第1話「ブラウニー」
東京都。
世界でも有数の眠らない街として有名な日本の首都である。
深夜零時を越えた時刻なのにも限らず昼間のような明るさを保っており、空は百メートルを超す超高層ビルが乱立して夜空を塞いでいる。
そんな街の地上には様々な服に身を包んだ人々が歩道を所狭しと歩いていた。
大通りから少し離れ、路地の一角に静かに構える喫茶店がある。
洋風の外装を纏い、立て看板を入口の傍に置いている昔ながらの喫茶店である。
そんな店の入り口を尋ねる一人の客がいた。
外見からして中年のサラリーマン。コートを右脇に挟み、左手に持つ革製の鞄の
開いたドアの先にはすぐに螺旋状の階段があり、木製の階段を革靴の踵で鳴らしながら半階ほど降りると男の視界に店内が見えてくる。
中世ヨーロッパを意識して整えられた壁紙とそのモダンな飾りの数々は煌びやかさを残しながらも店になじむ色合いを放っている。
二〇畳ほどの広さの一角を占めるカウンター席には一本の木を丸ごと使用したテーブルを使用しており、背もたれのない木製の椅子がそのテーブルの下に複数並んでいた。
カウンターから少し離れた壁際にはテーブルとイス4セットほど置かれており、古くもなじみの良い色合いをしている。
男は店内を軽く見渡し、空いているカウンター席へと腰を下ろした。空いていると言っても男の他には数人の客しかいないが。
時刻はすでに日付を跨いでおり、誰もいなかった一番隅に座った男はバーテンダーに一言、グラッパと言うと隣の空いている席に鞄とコートを置いた。ここが男の指定席である。
「今日は少しばかり遅いお着きですね」
男が腰を降ろしたのを確認して初老のバーテンダーが言葉をかける。顔には僅かながらに皺を刻み、年齢は50代と言ったところだろう。
「ちっとばかし仕事が長引いてね」
そう言うと男は出されたグラスを手に取り、一気に飲み干した。空になったグラスが軽い音を立ててカウンターに乗る。そしてふとカウンターに視線を向けると、
「ところでマスターはいないのかい?」
男は無言でグラスを引き取るバーテンの手元を視線で追いながら聞いた。
「マスターは少しばかり所用で出ております。何か御用がおありでしたか?」
いや、と言うと男は再びグラスを手に取り、今度はゆっくりと飲み干した。アルコール度数は普段晩酌でも飲む発泡酒とは比べ物にならないほどに高い。
しかし男が飲んでいるのは、アルコール特有の喉が焼けるような感覚まではなく、飲みやすい部類といえる酒である。
「今日は相談事があったんだが、まあまた後日にするよ。幸い明日は非番でね、昼過ぎでいいかい?」
お伝えします、とだけバーテンは言うと再び空となったグラスを引き取った。するとグラスと引き換えに小皿に乗った小さなケーキが男に差し出された。
「新作です。ぜひお試しください」
そう言ったバーテンダーの言葉に片眉を上げる。
酒のつまみならば判る。だが目の前に出されたのはチョコレートのケーキのように見える。
男は少し困惑しながらも小皿に添えられているフォークに手を伸ばし、小さく切り取ると口に運ぶ。
複数回の咀嚼音。男の口に広がったのは予想とは違うものだった。
「・・・甘くないな」
口の中に広がった苦味のある甘さ。それは先程飲んだ酒の味をしっかりと残しつつも、チョコレートの風味を生かしたものだった。
密かに甘いもの好きであった男にとっては非常に美味しいものだと言えたが、その事を家族以外に漏らした覚えはない。そんな事を考えながらバーテンダーに視線を向ける。
「はい。女性のお客様用に試作したチョコブラウニーでございます。お酒の味を損なわないように甘さを減らし、後味をすっきりとした形に仕上げております」
手元を動かしながらもバーテンダーは返事を返す。
しばらくの無言の後、男は懐から財布を取り出し、
「・・・・お勘定」
男は立ち上がり、隣の席に置いていたコートと鞄を手に取った。それと同時にカウンターの上に2枚の紙幣が置かれる。しかしバーテンダーは一枚だけをそっと男に戻した。
「ケーキのお代は結構です。こちらからのささやかな気持ち、とお受け取り下さい」
ごちそうさま、と言うと男はバーテンダーのありがとうございましたという言葉を背に店を後にする。
外に出た男は少し風に当たりながら夜空を見上げた。
微かに「吹く風がアルコールで上気した頬を冷やす。すると体温が下がったのか男は体を震わせると手にしていたコートに袖を通した。
”YATAGLASS‐八咫烏‐”と小さく描かれた看板を背に男は薄暗い路地を去って行った。
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