ラムネの発泡

爽月柳史

ラムネの発泡

 ぽろり

 涙を零すように友人の口から、青く美しい蝶が生み出された。


 友人は蝶が特に好きだった。僕は生き物には到底思えない、あの作り物染みた存在がどうにも苦手で、一度だけ「何故」と尋ねてみたことがある。友人はその時なんと答えただろうか。

 蝶の好きな友人は、蝶が飛び交う太陽のある時間は嫌っていた。夏の何もかもを照らし尽してしまうような暴力的な光を、薄暗い教室から今にも焼け死んでしまうかのような目で「じっ」と見据えていた様子が印象に残っている。

反対に、夕陽は好きなようで、夕陽がすっかり沈んでしまうまで飽きもせずに延々と見つめている。

 夕陽は太陽が血まみれになって死んでいく時なのだと、愛おしげに夕陽を見ていた友人がぽつりと漏らした。何時の事であったか、その時に僕は友人と初めて知り合ったのだろう。それ以前の事は記憶が朧気だ。あの夕焼けの日が鮮烈な記憶として焼き付いていて、その日以降から友人と話すようになったように思える。けれども学校で話した記憶は不思議と無い。彼と話すのは空が紺碧に染め抜かれた夜に限定されていた。約束するでもなしに、太陽が大量出血で死に至った時間の町で僕と友人は落ち合う。

 僕はいつものようにビルにもたれかかりながら友人を待っていた。友人は蝶と同じくらい夜が、特に夏の夜が好きで、昼間の憂鬱さから解放されたかのような微笑みと歌うように言葉を紡ぎ、僕はそんな友人の様子を見るのが好きだった。

 「夏の夜の空気は僕を優しく抱いてくれる」

 夏の夜ときたら水の気配が濃厚で、群青の熱が水のにおいを一層強くする。その中で泳ぐ冴え冴えとした白い友人の肌が、魚を連想させた。僕達は魚の気分で夜気を泳ぎ回り公園へと流れつく。

公園の外灯に照らされてよく見ると友人の白く滑らかな肌に赤や青の傷が浮かび上がっていることに気が付き、昼間の彼は長い袖で肌を隠している事を思い出す。

 「ねえ」

 と声を掛けても言葉が続かなくて黙りこむ。友人は返事のように青い蝶を吐き出した。僕は驚かなかった。友人が蝶を吐き出すことはごく自然な事に見えたから。何よりも初めて蝶を美しいと思ったから。

 「腕はどうやって動くと思う?」

 「筋肉が伸びたり縮んだりして」

 僕の答えに友人は「うん」と頷いた。

 その日はそのままラムネを飲んで僕たちは別れた。

 次の日もやはり僕らは夜の海底を泳いだ。立ち並ぶビルは巨大な海綿で、自動車はサメ、人々は獰猛な甲殻類や肉食の深海魚なので彼らを避けるようにして泳がなければいけない。友人は夜気の中解放されているかのように笑っているけれど、その目には憂鬱の影が纏わりついていた。公園に着くとやはり友人の肌は赤や青に彩られている事に気が付く。

 僕はその理由を問おうとするけれど、今にも泣きだしそうな色を湛えた乾いた瞳を見ると何も言えなくなる。そんな僕に答えるように友人の口から青い蝶が「ぽろり」と一羽生み出される。生まれた蝶は地面に落ちる前に薄い翅を羽ばたかせて空に舞い上がる。その動きはとても生き物のようには見えない、誰かが作った玩具のようにも見えた。そんな僕の心を読み取ったのか、友人は夜空に向けていた瞳を僕に向けた。

 「生き物は筋肉組織を使って体を動かす。あんなに軽い蝶までそうだなんて、なんだか不思議だね」

 「蝶にも筋肉があるの?」

 「あるさ。だって生き物だもの」

 友人の瞳から哀しさは消えていた。僕達はラムネを飲んで、また明日と言い合った。

 

 友人は公園に着くといつも泣き出しそうな瞳をしている。けれど、涙を零したことは一度も無い。その代わりのように青い蝶を一羽吐き出すのだ。きっとこの蝶は友人の涙の代わりなのだろう。

 最近の友人は学校でも少し元気そうだった。夏の日差しを見据えることなく。少しだけ普通の生徒のように振る舞い、僕とも話すようになった。僕はそんな彼の様子に戸惑いを抱かざるを得なかった。夜の回遊はいつもと変わらず、公園で蝶を吐き出し、ラムネを飲んだ。だから、昼間の戸惑いはラムネの発泡のように淡い物でもあった。

 昼間の友人は普通の少年のように笑いながら僕と話し、夜の間に訊けなかった痣の理由を少しだけ話した。それは御多分に漏れず複雑な家庭環境の産物であった。何も言えない僕に対して、友人は軽く笑い飛ばした。日に日に夜の友人と昼の友人が不連続になっていく。昼間の友人は僕が苦手とする作り物染みたあの生き物のようにも見えた。

 夜の友人は、蝶は魂なのだと語った。それならば友人は夜毎に魂を少しだけ吐き出す。そうして何かを失って昼に適応していく。昼間の友人は笑って明るく話し、型通りに快活に過ごしている。蝶を吐いた代わりならば、世間から見れば喜ばしい事なのかもしれない。けれども僕にはどうしてもそれは、友人が人間として大切な何かを失っているように見えて仕方がなかった。

 昼間の友人が僕と話す時間が増える度に、僕は夜の友人が恋しくなる。そうしてやはり僕はビルにもたれかかりながら、美しい魚を待つ。

 やってきた友人の顔には青黒い痣ができていた。 「また?」 と尋ねると友人は頷いた。グロテスクな筈の痣は友人の白い肌に奇妙な色香を添えているように思え、僕は慌てて目を逸らせた。

 「ラムネ、飲む?」

 「うん、蒼色を、飲むよ」

 憂鬱に掠れた友人の声が心地よく鼓膜を揺らした。僕は嬉しくなって友人の手を取って公園へと泳いだ。

 「満月だ」

 空の奥を見据えるような目で友人は呟いた。僕達は炭酸と少しの格闘をしてラムネ瓶を零さないで開けて呷った。

 友人はラムネ瓶から口を離すと、ぽつりと「うまれかわれたらよかったのに」と小さな声で呟き、蝶を吐き出した。

 ぽろり、ぽろり

 一羽で止まらずに後から後から、蝶が友人の口から生み出され地面へ落ちる前に空へと舞う。

 がしゃーん

 友人の手からラムネ瓶が落ちて鋭い音を立てるが、友人は反応することなく項垂れている。

 「待って」

 僕が肩を揺すっても友人は顔を上げない。声を立てない。蝶が止まらない。

 待ってくれ。君の魂。身体を置いていかないでくれ。僕がどんなに願っても、流れる水のように蝶が生まれ月への橋のように連なって空へ舞う。

 数時間とも数分とも分からない時間が経過して。蝶をすっかり吐き出した友人は、「また明日」と言って帰っていった。そして次の日もそのまた次の日も、友人の席は空っぽだった。

 何日も友人の空の席を眺め、無数の蝶がその席に止まっている幻覚に目を逸らしながら、数週間後、僕が登校すると、まるで欠席などしていなかったような顔で友人がその席にいた。

 「やあ」

 「あ……」

 「あの後さ、風邪を拗らせてしまってね」

 友人は朗らかに拗らせた風邪で今の今まで寝込んでいたこと、その間のノートを見せて欲しい事などを話した。

 「もう……大丈夫なの?」

 「うん。ごめんね。心配させてしまって」

 微笑む友人は確かに友人だった。

 蝶は魂で、別の場所では再生の象徴でもある。友人は再生したのだろう。

 けれど、再生した友人は本当に友人なのか。

 「あ、」

 そんな事は分かりきっていた。死のない生に再生は無い。再生とは再び生まれて生きる事だから。 死を礎にして成り立つ概念なのだ。友人は青い魂をすっかり吐いて死に、生まれた。

 新しく生まれた無垢な彼は、もう友人ではない。あの時、夜気の水に抱かれ蒼色を飲んだ友人はもう死んでしまった。

 ぐるりと胸の奥が渦巻いて、喉元をせり上がってきた。堪らずに嘔吐くと、唾液を纏った烏色の蝶がひらりと舞い上がった。

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ラムネの発泡 爽月柳史 @ryu_shi_so

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