6・ニュートンの林檎(part.1)
――月の大消失から二年目。
『ガソリンが不足しています。個人での自動車のご利用は、可能な限りお控えください』
一年前の人工衛星墜落事件の頃を境に、海洋環境は激変していた。
汐潮は時と共に急速に弱まっていき、海面は波打たず鏡のような様相を見せた。
流れが滞ると共に放熱作用は失われて生き、海水温度の上昇を引き起こした。
海洋生物――ことに硬骨魚類――は水温の変化に非常に弱く、近海では90%近くの生物が環境変化に耐えられずに死滅したと試算されている。比較的変化に強い大型の魚類や海洋棲哺乳類も、エサとなる魚類の激減を受けて個体数の維持は絶望的であろうとされた。
じっさい韓国海洋水産部によって最初にあげられた不可解な報告の一つに「クジラの変死」があった。その後のIWCの調査によると、調査タグを付けられた鯨類のうちかなりの数が実際に死亡していた。死因はなんと、餌の窮乏による餓死だったという。
当然主要な水産業もほぼ成り立たなくなった。すでに日本の漁獲高は「大消失」以前の一割近くにまで落ち込んでいた。
海難事故は増加し海上輸送の効率は著しく低下した。産油地帯から出港するタンカーも減少の一途をたどり、そうなればもう陸上輸送も航空も電力供給も著しい停滞を起こし始めた。
その一方で海上には予測困難な嵐が発生するようになり始めていた。
人類が数千年間積み重ねてきた航路や経験則はほとんど無用の長物と化し、あらゆる船舶はいつ荒れ狂うかも予測不可能な海を何倍も時間をかけて航行せねばならなくなった。多発した遭難証言の中には、数千キロもの距離を呆気なく流されたという信じ難い話まであった。
ある説に因れば、月が消えた今、全く未知の力学が地球の海を引っ掻きまわし始めたのだと。触れ合う事の無かった温暖海水と寒冷海水の衝突は大規模な水温の変化と蒸散を引き起こし、洋上に新たな大気の動きを発生させ、ついには嵐を頻発させるようになっていったのだとか。
月が消えた日から起こり始めた変化が、増幅の中で限界点を超えて海の中から噴き出し始めたのかもしれない。
――とにかく母なる海は、月が消えて約二年でかつての面影の無い死の海になった。そうして異変が引き起こした運輸網の破壊は、人間社会に対して締め上げるような影響を与え始めていた。
朝のテレビニュースの合間に、BGMも無い真っ白な背景に黒字のテロップと共に読み上げられる政府広報が流れるようになって、もう一年になろうとしていた。
まるで弔辞のような気が滅入る口調で読み上げられる政府広報は、かつての震災直後の頃をなんとなく思い出させた。
あの時は〝日常〟は戻ってきた。しかしこれは果たしていつ終わるのか。
『石油燃料・天然ガスが不足しています。無くそう、電気の無駄遣い――』
◆
朝から陰鬱な気持ちにさせられるテレビを消し、八坂は朝食の用意されたテーブルについた。
二歳になったばかりのイノリは、最近ようやく椅子に座ってスプーンを使って食事ができるようになっていた。イノリは八坂がトーストにマーガリンを塗り始めるとスプーンを動かす手を止め、大きな目で興味深そうに八坂の手元を見ている。
八坂が「イノリにはまだ早いんじゃないかな?」と言って薄く笑いかけて見せると、分かったのか分からないのかはともかく、イノリはこくりと頷いて笑い返した。
二歳ともなればある程度の発話ができるはずだが、イノリはあまり喋ろうとするタイプの子供ではなかった。尤も個人差の範囲なので特に心配するような事でもなかったが。
ちょうどその時、珈琲を淹れて理沙がキッチンから戻ってきた。
理沙の表情は若干暗く見え、そうしてカップを八坂とイノリの前に置くと(イノリのマグカップには牛乳が入っていた)開口一番こう言った。
「ねぇ、総一。やっぱり福岡に戻りましょうよ」
「……また、その話?」
八坂は珈琲を受け取った礼を言うのも忘れ、思わずうんざりした顔をしたままそう返した。そう、確かに「また」であった。それに構わず理沙は続ける。
「うん、〝また〟だけどさ。だけどやっぱり、今は東京にはあまり居たくないと思うの。物も手に入りにくくなって来てるし、治安だってあまり良くないし、イノリにもあんまり良い環境じゃないと思うし……」
「確かにそうだけど、それは別に東京に限った話でも無いんだよ? 景気が悪いのも燃料不足も、日本全国どこでも一緒。むしろ地方都市は東京よりさらに不足してる。このあいだ帰省した時もそう感じたんじゃないかな?」
二カ月ほど前、八坂と理沙はイノリを連れて福岡の実家に帰省していた。
飛行機を使ったのだが既に本数は減少し、運賃も三倍以上に跳ね上がっていた。
ようやく実家に着いた後は小倉の旦過市場を散策したが、鮮魚店は残らず閉店し、交通費高騰の影響を受けて肉や野菜を扱う店もほとんど休業に近かった。当然人通りも少なく、かつての賑わいは消えてしまっていた。
あの状況から見れば少なくとも都内はまだ幾分活気もあるし、値上がり著しいとはいえ物も手に入った。今さら地元に帰るなど八坂にはばかげた事のように思えてならなかった。しかし理沙はそういう事をいくら言ってみても納得し切れないようだった。
「だけどさぁ……」
理沙は鬱々とした様子で、二人の言い合いをじぃっと見つめていたイノリを抱き上げる。イノリはおとなしく抱かれ、理沙はその頭をそっと撫でていた。
八坂の方はというと、その姿に幾分の苛立ちを覚えてしまった。
まるで子供を盾にして自分の意見を押し通そうとしているような――あるいは妻自身が子供に戻ってヌイグルミでも抱いて駄々をこねているような。そういう姿に思えてならなかったのだ。
「だいたい、福岡に戻って、どうするんだい? 東京にも福岡にも月は出ていないんだよ。キミは家に居るだけだからどこでもいいんだろうけど、僕は此処で仕事が――」
思わず口をついて出てしまったが、さすがに酷な事を言ったと後悔した。理沙の顔色が変わってしまったのが分かったのだ。
理沙は子供の頃から憧れ、楽しんで勤めていた国際貿易に携わる仕事を、通商網崩壊によって失ってしまったのだ。理沙はずっとひどく落ち込んでいたし、溌溂として外国との交渉に出かけていく理沙の姿が好きだった八坂もそれを残念に思っていたのだが。
「……」
とうとう理沙はイノリを抱いたまま、へたるようにして床に座り込んでしまった。何も言わなかったが、身体を小刻みに震わせているのが分かった。
「ご、ごめん……」
八坂は慌てて謝罪したが、理沙は何も答えずに俯いていた。顔色はうかがえない。イノリだけが胸元から彼女の表情を見ていた。
非常に重苦しく気まずい沈黙が続き、八坂はとうとうそれに耐えられなくなった。逃げ出すようにして上着を取り、
「……ごめん、仕事に行ってくる。また夜にゆっくり話そう。……本当にごめん」
それだけ言うとリビングを出て行った。
玄関を静かに閉じる音が聞こえた後、随分経ってから漸く、蹲るようにしてイノリを抱きしめていた理沙は顔をあげた。その目は涙で真っ赤になっていた。そうして理沙はぽつりと、ずいぶんと哀れっぽい口調で呟いた。
「いっちゃおうかぁ。イノリ……」
泣きながら自分の顔を見つめる母親の顔を、イノリはまたじぃっと見つめていた。
◆
――東京都・新宿区。大隈大学にて。
午前中の受け持ち講義をどうにか終えた八坂は、大学庭園のベンチに腰かけてスマートフォンを見つめていた。
「出ないな……どうしたんだ?」
気持ちが耐えきれず置いて出てきてしまったものの何とも様子が気にかかり、自宅に電話をかけたが、固定電話にもスマートフォンにも理沙が出る事はなかった。正直気がかりで仕方がなかったが午後にも講義があるのでいったん自宅に帰る事もできない。気持ちは昼飯を食うどころではなかった。
――とにかく帰ったら謝ろう。そしてもう少し話し合おう。随分と参っているようだし一緒に病院など行くべきかも知れない。いやその前に……。
朝に取った態度を悔いて頭の中で色々と思いを巡らせていると、ふと自分の前に誰かが立っている事に気が付いた。ちょうど影がかかっていたのだ。八坂が視線を上げると、眼前に一人の男が立っていた。
それはネクタイ姿の痩せた中年男で、顔色悪く無精ひげを生やした、あまり清潔感のある人物ではなかった。片手に紙袋を抱えて八坂の事をじっと見据えている。
「……どうかなさいましたか?」
八坂は自分の事を凝視しているこの男に思わず声をかけた。なんとなく見覚えのある顔だなと思ったがどうにも思い出せなかった。
そうして男は「隣、いいかね?」と言って八坂の座っているベンチを指さし、次の瞬間にはもう答も聞かずヒョイと腰をおろしてしまっていた。
空いているベンチなどいくらでもあるのに変な人だな……と八坂はかなり怪しんだが、男は一切気に留めない様子で紙袋を漁り始めた。そうして中から赤い林檎を取り出すとシャリシャリと甲高い音を立てながら食い始めたのである。
八坂の方はその振る舞いに内心唖然としたが、あまりジロジロ見るのも気が引けたので、誤魔化すようにしてスマートフォンに目を落とした。するとその途端、
「私は天体物理学をやっている平田という者だ。ええと、キミはたしか――文芸学科の八坂総一君だったかね?」平田と名乗った男の方からまた声をかけてきた。
八坂の方も名乗りを聞いてようやく思い出した。
この顔色の悪い男は物理学科で教鞭をとっている
身元を思い出してようやく形ばかりの挨拶を済ませたが、なにが目的で自分に近づいてきたのかは相変わらずさっぱり分からなかった。
平田の方はまた音を立てながら食べかけの林檎を食べ始め、残った芯はそのまま向かいに置いてあるゴミ箱に放り込む。そうして二個目の林檎を手に取り、今度は天に掲げてじろじろと観察するように眺めはじめる。その目が実に爛々と輝いているように感じた。
八坂がその挙動を少し――いやかなり――気味悪く感じ始めた頃、平田は急にベンチから立ち上がり、空に向かってその林檎を放り投げたのである。
林檎は当然一秒も経たないうちに刈り込まれた芝生の上に落ち、ボスリと鈍い音を立てた。何の面白味も無い当然の現象だった。
「……あの、どうされました?」
八坂がさすがに訝しんで尋ねると、平田はぬらりと振り返って極めて明朗な声でこう尋ねた。
「彼が見ていたら、はたして何を考えただろうね?」
八坂にはその質問の意味がまるで分からず、内心「もしかして頭が……」などと疑い始めていた。かくいう平田はそれをまったく気にしない様子で、落ちた林檎と空を両手でしっかり指差し、今度はこう尋ねた。
「今のを、もしもニュートンが今のを見ていたら、はたして何を考えただろうね?」
平田の指先には、十二月とはいえ眩しく輝いている太陽があった。
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