは香りを楽しむようにコーヒーを一口飲んでから、こう答える。

「そりゃあ、ここが好きだからよ。フィレンツェも好き。イタリアが世界に誇る偉大な科学者ガリレオも子供の時から好き。だから学芸員になったのよ。――知ってる? この博物館には、ガリレオの指が展示されているのよ」

 するとパウロは嬉しそうにこう答えた。

「知っています。1737年、教会は彼の〝罪〟を赦し、打ち捨てられた僻地の墓地からサンタ・クローチェ聖堂へ埋葬し直す事を認めた。その際に彼の熱狂的崇拝者達が遺体の一部――指三本と前歯――を遺体から切り取って持ち去った。

 切られた指は世界中を転々とした挙句、2009年に指のうちの一本が競売にかけられていたのを此方で買い取った――ですよね? まるで聖遺物のような扱いだ」

 その詳細な答えにイザベラは「詳しいのね。説明しようとした事を全部先に言われたからこちらが驚いちゃった」と漏らして目をぱちくりさせていた。

 パウロは照れ臭そうに笑ってこう続けた。

「お恥ずかしい――貴女と一緒ですよ。私も小さい時からガリレオが大好きでした。彼のように星や月を調べたいとずっと夢見ていた……」

 その言葉を聞いたイザベラは嬉しそうに笑い返し、こう告げた。

「それなら貴方は私の同志ね! ようこそ、科学の歴史の殿堂へ。行くアテも無いなら暫くここに泊まるといいわよ。案内もしてあげられるしね……」

 しかしパウロは本当に残念そうに首を振り、こう答えた。


「――いや。残念ですが、ここからすぐに逃げ出さないといけないのです」


                ◆


 イザベラがその言葉の意味を問い直そうとする前に、パウロは古めかしい皮のコートを脱いで見せた。

 彼がコートの下に纏っていたのは黒い縦襟の祭服キャソックであった。

 その服装が意味しているのは


「――貴方、ヴァチカンから来たのね?」


 イザベラの目つきと口調のトーンが一気に落ちた。猜疑の目、敵意と言っても良い雰囲気が滲み出ていた。

 パウロは頷いて見せ、そしてもう一度口を開いてこう述べた。

「ここから逃げ出さないといけない。貴重な展示品を持てるだけ持って、そうだ。君が一階に停めていたボートに乗せて」

「へぇ、それで? どこに行くの? にでもする気? それとも火炙りかしら?」

 イザベラは不快感を露わにした態度でパウロに挑発的な言葉を投げかける。その表情と態度を見て、パウロもなんとなく察した。


「……ディオスの事は信じませんか?」

 その問いかけに、相変わらずの敵意ある目つきで、イザベラはこう言い返した。

「別に――? ただ、もうディオスにおすがりするような気にはならないわね。

 神は月が消えた時、衛星が落ちた時、海が死んだ時、何をしてくれたかしら?

 神は世界の四分の一が水没し始めてるのに、まだ何もしてくれないじゃない?

 異変以来今も地球上で数千万人が飢餓や疫病に苦しんでるのに神はなにもしないし、私のママがロザリオを握りしめて窓から飛び出した時も、――神は何もしてくれなかったわよ?」

「…………」

「貴方達聖職者は何をした? 何もしてない? まやかしの慰めを与えた? ――それよりももっとひどい。私から言わせれば貴方達の言葉は人々を却って混乱させてきた。違う? 私からすれば貴方達もじゅうぶん狂人ルナティックだわ」

「…………」

 パウロは何も答えない。ただこわばった表情をしてイザベラを見ている。その態度がイザベラには余計に不快であった。ますます攻撃的になってくる。

「貴方達には何も分からない。もう異端者認定して黙らせられる時代じゃないから、何も言えない。

 あの人工衛星の墜落は何? 黙示録の時代が始まる予兆?

 フィレンツェを苛んでいるこの水は? ノアの箱舟の大洪水とでも言うつもり? じゃあ月は――」

 ムキになって言い立てているうち、イザベラの目にはいつの間にか目に涙が浮かんでしまっていた。人に向かってこれだけ感情を剥き出すのはそれだけ久しぶりだった。

 その表情を見ていたパウロは、意を決したように、口を開いた。


「――人工衛星の大量墜落は、これは観測の手段自体が失われた今では憶測に過ぎないが、月の周りに囚われて衛星のように周回していた無数の塵や小石が、消滅の瞬間に一斉に地球に引き寄せられたのが原因かも知れない。

 小石程度の石が雨のように降り注げば、運動エネルギーで地球の周りに囚われているに過ぎない人工衛星は簡単にそれまでより角度が下に落ち込み……やがて大気圏に突っ込んで燃え尽きる。

 石の雨の飛来が段階的に幾度か起きたとすれば、確率的には世界中の人工衛星をはたき落とすのに充分な要素ではないか?

 海の水位上昇の方はもっと容易かつ簡単に証明ができるだろう。おそらくは極地の氷が溶けだしているんだ――こんな事は20世紀から危惧されていた事で、説明不可能な奇跡でもなんでもない」

 その言葉にイザベラは一瞬だけ呆気にとられたような表情を浮かべたが、すぐに反論する。

「極地の氷が溶けた? 一体どうしてそんな事が言えるの? オゾン層は今世紀に入ってからずっと緩やかな回復方向に向かっていたはずだし、異変以降はむしろ文明活動の停滞で更に……」

「オゾンホールなんてもはや問題じゃない。もっと直接的な理由で極地の気温が上昇し始めているのではないかと、私は推測している」

「直接的な理由?」

んだ。今までより、ずっと強い太陽熱が氷を溶かしている――」


「――ハア?!」

 イザベラは思わず声をあげてしまった。

 当たり前の話だが、極地はたまたま寒いわけではない。そこは地球の地軸の最果て。地球儀でいえば上と下の軸が突き刺さっている部分だ。

 何故南極と北極が凍てついているかと言えば、そこが地球で一番太陽熱を浴びない地点だからなのだ。

 そこが太陽熱を受け出したという事は、すなわち。

「異変以後も天体観測は欠かさなかった。――始めは測量機器の故障かと思った。天体の運行に誤差など、少なくとも人間的スケールでは起きるはずも無い。

 だけど違ったんだ。太陽の位置が測量機の中でほんの少しだけずれていた。日の出や日没の時間が計算よりミリ秒単位でずれ始めていた。しかもこの誤差は、ムラが大きいものの平均して72時間で倍のペースで広がってきている。

 。それが私の今の仮説です」

 真剣なまなざしで語るパウロに、イザベラはついにしびれを切らしてこう問いかけた。

「貴方、一体何者?」

「私はヴァチカンで天文台に務めていた。これでも科学者の端くれのつもりですよ」


 パウロの名乗りを聞いたイザベラはまた苛立ちを露わにした態度を見せる。そしてこう言い返した。

「へえ。ヴァチカンの科学者さん――だけどその仮説には欠陥があるように思うわ。地球の自転や傾きは角運動の保存則によって、いわば地球自体の中に在る回転運動のエネルギーによって支えられているのよ。

 たとえ地上で核爆発が百回起きようが、月が消えてしまおうが、そのくらいの外部要因では地軸はびくともしない筈じゃない?

 昔、宇宙人がやって来て地球の自転を止めてしまう映画があったわよね。あんな風に宇宙人とか神の奇跡の御業みわざとして説明してしまうおつもり?」

 イザベラの言葉を聞いたパウロは顎に手を当て、無念そうにこう答える。

「たしかに、その説明が一切つけられないのですよ。残念ながらヴァチカンの天文台は使い物にならなくなってしまった。――しかし、調査を続ければいずれは解き明かせるのかも知れない。神の御業みわざと科学は、両立できる。神は奇跡を起こすし我々は理解ができる。私はそう信じています」

 事もなげにそう言ってのけるパウロに対し、イザベラの方がぎょっとしてしまった。

 そうしてしばらく沈黙が続いた後、手元ですっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干し、イザベラは「ついていけないわ」とだけ口にして立ち上がる。

「今はあまり議論をしている時間はないんですよ。それよりも――」

 パウロが何かを伝えようとして言いかけたその瞬間、外からモーターボートのエンジン音が聞こえてきた。


               ◆


 ボートはどうやら博物館のそばでエンジンを止めたらしい。何人かが水の中に飛び降りて歩きだしたような音が聞こえ始めた。どうも彼らもまた、博物館を目指しているらしかった。

「あら、今日は色んな人が来るわねぇ」

 苛立っていたイザベラは気を紛らわせるようにしてそのまま螺旋階段へと向かっていく。パウロが止めようとした風だったが無視した。

「ようこそ、ガリレオ博物館へ――」


 博物館の入口に立っていたのは四人のやつれた男で、先頭にいたのは懐中電灯を掲げた制服姿の警官だった。

 救援活動? 一瞬そう考えたが違った。電灯の灯りでイザベラの姿を見た警官は腰の拳銃を抜き、そのまま躊躇もなく発砲したのである。

 避けたり隠れる暇などあるわけも無く、イザベラは銃声と共に――


「大丈夫か、さあこっちへ!」


 気が付けば、イザベラはパウロに突き飛ばされる格好で倒れていた。おかげで鼻をぶっつけたが銃弾には当たらずに済んだらしかった。

 イザベラはパウロが身を潜めている階段の手すり側に駆け込むように飛びこんでいく。そうしてパウロに抱き留められた。

 警官の方は二発目を発砲するでもなく、目を見開いて二人の様子を見ていた。

 そして一瞬遅れて大声で叫んだ。


異端者エレーティコ!! 異端者エレーティコ!!」


 イザベラは本当に驚いた。異端者エレーティコ……映画で見た〝魔女狩り〟や〝異端審問〟の場面でよく聞いた、火炙り刑の前に告げられる恐ろしい言葉。

 それを現実に、よりにもよって警官が叫んでいるのが恐ろしかった。あの警官は自分を火炙りにでもしようというのか?

 呆然としているイザベラをそっと座らせ、パウロが告げた。


「あれこそまさに狂人ルナティックだよ。大消失を、月を冒涜した人類に対する罰だと考えているらしい。NASAを始めとした宇宙機関や世界中の天文台があの手の狂信者に襲撃されていると聞いた。その襲撃者達には指揮系統を離れた軍人や警官さえいると……」

「ハア?! じゃあなんで、博物館なんかを襲うの?!」

「シンボル! ガリレオは世界で初めて月を詳細に観測した人間だ。月が纏ってきた神秘のベールを引き剥がし、月を天上界の宝玉からアバタだらけの衛星に堕落させた象徴的人物――連中にしてみれば是が非でも焼いてしまいたいでしょうね」

 そこまで喋ったところでパウロは立ち上がり、イザベラの小銃を壁越しに向けて狂人ルナティック達に向けて叫んだ。

「こちらにも武器があるぞ! おとなしく引き返せ!」

 警官が反射的に発砲したので、パウロは慌てて引っ込んだ。尻餅をつくようにして格好悪い姿勢のまま、パウロは尋ねた。

「……これの使い方、分かりますか? 威嚇しようとしたら引き金が固いんですが」

「し、知らない。遺棄された軍警察カラビニエリの建物で見つけただけだもの。そもそもソレ、弾入ってるの?」

 イザベラの答えを聞いたパウロは苦笑いを浮かべたが「まあコケオドシにはなります」とだけ返した。

 警官たちは一旦外に出て引き返してしまった。小銃に驚いて仲間を呼びに行ったか、武器を取りに戻ったか。何にせよ短い時間稼ぎにしかなりそうになかった。

 ひとけが無くなった事を察したパウロは小銃を構えたまま立ち上がり、こう続けた。

「今のうちに逃げましょう。希少な物を持てるだけで良い。とにかく、科学の偉大な足取りを消し去らせないために! 早く!」

 ようやく状況を理解できたイザベラもなんとか立ち上がり、大きなリュックサックを担ぎ出して支度を始めた。



               ◆



 なんとかリュックの中に詰められるだけの希少な展示品――ルネサンス期の天文図や初期型の測量機や望遠鏡、図面など――を詰め込み、二人は裏口側に係留してあったボートに乗り込む。巨大な天球儀などは持っていく術もないのでどうしようもなかった。

「選定は専門家である貴女にお任せしましたが、そういえばガリレオの指は良いんですか?」

 後からボートに乗り込んだパウロが尋ねたが、イザベラはこ答える。

「少し迷ったけど、私達はガリレオという人間を〝崇拝〟しているワケじゃあないから。それよりも、彼が辿った近代科学の道筋を少しでも多く残した方がいいわ」

「――なるほど、もっともだ」

 辺りを確認して、イザベラがボートにエンジンをかける。微かにだが他のボートのエンジン音も聞こえる。何隻ものボートが博物館に迫っていた。間一髪というところか。


 暫く後。暗い夜のフィレンツェを巧みな操縦で滑り抜けながら、イザベラがパウロにこう聞いた。

「ガリレオが、あるいは科学が月を冒涜していたとして――それを焼き捨てたところで今さら何か変わるのかしら」

「私には分からない。急ごしらえの避難所で私は彼らのうちの一人から懺悔を受けたんだ。神の御心のためには殺人さえ厭わない覚悟である云々と……私はと説得したが無駄だった。結局、彼らが見ているのはもう教会でも神でもなかったんだ」

「それは、一体何?」

「世界中の人間を支配しつつある、見えなくなった月に基づく狂気ルナティック。もしかしたら……」

「もしかしたら?」

「科学よりも、宗教よりも、はるかに古い、何か――? 人間の思想や精神をそんなところに押し戻そうとする巨大な退行の渦が起き始めているのかも知れない。この空の下で……」

 パウロはほんの一瞬言い淀んだ後、例の真っ黒な空に目をやりながらそう告げた。夜空には今夜も月が無く、消え入りそうな星だけがかろうじてあった。

 彼は言葉を続ける。

「だけどとにかく私は、敬愛するガリレオと、人間が理智を以て世界を見据えようとした歴史を消失させたくなかった。四百年前の我々の過ちを繰り返したくなかった。だから此処まで来たのですよ」

「なるほど。それなら――それならやっぱり、私達は同志ね」

 イザベラが穏やかな口調でそう答えた。暗闇の中の横顔で彼女の表情は分からなかったが、パウロには笑っているように思えた。

 二人を乗せたボートは、科学と宗教の足取りのほんの切れ端を積み込んでたしかに進み続けていた。


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