第2話 暗闇の中で

 ぴちゃり、ぴちゃりと水滴が地面に落ちる音だけが響く。

 申し訳程度に置かれた蝋燭の灯りだけが不気味に揺らめいていた。ここに連れてこられてから、もう四日だ。まだ、主人の怒りは収まらないらしい。今までも何度か、へまをやらかす度に仕置きにここに閉じ込められた事はあったがここまで長いのは初めてだ。それほどのことを自分がしてしまったということなのだろう。

 ぶるりと肩を震わせる。春先とはいえ、夜は冷える。加えて今の自分の格好は、薄い布で作られた安物の古ぼけたワンピース一枚だ。羽織る物など当然のように与えられない。少し身じろぎする度に、ガチャガチャと擦れて存在を主張する枷が鬱陶しい。何度目かも忘れた溜め息をついて、上を見上げた。

 天井近くにある鉄格子のはめられた小さな窓から、月が顔を出す。月が帰り支度を始める、なんて気障な台詞を残して消えていった〝英雄〟の事を思う。

 英雄が、悪魔になったという噂は聞いたことがあった。給仕をしている時に、屋敷の人間達が話していたと記憶している。使用人の間でも頻りに話題にされていた為、知らずにいる方が無理な話だ。

 曰く、英雄ルーカス・マーフィーは人間に化けていた怪物であった。

 曰く、彼の英雄は敵の呪いをその身に受け悪魔へ成り果てた。

 曰く、英雄は敵を打ち倒しその命を散らしたのだ。

 様々な憶測が飛び交い、時折悪意ある捏造をねじ込まれ、英雄の評価は地に落ちていった。かつて、敵に向かっていた民の憎悪がそのまま英雄に向けられた。彼こそが、次に世界を滅ぼそうとしているのだと、一人が言い出せばもう後戻りは出来なくなった。

 皆が、元英雄を遠巻きにするようになったという。

 酒場は、彼の入店を断る店がほとんどだという。

 英雄はその醜い姿を隠す為、日がな一日中フードを被っていると噂になれば、顔を隠すような服装をしているだけで、白い目で見られるようになったという。

 様々な場面で、ゆっくりと確実に変化は起こっていた。英雄を擁護すれば、村八分にされてしまう。英雄が恐ろしいから忌避するのか、英雄を忌避する社会に逆らえぬから忌避するのか。社会の大きな流れに、わざわざ逆らおうとする者はいなかったらしい。

 つい先日まで、子供に英雄の冒険譚を朗らかに語っていた母親が今となっては、厳しい表情で顔を隠した大人には近づいてはならないと言い聞かせる。

 彼は、ルークは何故こんな所まで来たのだろうか。

 いくら、自分の話を聞いてくれる人がいなくなったからといってわざわざ領主の家に忍び込むなんて、考えにくい。それとも、彼にとっては誰かに話を聞いてもらえないということはどんな苦労をしてでも解決すべき由々しき問題なのだろうか。

 ・・・・・・穏やかな、安心できる話し声だった。

 自分の今置かれている状況を忘れて、彼の話す事一つ一つに、鬱陶しいだとか面白いだとか感情を動かされた。

「また、明日」

 来てくれるのだろうか。彼は、ここに。

 誰かと話すのは、思いの外心安らぐ出来事だったようだ。

 あまり面白い話はしてくれないけれど、こんなに穏やかな気分で眠りにつけるのなら、明日もまた彼の話を聞くのも悪くない。




 裏路地の隅にある煤けた借家が今の自分の住居だ。

 一番奥にある寝室の至る所に飾られている栄光が空しくて仕方がない。

 捨てることは出来ない。今では唯一、自分自身以外で自分の成してきたことを証明してくれる物だから。その中の一つを手に取る。中央に大粒の煙水晶が鎮座し、取り囲む細やかな意匠がそれを引き立てている。・・・・・・最後の戦いの後、国王から賜った物だ。あの時は、時折襲い来る原因不明の痛みに頭を悩ませてはいたが長年肉体を酷使してきた代償だろうとさして気にしてはいなかった。これから訪れる平和な時代、負の記憶を背負って穏やかに暮らすのもいいだろう。

 最初に異変が現れたのは、脚だった。

 いつものように襲い来る痛みに耐えていると、脚が燃えるように熱くなった。

 ベッドに腰を落ち着け、靴を脱ぎ捨てるとおぞましい光景が広がっていた。靴下の黒い布地がぼこぼこと不自然に隆起している。恐る恐る、その布地を取り払ってみれば目の前が白く明滅する。ぐらぐらと脳味噌が揺さぶられ、視界が回る。なんとかして、目の前の光景を否定したくて仕方がないようだ。

 そっと、手で触れてみる。

 ざらりとした感触に、ひやりとした冷たさ。凡そ皮膚とは思えないそれは、まさしく岩だった。肌が岩のように変質したというよりかは、無理矢理に岩を肌に貼り付け同化させたという方が相応しいだろう。大小様々な灰色の凹凸が膝下までを覆い尽くしていた。

「なっ、んだ。これ」

 口の中が酷く乾燥していたからだろう。掠れて情けない音が漏れた。

 信じたくなかった。今、自分に起こっている全てはあの恐ろしい戦いが見せている幻覚なのだと思い込みたかった。なんとか冷静になろうと、冷たい水を求めて立ち上がる。脚の裏も岩に覆い尽くされているためぐらぐらと不安定だったが何とか歩くことは出来た。

 かたつむりのような速度で、キッチンまでたどり着くと水を煽る。

 ドクドクと全身の血液が沸騰している。

 これが何なのか、というのは最早どうでもよかった。

 この醜い両脚をどうすれば、これから世間から隠し通して生きていけるだろうか。

 晒を何重にも巻き付けて、きつく結ぶ。両脚にそれを施してから、靴を履く。これなら何かの拍子に肌が除いてしまうような状況になったとしても誤魔化すことが出来る。大丈夫、大丈夫だ。きっと、何とかなる。醜い姿になろうと、自分の成してきたことは決して失われることはない。自分を恐れる者も当然出てくるだろうが、大丈夫。きっと多くの人々は理解を示してくれるだろう。

 きっと、きっと大丈夫。全ては希望的観測でしかない。

 これから訪れるかもしれない、最も残酷な結末を頭の隅に押しやった。

 次の日、脚を覆い尽くしていた岩の感触は消え去っていた。

 一瞬、やはり夢だったのだと安堵しかけるが、立ち上がった瞬間に床に落ちた晒に現実に引き戻される。昨日、確かに自分の手できつく巻き付けた物だった。一切の隙間が存在することすら許さない、そういう思いで巻いた物だったのだから。

 …………。

 …………………。

 また、この悪夢だ。初めて、身体に異変が起こってから毎日のように見る夢。お前は化け物なのだとルークに言い聞かせるように何度も何度も繰り返される。今日は、少し気分が良かった。人と話したのは久しぶりだった。だから、この夢を見ることもないんじゃないかと、そんな都合の良い事を思ったけれど流石に虫が良すぎたらしい。鈍く輝く月を見やる。この月を心穏やかに眺める事が出来る日は来るのだろうかと、一人溜め息をついた。


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