4・限界点
『……次のニュース。東京の……動物園でパンダの生殖行動が行われなくなった件について、中国から招聘された専門家は、何らかの環境変化がストレスを与え、生殖期のサイクルを狂わせているのではないかと指摘したそうです。動物園の発表によりますと、パンダの他にも生殖行動を行わなくなる動物が……健康面には一切の問題が確認されず、一般公開は継続するとの事です……』
「よしよし……いい子だ……」
男は腕に赤ん坊を抱いたまま、リビングの中を歩き回っていた。腕の中の赤ん坊はだいぶぐずっているようで火が付いたように泣いていた。
「よしよし……理沙は……ママはちょっとだけ出かけてるからねぇ。すぐに帰って来るよ」
暫くゆさぶってみたり微笑んで見せたが機嫌は直らないようだった。
男はどうしたものかと困り果てた様子だったが、くるしまぎれにベランダに出てみると途端に赤ん坊は泣き止んでしまった。そうしてじっと、外の様子を見ているように思えた。
「……変なものだな。
八坂総一も、腕の中に抱いた娘と共にじっと夜景を見ていた。
東京の夜景は郷里のそれよりはるかに華々しくライトで彩られていたが、かつてイメージしたいつ見ても昼間のように明るい都会の姿はそこには無かった。それどころか、それら全てが却ってか細く頼りげのない光に見えてくる。
つけっぱなしにしてあるリビングのテレビからはちょうど国会中継のダイジェストが流れている。国会では全国的な夜間街灯増設のための特別予算計上が連日審議されていた。
ある有力議員が大型照明器具を積んだ飛行船を都内上空に飛ばす「東京ライトアップ構想」なるナントモ垢抜けない案を出して野党から轟々の非難を受け、
ある野党議員がその垢抜けない思い付きを「世間では今、先ほどの〇〇議員のような人をなんと言うかご存知ですか? ル・ナ・ティッ・ク! って言うんですよ!」と野次って爆笑が起こっていた。
人間は電気照明を発明して以降自然光の恩恵を忘れてしまったとはかつてよく言われてきた。しかしそれは少しばかり違っていたらしい。
月の消えた夜は墨を零したのように真っ黒で、電気の光などがとても太刀打ちできるようなものでは無かったのだ。たとえ照明を満載した一万隻の飛行船を飛ばそうが、かつての夜空はとても帰って来そうには思えなかった。
八坂はほんの少しだけ目線を上げてみる。そうすると階下の慰みのような灯りさえ視界から消え失せ、空には相変わらず呑み込まれそうな不安を掻き立てる闇だけが広がっていた。
――NASAが月の消滅に関する最終報告を発表したのは月の消失事件から三カ月目。世界中で厭世的なテロや経済危機がまだ持続していた頃の事だった。
目の錯覚や大気圏内での月光の遮断といった理由ではなく、月という天体が物理的に消滅している。NASAの広報官ははっきりとそう述べた。
消滅の原因は当然最も力を入れて調査されたが一切不明。直前にあった数分間の通信障害と何らかの関係があったとは推定されるが因果関係は分からない。
世界中で報告された一瞬の「揺らぎ」は月の重力が一挙に消失した事が原因と思われる。
核ミサイルで粉々に砕け散ったとか宇宙の果てに飛んで行ったなどという荒唐無稽な俗説を逐一否定した挙句、「あるタイミングで月が丸ごと消え去った事のみが、現段階で断言できる事実である」と結論づけられた。
そう説明する最中、記者の一人が「まるでヨシュアの奇跡だ」と口走り、その時の広報官は明らかに苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
たしかにそれらは何から何まで不可解な、まさに奇跡としか言いようがなかったのだ。
もっとも、月が宇宙から消滅した事自体はとっくにみんな知っていた。世界中の天文台が望遠鏡を覗いて探しても見つける事ができなかったし、いくつかの国は紛争発生の危険も顧みず探査機を宇宙に打ち上げて調査していた。そしてそれらの調査結果はメディアに逐一漏れ出ていたのだから。
分かり切っていたその事実以上に、宇宙調査の最高権威であるNASAが原因究明を諦めたという事実は、少なからぬ数の人々を逆に安堵させた。――宇宙にはどれだけ人智を振り絞っても理解し得ない謎がある。気を巡らせてもどうしようも無い事はある。そう認めて受け入れる事はあれこれ想像して恐れおののくより遥かに容易に心の安寧をもたらしたのである。
実際NASAの発表以降、金融市場は目に見えて安定しはじめた。犯罪も緩やかに減り始めた。それは狂乱から日常に回帰し「大消失」以前の生活に戻ろうとする巨大なうねりだった。遅れに遅れた(そして結局何一つ解っていない)調査報告が大々的に発表された本当の理由は実際そこにあったのかもしれない。
そうしてその例に洩れず、八坂達もまたかつての日常に還りつつあった。この日は「大消失」から八ヶ月後の夜だった。
◆
『次のニュース……アメリカ大統領は穀物類の記録的大凶作を受け、緊急措置として小麦や米をはじめとする主要食料品の関税を大幅に下げる法案を議会に提出するとの……日本では1993年を遥かに下回る不作となり、新米の価格が前年度の……』
一瞬だけ、微かな振動があった。空気が震えたような感覚だった。
咄嗟に跪いて腕の中のイノリを庇うような姿勢をとったが、どうやら地震ではなさそうだ。地震速報も鳴らなかった。
八坂は安堵して立ち上がったが、それでもひどく厭な感じが体中にあった。向かいのマンションのあちこちの階から、人々が訝しげに外を見に出ているのも分かった。この感覚は――
「今、揺れましたよねぇ? 一瞬だけですけども」
声がしたので目を向けると、隣の部屋の老年夫婦がベランダに出てきて辺りを見渡していた。人間の不安げな気配を感じ取ったの、隣人が飼っている小型犬までが何やら唸り声をあげている。
「ええ。確かに揺れがありましたよね。地震では無さそうですが……」
「なんだか気持ち悪いですねぇ。まるで……」
「……」
会話はそれきり途絶えた。語らなくても何を連想しているかはすぐに分かった。言葉にしたくも無い、あの夜の感覚。
「ぁあぅ――」
腕の中に居たイノリが、急に言葉にならない声をあげ、手足をじたばたと動かした。
「……どうした? 怖いのかい」
八坂はイノリを強く抱き直して部屋の中に戻ろうとしたが、イノリは異様なほど暴れた。驚いた八坂がイノリの顔を見ると、ベランダの照明によってその目は爛々と輝いている。
首を傾けて注視し、手を伸ばし、まるで其方に行きたがっているかのように思えた。八坂の目にはイノリが一生懸命に、真っ暗な空に向けて手を伸ばしているように思えたのだ。
娘を抱きしめたまま、八坂はその視線の先にある夜空を見た。そしてその時ちょうど、夜空に光るものが見えた。
それは一つの光の筋だった。――流れ星?
動揺しているうちにそれは瞬く間に消えてしまったが、即座に別の光の筋が見える。幾つもの光の筋が現れては消えてを繰り返していく。瞬くようだった。
その数はどんどん増えていき、あっという間に見渡す限りの流れ星が見え始めたのである。
「流星雨」という言葉が頭をよぎったが、あれは宇宙空間に漂うチリが燃焼して天体の光を強く見せる現象のはずだし、その動きも放射状でまた極めて遅く見えるはずだ。
しかし今見えているソレは、明らかに下に向けてほぼ一直線に落ちてきていた。次から次へと降り注ぎ、そして一瞬で消えている。光の雨だった。まるで夜空に無数にあった星が片っ端から落ちていっているような。
そこまで考えた八坂は、ふと一つの可能性に思い至った。
「まさか――人工衛星が落ちているのか? もしかしたら、一つ残らず……」
絶え間なく降り続けて空を充たす光の雨を見上げながら八坂はそう呟く。
人工衛星がいくら落ちたところで大気圏内で燃え尽きるはずだ。そう分かっていたとしても非常に薄気味の悪い光景には違いなかった。
腕に抱かれたままのイノリは、空を充たす光の雨を興味深そうに見つめていた。
イノリは小さな手を相変わらず動かしていたが、まるで光を追いかけて捕まえようとしているようにも見えた。
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