7・ニュートンの林檎(part.2)


 八坂は訝しんで聞き返した。

「ニュートンが、ですか? どういう意味でしょうか」


 ――1687年。この年、アイザック・ニュートンは万有引力の法則を論じた『自然哲学の数学的諸原理プリンキピア』を著した。

 伝説によれば、彼はある夜、熟した林檎が樹から落ちるのを見た。

 それから何気なく空に目をやると、綺麗な月が夜空で輝いているのが見えた。

 その時彼はふと思った。

「林檎は樹から落ちてくるのに、どうして月は落ちてこないのだろうか?」

 さらに彼はこう考えた。

「この林檎にも、天の月にも、同じ法則が別の運動として働いているのではないか?」

 その着想から、ニュートンは近代物理学の基礎となる法則を導きだす事になる。

 それは万物に適用し得る法則・真理という概念の発見であり――地上に居ながらにして、人間が理性のまなざしを以て宇宙を見据え抜いた瞬間でもあった。


「言っておくが、月と林檎の話が作り話か否かなんていうのはどうでも良い事だよ。問題は――まなざし。

 関心、興味、好奇心……つまりニュートンはだろうと言う事だ。常日頃から月に感心を向けていたからこそ、林檎が落ちるという事実と月が落ちないという事実に改めて気が付いた」


 平田は、芝生の上から拾い上げた林檎を握りしめたまま喋りだす。


「もしも月が無かったら――喩えば昼の太陽しか空に無かったらどうなっていたと思う? あんな眩しく直視もできないものを人間はゆっくり観察しようとしたかね? とても興味深いあの日食も、月が無ければ起こらないだろう。

 では星しか無かったらどうなったと思う? 確かに星は美しいが、地上から見れば小さく変化にも乏しい星を果たして観察しただろうか?

 大きくて、美しくて、変化に富み、仄かな光の中でいつまでも眺めていられる月が在ったからこそ、人間は手の届かない空についてまで考える習性がついたのはないか? だから、仮にもしも月がなかったら……」


 ――1610年。ガリレオ・ガリレイは天文学に関する最初の著作『星界の報告』を出版した。その中で彼は興奮を以てこう記している。

 自作の世界最高精度の望遠鏡を使い、真っ先に覗き見たのは月の表面であった。それは大変な胸の高鳴りと驚愕に充ちた体験であった、と。


 はるか昔、古代ギリシアの哲学者たちが大変な興味を寄せ、盛んにその正体を論じたものもまた月であった。月は肉眼でも詳細に観察する事が可能な、もっとも身近で人を魅惑する「謎」だった。

 ――紀元前300年代。アリストテレスは月こそが天と地上の境界であろうと弁証した。世界は月を境にして月下界と天上界に別れるのだという。

 四大元素の入り混じった混沌世界と永遠不滅の運動を繰り返す天上世界。はるか後世に月を見たニュートンが〝法則〟を発見するまで――実に2000年の間――月によって別たれた宇宙は〝世界の真理〟として君臨し続けていた。


「つまり、もしも月が無ければ、ニュートンもガリレオもアリストテレスも空に注目しなかった。そうなっていたら科学も発達しなかったし、人類が世界に向けるまなざしさえも変わったかもしれない。思考実験としては面白いですね」

「ああ。おそらくは世界で最初の哲学も宗教も科学も――だが、それだけじゃあないのだ」

 平田はムスっとした表情を浮かべ、口を挟んだ八坂の方を見る。そうしてまた捲し立てるように喋りだす。


「アリストテレスは『動物誌』の中で面白い事を書き残している……ウニを観察しているうちににだけウニの卵巣が膨らむ事に気が付いた、と。

 それに限らず伝承の世界では満月の日に子を産むと信じられている動物は数多い。目すら無い筈のサンゴが満月の日だけに生殖するメカニズムは長い間不思議がられていたが、今世紀になって光を感じ取る分子が備わっていて、彼らは満月の光を察知している事が確認された。

 ヨーロッパでは作物は満月の日に種をまくと一番よく育つと信じられたし、満月の晩に伐採された樹は水を多く吸い上げた丈夫な材木になると珍重された。

 それだけでもない。人間自身についてさえ月に結び付けて言われてきたのだ。という言葉を考えてみれば即座に納得がいくだろう。

 満月の日に子を産むだとか欲情するだという俗説は洋の東西を問わずありふれているし、それだけじゃあ無い。月の光を浴びると恋をする、満月の出る日には人が死ぬ、吸血鬼になるだとか狼になるだとか。

 ――ああそうだ、《狂気ルナティック》! 月の光が原因で気が狂うという伝承も不思議と世界各地にあるのだ。

 思わんか? まるで月が人生全てを握っているような……もしかしたら、我々は知らず知らずのうちに月から支配されていたのではないか? 本能も、人間われわれの知性さえも! 嗚呼……」


 八坂の目には、正直なところ目の色を変えて妖しげな事を一人喋っている平田こそが狂人ルナティックに思えてならなかった。

 月の引力が人間に影響を与える可能性はあるのだとまことしやかに言われてきた。人間の身体の四分の三は水であり、海さえ動かす月の影響を受けないはずがない、と。

 しかしそれは疑似科学に充ちた誤謬で、物理的には月の引力が人体に加える力より肩にとまった蚊一匹が加える力の方がはるかに強いのだという。

 月に魅入られて心が空に飛んで行く――などという事は、あるとしたらそれは妄想と狂気に他ならないのだ。

 八坂の方も「月」を題材にした古今の文芸作品を考察した論文で博士号を取った身(それを知っていたから平田はこんな話をしだしたのかも知れない)なので話に全く興味が無いわけでは無かったが、色々と思い煩っているこのタイミングで捲し立てられるのは、正直苦痛であった。

「ええと、平田教授。申し訳ないのですが今は時間がありませんので……またの機会に」

 立ち上がりなかば強引に話を切り上げ、八坂はその場を立ち去ろうとする。熱気にあてられてなんだかドッと疲れた気がする。すれ違いざまに平田は何かボソボソと言っていたがよく聞き取れない。挙動がもう明らかに異常であった。


「――我々は、地球で初めて、月が無い世界を見ているんだぞ」


 こう言っているのだけは聞き取れたが、八坂にはもう返事をする気力もなかった。



                ◆



 その日の晩。

 退勤した八坂はそのまま手ぶらで帰るのも気まずく感じ、朝の言い合いの謝罪――というより殆ど誤魔化し――のためにワインを買うために寄り道していた。

 理沙の好きなトスカーナ産ワインを探したがもう殆ど扱いが無いようで(先日読んだネット記事によるとヨーロッパは度々酷い水害に見舞われているらしい)仕方なく国産を買った。

 おかげですっかり日が落ちて真っ暗になってからマンションに着いたが、今日は二日に一度の節電の日であったのでエレベーターが使えなかった。おかげで八階まで階段で登るハメになってしまった。

 結局、理沙は電話に出る事が無かった。よほど腹に据えかねているのか単に忘れてしまっているのか。分からなかった。


 鍵を開けてマンションのドアを開けると、「あれ?」

 家の中の電気が一切ついていなかった。それに風の吹きこむ音がする。やたらと通りの騒音が聞こえる。遠くからかすかに救急車のサイレンの音も聞こえている。どうも、ベランダのガラス戸が開いているようだ。

 さすがに不審に思いながら灯りを点けて部屋の中に入っていくと、目を見張った。


「イノリ……?!」


 真っ暗なベランダにイノリが座っていた。吹き込む冬の風がイノリの耳元まで伸びた髪をさらさらと揺らしていて――八坂は一気に血の気が引いた。

 イノリは、よりによってベランダの柵の上に座っていたのである。少しでもバランスを崩したらそのまま八階から転落するのは間違いなかった。

 なぜそんな所になどと考える余裕はなかった。八坂は驚かしてそのまま転落などという事態を避けるために、そっと後ろから近づいていく。

 そして両腕で力いっぱいに掴みとるようにしてイノリの事を抱き寄せ、なんとか手元に戻す事に成功した。その拍子に尻餅をついてしまったが、まあ大した事ではなかった。一瞬でドッと冷や汗が溢れてきていた。


「おいおい……一体、何をしていたんだ……?」


 ようやく言葉が出てきた八坂は呟くようにして問いかけたが、抱かれたまま丸まるようにしているイノリが答えてくれるはずも――

 イノリは八坂の腕を握り「マァマ……」と漏らすように声を出した。八坂はイノリを抱いて真っ黒な空を見たまま、荒い息を吐き続けていた。


 ――理沙はどこに行ったんだ?


 頭の中にようやくその疑問が浮かんだ頃、八坂はベランダの柵のすぐそばに理沙のスリッパが揃えて置いてある事にようやく気が付いた。救急車のサイレンがマンションの前まで来て止まったのが分かった。


 ちょうどその時、風が吹き始めた。そうしてもう風は吹き止む事が無くなった。



             ◆  ◆  ◆




 その日の昼下がり。

 午後の受持講義までにはまだ時間があったし、正直あまりに様子がおかしかったので、八坂は物理学部の研究室に寄ってとりあえず知らせておく事にした。

 尋ねてみるとちょうど昼飯を終えて人が戻って来たところだった。首から下げた身分証には北正次郎きたまさじろうという名と此処の研究員である旨が書かれていた。

 平田教授の様子を伝えると、北正は「あの人はルナティックですから」と事もなげに答えた。

「元は堅実な研究をする先生だったんですけどねぇ。例の大消失以降すっかりおかしくなってしまったんですよ。まあ無理もないというか……三十年も理論立てて研究していた宇宙で〝月が消える〟なんてワケの分からない事が起こったのが受け入れられなかったのかも知れません。今まではこれまでの成果で誤魔化していましたけど、他の教授達ももう庇いきれないようで、近いうちに解任させるって話です」


 狂人ルナティック……。

 大消失直後には随分この言葉が飛び交ったものだった。なんともバタ臭い言葉だが、今ではすっかり隠語のようにして定着してしまっている。

 終末論〝的〟な色が薄い日本では幸いな事に混乱直後でも銃乱射やテロの発生までには至らなかったが、それでもパニックに乗じた犯罪やショックを受けてとみられる自殺が随分と増えた。前年より減ったとはいえ、それでも今年の自殺者数は大消失以前の平均値の倍を超えたという。


 北正は噂話をする調子でこうも話していた。

「なんでも平田教授、あの日は観測に出ていたらしいんですよ。それで月が消える瞬間をモロに見てしまったそうで。あまりのショックに月狂ルナティックになるのはそういう人が多いって、もっぱら――

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