2・夢、もしくは月の天文学


 福岡県・筑前文化大学にて――


「十七世紀の天文学者であるヨハネス・ケプラーを知らない人は、まず居ないのではないかな?

 ケプラーは科学革命の時代を象徴する人物で、コペルニクスの地動説を天文学者の中で最も早く承認し、惑星が楕円を描いて運航する――いわゆるケプラーの法則を発見した事で知られている。この発見がニュートンに万有引力の着想の与えた。まさしく近代科学の礎を築いた一人であると言って良いでしょう」


 教壇に立った眼鏡をかけた男が操作するスライドには、ケプラーの髭を生やした肖像画と略歴が映し出されている。

「……まあ、私は文系だからそもそもこのくらいの説明しかできないのですが。詳しくはウィキペディアでも読んでみて下さい」

 壇上の講師がそう言ってマイクを持ったまま肩をすくめて見せると、教室のあちこちから笑い声が起こった。


「さて私がどうして文芸学科の講義でケプラーの話をしているかといえば――実はケプラーは文学史に残る偉大な作品を残しているのですよ。皆さんの中に知っている人はいますか? ――そう、実はケプラーは世界で最初のSF作家だとも言われているのですよ。彼は『ソムニウム』という短編小説を書いています。ソムニウムとはラテン語で夢という意味で、日本では副題も合わせて『夢、もしくは月の天文学』とも呼ばれます。そう、とにかく彼は、ソムニウムの中で月の光景を事細かく空想して描いたのです」

 講師がスライドで映し出された『夢』の初版本の写真を示しながら講釈を続けていると、一人の女子学生が手を挙げた。

八坂やさか先生! 質問があります」

「はい、どうぞ」

 講師がチャンネルを切り替え、女子学生の方にマイクが移る。

 彼女はこう質問した。

「八坂先生は『夢』が世界で最初の月の小説だとおっしゃいましたが、たとえば日本の『竹取物語』などの方がずっと早くから月を描いていたのではありませんか?」


 その質問を聞くと大学講師――八坂総一やさかそういちは面白そうに微笑みを浮かべ、こう答えた。


「ちょうど『竹取物語』にも後で触れるつもりだったのですが手間が省けました。そう、貴女の言うように〝月〟を描いた文芸作品というのは昔から多い。神話や伝説。もちろん竹取物語もそうです。

 世間では竹取物語を世界最古のSFだと言う人もいますが、単純に人間が月に行くというだけならば一世紀のルキアノスが描いた物語の方がずっと先行しています。両手に手作りの羽根を付けて空を飛んで月の向こうまで跳んで行く、イカロス伝説のパロディです。

 ではそれらの先行する古典作品と『夢』の何が大きく異なるのかと言えば、ケプラーはそこに自身の科学的考察を加えて宇宙や月の世界の情景の描写に努めたのですよ。

 その中には〝宇宙では鼻に濡らした海綿を当てれば呼吸ができる〟といった荒唐無稽な内容もありますが、少なくとも当時の科学知識に基づいて想像力をフル回転させ、宇宙での旅や月面に広がる動植物や文明世界を描いているのです。此処がそれまでは現実世界の延長や顛倒――あるいは神話的思考――でしか無かった〝月〟の描写の大きな違いだと私は思います。

 そしてこれが、鼻のシラノの『月の諸国諸帝国』やジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』、H・G・ウェルズの『月世界最初の人間』などにも繋がっていく源流なのですよ。ゆえに『夢』は今日でもSF小説の元祖と言われているのです」


 八坂の回答に納得がいったのか、女子学生は一礼して席に座る。八坂の方も満足げに頷くと一瞬だけ腕時計に目をやり、そしてスライドを次のページに回す。

 するとちょうど、今話した月を描いた古典小説の表紙たちが映し出された。

『月の諸国諸帝国』『月世界旅行』『月世界最初の人間』、そして『竹取物語』やルキアノスの『イカロメニッポス』……。


「思ったより話が早く進んでしまったので、時間までもう少しだけ続けましょう。

 先ほど『夢』以前の古典作品に描かれる月は現実世界の延長や顛倒でしか無いと言いましたが、実は近代以降のSF作品に描かれる月世界もそうなのですよ。

 シラノは月世界に先進文明がある事を空想して現実のキリスト教社会を厳しく風刺しましたし、ヴェルヌの月は大砲という最新兵器で宇宙に飛び出した征服意欲剥き出しの男達が行き着く場所です。ウェルズは先進的な月人の目から見た〝戦争ばかりが起きる野蛮な地球〟の姿を浮き彫りに描いています。

 ――ギリシア人は月を巨大な鏡であると表現しました。これは月が太陽の光を反射して輝くという事実以上に、月に向けた〝此方と相対する彼方〟とでも言うような眼差しを示しているのかも知れませんね。あるいはケプラーの描いたような、夢や空想や発想の根源のような世界……。

 さて、次の年明けからの講義ではそういう方面から月に関する文芸作品を扱う予定です。はい、皆さんご苦労様でした」


 八坂がそう言い終えたところでちょうどきりよく刻限を知らせるチャイムが鳴り、学生達はぞろぞろと教室から立ち去り始めていた。



               ◆



 ――福岡県福岡市・天神。ターミナルである博多から地下鉄で数分の隣接区であり、居酒屋や飲食店が立ち並ぶ九州随一の歓楽街である。

 年末の金曜日の夜で当然人出も多く、寒空ながら多くの酔客が赤提灯に彩られた飲み屋街を歩き回っている。

 そうして心なしながら多くの人達がちらちらと空を見上げているのが分かった。スマホで月の写真を撮っている人達も多い。

 オープンスタイルの外がよく見える居酒屋の席からは、そんな人々の様子がよく見えたのである。


「みんなそんなに〝スーパームーン〟が気になるのかね? あんなものをメディアが面白いイベントのように取り上げだしたのなんてここ何年かの話だろう? ……なあ、もしかしてこの真冬にわざわざこんな席に予約を取ったのって」

「あー当たりですよ。せっかくだし忘年会はスーパームーンで月見酒を決め込もうって教授連中が勝手に」

「ったくミーハーだなぁ近頃の年寄りは……そのくせ自分らは結局暖房のきいた席に引っ込んじまったし」

 赤ら顔でもつ鍋を囲んで湯割りを呑んでいる若い男達は、筑前文化大学の教員達であった。彼らもまた、他の酔客達と同じようにぼんやりと空を見上げてその満月を眺めていた。(むしろ他に見る物が無かったというべきか)

 その夜は〝スーパームーン〟であり、言われてみればその晩の月はひときわ大きく輝いている……ようにも見えた。

「なあ、今夜の満月は大きいそうだが……分かるか? 俺にはさっぱりわからん」

「たしか軌道の関係で14パーセントほど大きく見えて30パーセントほど強く光ってるんですっけ? ……全然分からないっすよね」

「全くわからん。こんなモンを最初に有難がり出した奴は一体何を……オッ、八坂! 戻ってきたか」

「奥さんに電話っすか?」

 寒空の席に戻ってきたのは八坂総一であった。

「ああ。電波が悪いのか知らないが繋がらなかったけどね。悪いけど俺は一足先に帰るよ」

「おい、今日はお前の栄転の祝賀会でもあるんだぞー? ……ったくよぉ、来年度には東京の大学で講師職が決まって、第一子が生まれるんだよな? 良い事続きじゃねえか! 少しは付き合えっての!」

「いやいや、関係ないし、それに学生時代の恩師の下に行けるのは嬉しいと思ってるが非常勤講師だぜ? そんなによいものでも……」

「うっせぇ! 謙遜するんじゃねえ、かえって胸糞が悪くなるわ! ったく! 幸せになりやがれ、チクショーめ!」

「……井上、お前ちょっと飲みすぎだぞ?」

 赤ら顔で大騒ぎし始める井上を傍目に、八坂は肩をすくめて苦笑いを浮かべる。見かねたもう一人の同僚・加藤が助け舟を出して井上を宥め始めた。

「あーあ、まーた井上さんの悪い癖がー。男のツンデレなんて見苦しいだけっす。後は俺が相手しときますんで八坂さんは帰っちゃって下さい……あーもう勿体無いってば、溢さないで下さいよー」

「おう、すまん、これがなけりゃいい奴なんだがなぁ。それじゃあ教授連中に挨拶だけして先に帰るよ。来年もよろしく」

「はーい、よいお年をー」

 だいぶ悪酔いしている井上の相手を加藤に任せ、八坂は逃げるようにして席を立った。



                 ◆



 暖かい座敷に籠っていた教授の老人連中に形ばかりの挨拶を済ませると、八坂は居酒屋を出て夜の街を歩き始めた。

 年末の天神の街はとにかく賑やかしかった。忘年会であろうスーツ姿の集団がそこかしこを行き交っていたし、この寒空の中で何か芸をやっているパフォーマーもあちこちに居た。

 寄って来るチェーン居酒屋の客引きをあしらい足取りの危ない酔客達を避けながら八坂は地下鉄の駅へと向かっていた。

 今度こそ妻に連絡をとっておこうと再度スマホを取り出したが、電波状態がまたも圏外である。

「こんな街中で電波が入らないのは、いくらなんでもおかしくないか……?」

 さすがに不思議に思って周りを見渡すと、周りでもスマホを見ながら首を傾げたり手で高く掲げて見ている人が多く居た。

 街頭モニターを見上げてテレビ放送を見ると、ちょうどL型字幕が表示されて「全国規模で携帯電話の通信障害」「原因不明」などの情報が流れているのは見えた。どうやら自分のスマホが悪いわけでなく辺りの電波状態そのものが原因らしかった。

 わけがわからないが、まあとにかくさっさと帰るに越した事はなさそうだ。酒席からさっさと出てきたのは正解だったかも知れない。

 そう気を取り直してスマホを懐にしまい天神駅へと足を向けた瞬間、八坂はそれまでに感じた事の無い奇妙な感覚を覚えた。瞬間的に身体に悪寒が走った。

 自身でも全く呑み込めない感覚だったが、それはおそらく


 ――辺りが暗い?? という疑念だった。


 真っ先に頭をよぎったのは辺り一帯が停電したのではないかという考えだった。

 しかし周りを見渡すと、居酒屋の派手な看板もコンビニの灯りも街頭モニターも自動販売機の照明も……何もかも明々と点いたままだった。

 だが、視界は明らかに暗いのである。

 網膜が剥がれると急に瞬間的に視界が明るくなったり暗くなったりする事があるというが、まさか自分の目がおかしくなったか?

 しかしどうやらそれも違うらしい。

 辺りを行き交っていた人々も一斉に立ち止まり、ざわざわと騒ぎ始めていたのである。


「……あれ、なんか暗くない? 電気消えた?」

「いやでもほら、電気ついてるべ?」

「なんか変だぞ。気持ち悪い……」

「絶対暗いってこれ。なんで?」

「あ、ネット繋がったぽい」


 立ち止まった人々は始めは連れ合い同士でひそひそと囁き合っている感じだったが、やがてその場に居る人間同士で不安げに目を合わせ、この「明るいのに暗い」異様な感覚を確認しあうような雰囲気になっていた。

 酔っぱらった若者も、居酒屋の客引きの剃り込の入った男も、ビジネススーツ姿の女も、カップ酒を握って座り込んでいた浮浪者風の老人も、とにかくその場にいる人間全てが、押し黙ったまま窺うようにお互いの表情を覗き合っていた。

 お互いの感じている違和感や不安が共通である事を確認するように。お互いが正気である事を確認するように。八坂もその中のうちの一人であった。呆然としながら薄暗い繁華街に突っ立っていた。

 その時だった。懐から着信音が聞こえた。妻の携帯電話からの着信だった。通信が回復したらしい。


「……もしもし?! 理沙りさか?!」

 通話ボタンを押して受けたが、思わず声がうわずる。とにかく信頼できる相手の声が聴きたかった。そんなはずは無いのに、自分の心臓の高鳴りまでが電話越しに妻に聞こえる気がした。

 理沙は電話越しに悲鳴のような声をあげた。

『――ああ、よかった! 繋がった! ねえ、総一! いま、絶対おかしいよ!』

「……どうした、そちらも停電してるのか?」

 停電? 自分でも明らかにそうで無いと分かっているのに、そうとしか表現できなかった。妻は捲し立てるように言葉を続けた。

『違うの! これは停電じゃないの!』

「そ、そうだよな。そちらも……暗いのか?」

『総一、いま外に居るんでしょう?! 分からないの?!』

「こちらも暗いよ。電気は点いてるのに、一体何がどうなってるんだ……?」

『私、マンションの窓からちょうど夜景を見てたの! そしたら……ねえ、空を見て! 私の頭がどうかしちゃったのかも知れないから! お願い!』

「お、おい。とにかく落ち着いて……」


 ――空?


その時、ガシャンという大きな音が聞こえた。

 驚いて目を向けるとバンがよりによってパトカーの後部に追突していた。しかしバンの運転手はハンドルを握ったまま目を見開き、それにまるで気付いていないとでもいう風に空を見上げていた。

 それどころかパトカーに乗っていた警察官達の方までが目を見開き、ご丁寧に口まであんぐり開けたまま同じように空を見上げていたのである。

 辺りで戸惑っていた人々もそれに釣られるように、みんなして空を見上げた。

 そうしてみんなして同じような、莫迦のような顔をしたまま固まっていた。

 八坂も同じように空を見上げた。そして――同じく莫迦のような顔をしたまま固まってしまった。

 耳に当てたままのスマホからは理沙の嗚咽のような声だけが聞こえ続けていたが、今の八坂にはそれをうまく理解する事もできなくなっていた。


『――ねえ、見える? 見えてないでしょう? ああ、どうしよう。私は正気なんだ……』




 その夜。日本中の人々がそれを目撃して知った。

 それから24時間以内に世界中の人々がそれを知った。

 まるで魔術か何かのように、まばたきするほど一瞬の間に、

 夜空で輝いていた月が姿を消したのである。

 それが「大消失」の瞬間だった。

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