3・LUNATIC



 ――フランス共和国・パリにて。



 昼間からインターネットがろくに繋がらなくなった。

 10分程度で復旧してさしたる支障は無かったのだが、SNS上に湧き上がった「ゲームが切断された!」だの「Twitter中毒の自分には我慢できなかった!」だのといった不満の声を見る限り、どうやら通信障害はパリどころかフランス全土で広く発生していたらしい。

 AFP通信が最速で掲載した記事によるとフランスだけでなくアメリカやインド、ロシアや日本の支局からも同様の報告があり、それらは今のところ「世界規模」「原因不明」であると纏めるだけで――要するに何も分からないようだった。


 多くのパリジャン・パリジェンヌ達が各種メディアの情報を眺め終えて「つまり……結局なんだったんだ?」と首を傾げていた頃、Twitter上には奇妙な画像や映像が多数流れ込み始めていた。

 その多くは真っ黒なわけの分からない写真で、多くが日本人ユーザーが投稿した物だった。私はマンガマニアなおかげで少しばかりは日本語を読む事ができたのだが、どうやら日本人達は『月が消えた!』『月が無くなった!』と大騒ぎをしているらしかった。我が国と八時間の時差がある日本は今は夜の筈だ。

 私には正直その意味がよく理解できなかった。自分がニュアンスを取り違えているのでは無いかと疑った。これは実は日本文化に基づくクリスマスのお祝いの言葉か、それでなければ悪ふざけのフェイクニュースか? そう考えていた。


 しかしやがてオオサカやトウキョウやハカタに旅行していたフランス人達も似たような写真をFacebookにアップし始めた。そうしてみんな異口同音に『月が消えた!』と書き込んでいる。この真っ黒な写真は日本の空や街中を写しているものらしかった。

 中でもキョウトに居た著名な写真家が世界遺産の寺院を写した写真は大きな衝撃を人々に与えた。遠景でそれだけ引けばどんなにトリミングしようと夜空には月が写り込む筈なのに、その夜空は塗り潰したように真っ黒で星一つ見えなかったのである。

 私が『日本の空から月が消えた』というわけのわからない事実をようやく呑み込めた頃、韓国やインドネシアや中国のネットユーザー達もこぞって『月が消えた!』と大騒ぎしている事が分かった。どうやら日本だけの話でもないらしかった。


 我々の国のメディアも漸く地球の反対側のアジアの国々の空で何が起こっているのかを大きく報道し始めた。インターネットで見た以上の情報は何も得られなかったが、トウキョウ支局のリポーターの興奮を抑えきれない様子の声と、マルノウチの世界一忙しいサラリーマン達がみんなしてぼんやりと空を見上げている中継映像は「これは尋常な出来事ではない」という気分を大いに高ぶらせた。

 最後にカメラが上空を写すと、たしかに夜空にあるべきはずの月がどこにも無かった。微かに星が見えるだけの真っ黒な空だった。


 世界中の人々の関心は『なぜアジアの空から月が消えたのか?』という事に一斉に集中した。中には月食の可能性を疑う無知な人々までいたが、多くの人々は大なり小なりとにかくこれは何らかの自然現象で、おそらくは一時的に月の光を完全に遮断しているのだろうと考えた。そしてそれは東アジアのごく一部の空だけに起こっている出来事だろうとも。


 ――しかし現実は違っていた。世界の果てに起きている珍事だとは思っていられなくなった。

 世界中に張り巡らされたメディア網はユーラシア大陸各地にやって来る日没を刻々と映し続けた。インド、パキスタン、ロシア……どこの国も太陽が沈んだ途端に真っ暗になった。中東のある国からの中継ではあまりの暗さに人々がマグリブ(日没後の祈り)を行えず戸惑っている様子が映し出された。

 特に電気照明の少ない、いわゆる後進国では総じて大パニックが起こっていた。



 ヨーロッパでも日没が始まった。とうとう我がフランスの番だ。テレビはエッフェル塔から生中継をしていたが、私はもう居ても立ってもいられずに路上に飛び出して空を見上げた。

 夕陽は沈みかけていた。――そしてあるべきはずの月の姿はやはり無かった。

 嗚呼、陽が沈む……。真っ暗になる……。

 私は熱狂的なライシテ支持者を自認していたが思わず「主よ、聖母マリアよ……」と口にしていた。たぶん私は、あのトウキョウの人達と同じようなずいぶん間抜けな顔をして空を見上げていたと思う。絶対にある筈の物が消えてしまった事に対する不安や恐怖や疑念が一度に噴き出したような、泣きわめく一歩手前とでもいうような、そんな顔だ。


 ふと気が付くと、私が日頃軽蔑していた向かいの家のイスラム系移民の家族も揃って空を見つめていた。同じ人間だとすら思えないエイリアンのような連中だといつも思っていたが、ヒジャブを纏ったその家の娘が泣き腫らして目を真っ赤にしている気持ちが、その時ばかりは私にもよく解った。

 たぶんその時はパリ中の人々が外に出て空を見上げて『月が消えた!』と確認していた。



               ◆



 世界中の人々が「今度は太陽が消えるのではないか?」と内心恐れおののいていたが、朝陽はちゃんと昇って来てくれた。あんなに喜ばしい朝はかつてなかった。


 月が何故消えたのか? 視覚的に見えなくなっただけなのか?

 まさか――ありえない話だが、本当に月という天体そのものが消滅したのか?


 日本での最初の報告から24時間以内にアメリカ、中国、ロシアが無通達で宇宙に向けて何かを飛ばしたとは報道されていた。ESA(欧州宇宙機関)も何かを準備しているらしい。おそらく探査機か何かを大慌てで月に向けて飛ばしているのだろう。

 半世紀前のアポロ時代が最盛期で、科学調査の対象としては既に「手垢まみれで飽きられていた」月が、消えた瞬間に大注目を集めたわけだ。


 いわゆる先進国でも軒並み『月が消えた!』と確認が成された頃にはもうメディアもネットも天地をひっくり返したような大騒ぎが始まっていた。

 〝月の物理的消滅〟という大事件に人々は思う存分、根拠のない憶測や取り留めのない空想や愚かしい妄想やばかげた幻想を掻き立てられた。


 UFO信者達は「月は宇宙人達の基地だった」などと言い始めた。そういえば私も子供のころ、月の中は機械仕掛けの空洞で巨大な都市があるとか月の裏側に宇宙人の基地があるとか聞かされた覚えがあった。なるほど宇宙人達はついに地球を見限り、宇宙船「月」号と共に銀河の果てに去って行ったというわけだ。

 月にはヒトラーと共に宇宙に逃げ延びたナチスの基地があるなんて黴臭い都市伝説も再燃した。


 アメリカのファンダメンタリストの連中には月の消滅が黙示録にあるラッパの音に聞こえたらしかった。特に過激な連中は恐ろしい世の終わりが来る前に集団自殺をしてさっさと天に帰ってしまった。

 逆に月の消滅は『ヨシュア記』にあるような天の主の福音だと取って大喜びしている連中もいた。ヨシュアが月を止めた奇跡のすぐ後に「これより先にも、あとにも、主がこのように人の言葉を聞きいれられた日は一日もなかった。」と書いてある事は見えなかったらしい。

 近所の海岸の水位が誤差程度にほんの少し下がっただけの事を、創世記の例の「大洪水」に結びつけて騒ぎ立てるような連中はもう後を絶たなかった。


「某国が核ミサイルで月を破壊した」などと語っている人間はかなり多かった。

イラン、イスラエル、アメリカ、ロシア、中国、北朝鮮、どこもかしこも恐ろしい陰謀の枢軸国家だという事になった。

 なんと言っても史上最も軽薄なあの大統領プレジデントまでが月の消滅を「小さなロケットマン」に結び付けてTwitterで吠えていたのだから、彼の国の国民には同情せずにはいられない。

 かと思えば中東のテロ組織には機に乗じて「月を破壊した犯行声明」などを出す連中がいて、これは逆に世界中の誰も信じはしなかったのだからおかしなものだ。


 とにかくこういうバカげた狂乱が何昼夜も続いた。政治も思想も科学も宗教も大混乱に陥ったし、全世界で軍事行動が活発化した。

 世界的混乱に浮かれたのか、あるいは真っ暗になった夜が唆したのか、先進国でもテロや犯罪が激増した。私の家にすら一度強盗が押し入ろうとしたが、皮肉な事に危険を顧みずに助けに駆けつけてくれたのは例のお向かいの移民家族だった。こうして私は長年持っていた愚かな偏見を捨てざるを得なくなった。


 とにかく、皆はいつの間にかそれをlunatic――月に憑かれた狂気――と呼ぶようになっていた。月が消え、人間はどこかおかしくなった。古風な中傷語が一転して全世界で流行語になった。



              ◆



  ――だが逆に言えばそれだけだった。宇宙の秩序が丸々一つ消え去ったというのにずいぶん小さな人間的影響だった。地球と月が密接な関係にある事――例えば潮の満ち引きが月の引力に影響されるとか――は子供でも知っているのに、目に見える変化はほとんど無かったのだ。

 テレビに出るような物理学者らは、大局的に見れば大きな変化がある事は必定だがそれは地球史規模の話で、それは早くて数十万年後の話だと説明した。少なくとも我々の百代先の子孫の頃までは慣性の法則だかなんだかで同じような天体運航が続くはずだろう、と。


 夜が前より暗くなって電気代が余計にかかる――本当にそれだけか。

 私には気がかりで仕方がない。もっと良くない事が起こりそうな気がする。

 これが私個人の頭を支配するlunaticであれば本当に何よりなのだが。

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