桃色の誘惑

 

 そのバーのマスターは幼女である。


 髪の色は艶やかな黒、夜の森よりも深く、瞼の裏に広がる微睡のよりも優しい黒。彼女が微笑み一つ浮かべぬ生真面目な顔で、バーカウンターの向い側に立つ姿は。意外な、あるいは一周まわって様になっている。


 そしてそんな幼女マスターに癒される為、疲れ切った大人達はやってくるのであった。



「マスター、チューペットを」


「では、いつも通りに?」


「ああ、半分はマスターに」



 ドレスというよりは、コスプレ衣装のような。それでいて肩や胸のように色気のある部位が見えていることもない。今夜の幼女マスターはそんなメイド服を着込んでいた。


 所謂ヴィクトリアン風というよりはフレンチ風、いやむしろジャパニーズメイドスタイルと呼ぶべきか?


 それが安っぽく見えないのは、着込む幼女マスターの品格か。それとも服の素材自体が由緒正しいメイド服と同じであるからなのか? いや恐らくは馴染むほどに着こなしているのが理由であろう。


 チューペットを膝で折り、客に手渡すまでの優雅な動きから。幼女マスターがこの服で日常生活を過ごせる程に着こなしているのが見て取れた。


 客の男は満足そうな顔をして、チューペットを受け取り口に含む。合成甘味料のわざとらしい甘みが日々社長として業界の最前線で戦う彼を、ゆるりと溶かしていく。


 いや、それ以上に真顔でツインテールを揺らしながらメイド服でチューペットを口に含む幼女マスターの姿が彼を癒すのだ。


 邪な感情など欠片も持たない、それこそ彼は女など飽きる程抱いている。多少中年としての体のたるみや衰えがあったとしても、社長という地位とロマンスグレーに磨かれた甘いマスクの組み合わせは多くの人を魅了する。


 だが、それ故に彼に心が休まる時はない。常に他者を慈しみ、尊敬を集め、それが日常となり、いつでも気を張り巡らせ、愚痴を零す相手すらなく―― そんな彼の細やかな楽しみがこのバーなのだ。


 ここでは彼は無敵の大社長ではなく、一人の悩める男に戻れる。



「なぁ、マスター。俺は幸せだと思うかい?」


「別に恵まれているから幸せであり続ける必要もないさ」



 幼女マスターはチューペットから口を外して言葉を紡ぐ。



「どんな大富豪だって辛い夜はある。奴隷ですら時に喜びに満ち溢れる様に」



 もう一度チューペットを含み、チューチューと色が薄紅色の唇に吸い込まれ、そして消えていく。



「そして常に他者に何かを与え続ける必要はない」



 すっと幼女マスターから差し出されたのは、半ば中身のなくなったチューペットの半分。どっと男の心臓が揺れた。その先端はマスターの舌で舐られテラテラと光っている。恐らくは少量の唾液が流れ込んでいるかもしれない。


 ぐらり、と彼の中で何かが揺れて――



「マスター、からかうのは良して欲しいね」


「まぁ、君から貰った物を返すというのも行儀が悪いか」



 くくく、とほんの少し意地の悪い笑みを幼女マスターは浮かべて、そして残りを口に含んだ。男が手に入れたのは微かな後悔、そして大きな誇り。自分が紳士であり続けたという証明だ。



「全く、本当に酷い人だ」


「なぁに、君くらいの男はたまに試す位で丁度いい」



 もう昔の様な弱虫じゃないだろう? そう言われたような気がして苦笑する。だがそれでも、どんなに成功しようと、どんなに失敗しようと―― 人にはこんな時間が必要なのかもしれない。



「じゃあ、今日はこのくらいで」


「ああ、今度来る時は何を用意しておこうか?」


「――今日のイチゴ味以外のものを」



 そう言い残し、男はバーを後にする。けれど誇りを選んだ筈なのに、未だに幼女マスターの薄紅色が脳裏からは消えてくれず―― そんな気持ちを楽しみながら男は社長に戻り、蒸し暑い夜の街を歩き出した。



 ここは名も無き幼女マスターのバー。疲れた紳士淑女の為に用意された都会の幻想。この場所に辿り着けたとしても、全てが解決するわけではない。けれどそれでも一時の癒しは与えられるだろう。

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