夢と現の狭間にて
そのバーのマスターは幼女である。
瞳の色は鮮やかな蒼。雲一つない空のように、あるいは燦燦と日の光が降り注ぐ海のような蒼。彼女が視線を合わせて微笑めば、どんな朴念仁であれときめくのは間違いない。もっとも滅多に彼女は笑わないのだが。
そしてそんな
「は……? ぇ、何だよ、ここ」
「おや、見ない顔だ。この店は初めてだね。まずはミルクでもどうかな?」
その男は安アパートで値段の割にアルコール度数が高いこと以外、何一つ良いところのない酒をカッ喰らっていた筈だった。
数刻前まで射し込んでいた身を焦がすような西日と、周囲の熱されたアスファルトから発せられる熱が組み合わさった、地獄の様な暑さを忘れようと1本、2本と缶を空けたところまでは覚えている。
だが3本目の缶に手を伸ばそうとした直後、気づけばここにいた。
一見すると狭いバー、だが間接照明により優しく照らされた店内にある調度品は全て高級品。酔った頭でも分かる。壁にも、テーブルにも継ぎ目が見当たらない。
横幅が10m近い大理石のカウンターの向こうで、アイロンが効いたシャツの上からベストを纏った少女がすぅっと白い飲み物が入ったグラスを差し出してくる。
訳も分からず口を付けるとそれは、
「俺は…… 酔っぱらって夢でも見てるのか?」
「死んでない人間はいつだって夢を見てるよ、良いか悪いかは別としてね」
したり顔で呟く
「事故みたいなものだ、今日はドレスコードについては大目に見よう」
「あ、ああ…… 助かる。ありがとう」
牛乳で潤した筈の唇はカラカラに渇いていた。ここ数年まともに人間として扱われなかった事実を思い出す。会社を首になり、日雇いとバイトで目先の金をかき集め、それを安酒と賭けで吹き飛ばす。ただそれを繰り返して死に近づいていく日々。
誇りは既に売り切れて、意地はずっと前にすり切れて、ただ喋る機械程度の扱いを受けながら生きて来た。少しはあった友人との交流は己の困窮を知られたくないと自ら放り投げて――
袖を通してようやく、エアコンの冷気で体が冷えていた事に男は気が付いた。
「なぁ、お嬢ちゃん。ここはいったいどこなんだい?」
「私のことはマスターと呼ぶように、ここには名前はないが一応バーなんだ」
確かに優しく流れるジャズの音、壁一面に宝石のように並べられた酒瓶は下手をすれば彼が1か月―― いや半年は命を繋げる価値があるように見える。周囲の丸椅子はヒビ一つない革張りで、恐らくは本革だろう。
牛乳を注がれたグラスに目を向ければ、滑り止めを兼ねたカットラインが刻まれていて、いつまでも見惚れそうになる。
「あー、その…… 悪いが俺にはこんな場所で何か頼める程――」
「偶然迷い込んだ君からお代を取ろうとは思わないよ」
ツインテールを揺らし、カウンターの向こうで
「なぁ、ここから出ていくにはどうすればいいんだ?」
「もう少し、休んでいっても構わないが?」
「いや、なんていうかさ…… 嬢ちゃ―― いやマスターを見てると」
男はそこで息を止めた。どこも目指さずに澱んでいる自分はこの場所に相応しくない。そう思ってしまったのだ。
「――気分が落ち着かないかな?」
「だな、もうちょとこう…… ちゃんとした格好で来たい」
「そうか、元居た場所に戻りたいのならあちらの扉から」
すっと
「別の場所に行きたいときは、どこの扉を潜ればいいんだい?」
「ちゃんと自分の場所から、扉を開いて一歩踏み出すしかないよ」
ああ、そりゃそうだ。と笑いながら男はガウンを着たまま扉に向かい、
「さて、彼はもう一度ここにやってこれるかな?」
そう呟いて
彼がもう一度このバーにやってこれるかどうかは―― 人かどうかも定かではない彼女ですら分からない。
ここは名も無き幼女マスターのバー。あるいは紳士淑女に届かなくとも偶然辿りつけるかもしれない。そして偶然を繰り返し、必然まで届けられるかどうかは―― 向かおうとする意志があるかどうなで決まるのだろう。
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