第10話 救いを

 キラキラと太陽の光を反射する水面のすぐ下には、ゴツゴツと隆起した岩肌が顔を覗かせている。泉の中心の像の元へと歩み寄れば、ズクリ、と心臓が刺し貫かれた様な衝撃がゆったりとルークを襲う。

 そこにあったのは石像だった。

 そこに居たのはかつて、人間であったものだった。

 呼吸すら忘れてしまいそうになる。自分なんかよりも、彼の方が英雄と称えられ賞賛されて然るべきだろうに。遥か太古の英雄は、今となっては物言わぬ忘れ去られた石像と成り果てた。彼が成した功績を知る者は、果たしてこの国にどれだけ残っているのだろうか。

「感謝を、そして謝罪を。貴殿こそ、真の英雄に他ならない」

 ルークは、深々と頭を下げる。そして、ゆっくりと目の前の英雄に手を触れた。途端に、様々な感情に襲われる。

 彼は、自ら呪いを引き受けると決断するまでに一体どれほどの葛藤をしたのだろうか。これはおそらく、の一部だ。大海のほんのひと雫。だというのに、こんなにも苦しい。ああ、彼は逃れる事すら許されないのだ。終わることのない眠りの中で、呪いを引き受け悪夢に苛まれる。

 徐々に、ルークの身体から悪しき呪いが吸い出されていく。恐る恐る目を開けてみれば、久しく見える事のなかった白い肌があった。涙が溢れる。人間に戻ることができたという喜びと、恐ろしさから解放された安堵。そして、結局は自分も彼に全てを押し付けるのだという悔しさ。全てがないまぜになり、とめどなく溢れる涙を止めることができない。

 ――――すまない。

 耳に、優しげな男の声が響く。慈愛に満ちた声に、更に涙が溢れた。何故、謝るのか。そう問いかければ陽炎の向こう側に立つ影が首を振った。

 ――――駄目だった。これ以上は、無理みたいだ。すまない。

 謝罪の声が、響く。謝らないでくれと声を上げ、一歩踏み出せばバシャリと水を踏みつける音がした。つられて足下に目を向ければ、揺れる水面が徐々におさまるにつれ、自分がそこに映り込む。瞳の色は、元の色には戻らずに鈍く赤く輝き、麗しい金髪も取り戻せなかった。土色をした髪に手をやりくしゃりと掴む。こんなものの為に、貴方が謝る必要は無いのに。

「貴方が、救われることはないのですか」

 ――――私はもう、遠い昔に救われている。

「何を、貴方は気の遠くなるほどの時間苦しみ続けている。私に、出来ることはありませんか」

 ――――元より、消えるはずだった命。愛する人が守った国の民の為ならばこれ以上の救いはない。私は、望んで此処にいるんだよ。

「………ありがとう、ございます。勇気ある英雄と、相まみえられたこと誇りに思います」

 陽炎の向こうの男は、嬉しそうに微笑んだ。これ以上の言葉はないと笑う。

 ――――さあ、戻ると言い。待っている人達がいるんだろう。



「ルーク、ルーク!」

 ティーナは、泉の中央で倒れ伏したルークの身体を揺すりながら呼びかける。心臓は間違いなく動いているから、気を失っているだけなのだろうと思うが、それでも不安で仕方が無い。クロノスとスクリムジョーも厳しい顔つきで、ルークが目覚めるのを待っている。

「………クロノス殿、呪いが正しく解かれなかったのでしょうか」

 スクリムジョーは腕を組みながら、言った。しかし、クロノスは首を振る。

「いいえ、そんなはずはありません。彼を蝕んでいた呪いは、間違いなく解かれています。……髪の色は呪いを受けたことによるものでしょうが、稀にあることです。目覚めないこととは無関係でしょう」

 ティーナは涙だけは流すまいと、唇を噛み締めながら名前を呼ぶ。

 何度目かも分からない名を呼びかけた時、つうっとルークの頬を涙が伝った。

「………ティーナ」

 僅かに持ち上げられた瞼の奥に、赤い瞳がのぞいている。

「目が覚めたのね、心配したのよ。泉の石像に触れて、倒れてしまったから。でも、よかった。本当に、よかった」

 ルークは、堪えきれずに涙をこぼすティーナの頭を撫でながら言った。

「………命の恩人と、少し話をしていたんだ。心配をかけてしまったね」

「この、石像となった人物とと言うことでしょうか」

 クロノスからの問いかけに、ルークは頷く。クロノスは、顔を歪め唇を噛み締め言った。

「では、彼は未だ、此処に囚われているのですね」

「ああ、でも笑っていた」

「笑って?」

「自分は望んで此処にいると、そう言っていた」

 その言葉に、クロノスは困ったように笑った。仕方が無い人だと呟いて、石像の方を見やる。変わらずに、石像はそこにあった。水底がまた少し高くなっているような気がした。

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