第6章

第6章ー1

 泥のような疲労を感じ動けなくなったエイル・アシュナージは意識を失っていた。気がつくと、頭上に布を張っただけの四本の柱でできた簡易天幕の中その身を横たえていた。

「エイル? 調子はどう?」

 エイルが目覚めたのに気がついたサンディが、天幕の中に入ってきた。

「うん……」

 それ以上言葉を継げずに、エイルは顔を歪めた。吐き気を催し、出て行こうとする何かを必死に体内に押さえ込んだ。その代わりに全身から濃度の高い汗が、まるで毛穴の位置がわかるかのように激しくにじみ落ちた。

 ――きっと薬が切れたせいだ。

 三日間の営倉入りを終え、そこからさらに数日間エイルは常薬を摂取出来ないでいた。あの家出したときと同じ症状は、時を経るごとにさらに激しくエイルの身体を揺さぶった。 

 自分の身体ではなくなっていく。

 意識と身体が離れ離れになっていく。

 ちょっとでも気を抜けば、全部この身体から何かが出て行ってしまいそう。

エイルはベッドから身体を起こした。携帯していた薬のストックは燃え、メインドームからの補給線は断たれた。それどころかアルカナのシステムは停止し、通信すらままならない。芳しくない復旧の状況を伝え、サンディは力なく首を振った。 

 エイルは天幕の柱をつかみ立ち上がった。電力の消費を抑えるために、サイトロンドームは照明をおとしていた。水と食料の蓄えはまだ計算できたが、メインドームと連絡がつかなければどうしようもない。緊急事態に備えサンディら研究開発班もヘリオスーツを着装し、超空間通信機を取り囲んでいた。皆この状況を何とかしようと頑張っている。

 ――なのにわたしは……。

 エイルは、アルカナを呼び出せなくなった自分のセルフェスに視線を落とした。

このスーツも、この機械も、このドームも。

 様々なものに守られないと人間は生きていけない。

 自分のこの身体はそれに守られながらも何もすることができない。

 ただ母から離れたくて、ドームが息苦しくて、何かを探したくてここまで来たのに。

 ――何も見つけられなかった……。

 あのチビでいじめられたマルクトの共同住宅で、家出して薬を切らし倒れた国立資料館で、ひとりでコックローチに襲われたドームの外で、いつも、どんな姿をしたエイルを追いかけ助けてくれたアンはいない。

 ――わたし、一度も助けられなかったの?

 エイルはサイトロンドームの天井の先、空をおおう雲を眺めた。緊急隔壁は開かれ、コックローチの開けた大穴は、ピンク色の応急接着キットで補修されていた。

 ――どこにいるの? アンコ。ごめん。行けなくて。


『エイルぅ……こわいよぉ』


 エイルは、鼓膜を揺らす幻聴が聞こえたように感じ、雲の先に目を凝らした。

「アンコ! どこ!?」

 藁にもすがるような思いでエイルは叫んだ。

 澱のように体内でわだかまっていた何かが、言葉に乗って体外に排出されすっと身体が軽くなった。流れ出ていた汗も毛穴に戻るように自然に引いて、身体が引き締まる。まるで今まで欠かさず打っていた薬の方が異物だったかのごとく、叫びと汗で全てが出ていって、憑き物がおちたように。

 ――これがわたしなの?

 でも変わらない想い。

 きっと、大事なものを、失ってはいけないものを。

 そう、きっとこの身体でもわかっている。

 ――わたしの一番大事な……。

 アンを感じた方向に想いを馳せると、身体を包んでいたオブラートのような膜が裂け、まるでスーツなんて身につけず全身の神経がむき出しになったように敏感になる。エイルの身体の各部位が、自らの意思を持ったように呼びかけに答えた。

 ――アンを探して……。

 だんだんアンの気配が近づいてくる。だが、その方向から同じように近づくものは……。

 エイルの瞳が千里をかけた。

 透明なドームの外壁越しに、芥子粒のような黒点がいくつも近づいてくるのが見える。

 ――あと五分もかからずにここまでやってくる。

 エイルの耳が空気の振動音をつぶさに聞き分けた。

 そのひとつひとつが羽ばたく耳障りな雑音を補足する。

 ――数はひとつと二十二。

 エイルの鼻孔が思い出を嗅ぎ分けた。

――この血は……わたしの知っている人の血!

「エイル! もう大丈夫なの?」

 天幕の前に立ち上がったエイルを見て、作業を中断したサンディが駆け寄ってきた。

「サンディ。急いで作業を中止させて!」

「どうしたの?」

「説明している時間はないわ。またやつらが来る」

「やつらって? 死骸がまだあるの? どうしてそんなこと……」

「だから早くシェルターへ!」

 エイルのただならぬ剣幕に、サンディは黙って頷いた。

「エイルは? ひとりで無茶よ!」

 サンディたち非戦闘員のヘリオスーツは武装がない。

「ごめん。大丈夫。もう大丈夫だから。御願い、ドームを開いて」

「どうして?」

「この空間くらいのスイードなら直ぐに除染できるでしょ? それより壁を壊されたら元も子もないから早く!」

「うん、とにかく、わかった」

 サンディは首肯し、作業中の仲間に向って叫びながらドームの開閉機構の方に駆けていった。

 エイルはヘリオスーツのヘルメットを被り、徐々に開くドームの外を眺めた。

 アンの微かな存在を感じ続けるその方向は、真っ黒な感情に塗りつぶされかけていた。

「エイル! あなたも早く……御願い」

 シェルターに避難したサンディの顔がセルフェスから浮かび上がる。泣き出しそうな、それでいてすがるような表情でエイルを呼ぶ。

「大丈夫。もうすぐ進化種と支配下に置かれた下位種がここにくる。わたしたちのやったことは……いけないこと。話し合ってみるから。大丈夫。まかせて。ごめん。わがままきいて」

 エイルは通信を終わらせ、セルフェスのマニュアルモードの設定を調整した。ヘリオスーツのスラスターや、各種兵装の動きを制動するため予め組んでいたマクロを確認した。エイルの意識を読み取り、チューニングで踊る文字や線がセルフェスから飛び出し立体的に跳ねる。

 恐ろしくはない。むしろ胸の鼓動も同じように飛び出しそうなくらい跳ね踊る。

おそらく、捕虜にした進化種の感情が届いて仲間を呼び寄せた。

 彼らは姿こそ違うが、自分たちと同じ感情をもっている。エイルがいま鋭敏に感じている感情は、仲間を失った悲しみと復讐の憎しみだ。それが滑った汚い油の膜のように辺りに広がり、近づいてくるアンを感じなくさせていた。

 そしてその感情はエイルも同じ。やつらは仲間を手にかけた。だが呑まれてはいけない。きっと話し合える。

 サンディが接近する蓋外性生物の情報を送信してきた。一メートルを優に超える羽をもつ細身のしなやかな身体に、逆三角形の頭部はほとんど巨大な複眼で占められていた。そしてなにより特徴的なのは、獲物をとらえる巨大な鎌状の一対の前腕だ。

 植物食の甲虫タイプや雑食のコックローチタイプより危険な肉食狩猟タイプの蓋外性生物だ。

 マンティス型の蓋外性生物が、次々にエイルの前に着地した。エイルは進化種の気配を探るが、まだ上空に浮遊し様子を探っているようだ。あいつと話し合うためには、こいつらを倒して力を示さないといけない。エイルが対等に話のできる存在であることを示すためにだ。可哀想だが今の彼らは進化種の道具でしかない。

 エイルが近づくと、先頭のマンティスが、近づくエイルの方に身体を向け、前腕をかがめ拝むような姿勢でじっと待ち構えていた。やがて振り子のように身体を揺らす。

 ――くる! が、遅い!

 スローモーションのようにゆっくり前腕がのびる。水素サーベルで下から上に払う動きで跳ね上げた軌道の先に、切り離された二つの鎌が舞う。

 次に羽を開いた三匹が同時に飛び上がる。だが操られて無理やり長距離を飛翔したため疲労し、羽を動かす筋肉の動きが鈍くなっていた。

 トランポリンで柔らかく跳ねたような緩角のジャンプの下、エイルは肩と背中のスラスターを使ってねずみ花火のように素早く回転し、真下に潜り込んだ。正確なレーザプロセスの射撃で無防備な腹部をひとつ、ふたつ、みっつと打ち抜く。臓物を撒き散らしながらもんどりうった三匹は、地面に叩き落ちる。

 エイルは直ぐに立ち上がり、目の前に落ちた三匹の腹を、右足で激しく次々と蹴り上げた。外気に触れて、メラニンを帯びた黒色の体液と臓物が、墨汁を散らすように漂い辺りに撒き散らされる。それを浴び保護色のようにまだらな黒になったエイルは、虚をつかれたマンティスの群れの中をジグザグに飛んだ。

 彼らの上体と腹部を繋ぐ一番細い部分を狙い、サーベルで稲穂を収穫するように刈り取る。切り離されたマンティスの上体が黄緑の体液とともに空を舞い、腹部が上半身を求め右往左往する。その全てが力尽き地に落ちた時、エイルは上空の進化種に向って叫んだ。

「降りてこい! わたしと話をしろ!」

 刹那、背後から重力に引かれ急降下してきた刃が一直線にヘルメットを掠めた。飛翔型の蓋外性生物につかまり、上空に身を潜めていた進化種が、そのつかんでいた手を離し、滑空して身体を錐のように尖らせエイルを狙った。重心をずらし紙一重でかわすが、ヘルメットに大きくヒビが入りバイザーが音をたて割れた。

 ――速い!

 アルカナが生きていたら激しく鳴る気密破壊のアラームを思い出し、うっとうしくなって壊れたヘルメットを脱ぎ捨てた。

「エイル! ヘルメット!」

 泣き出しそうなサンディの声がセルフェスから聞こえる。サイトロンドームは先ほどまで気密下にあったので、深刻なスイード汚染されているわけではない。ただ冷静に、自分の身体をおおうものが邪魔だと思った。

 初めて直に見る外の世界の空。

 初めて直に肺に入ってくる外の空気。

 エイルはためらうことなく命一杯に瞳を凝らし、肺に空気を吸い込んだ。

 雲は轟々と唸っている訳でもなく、落ちてくるわけでもない。

 肺胞の一つ一つに満ちた危険と言われる大気は、血液に乗って身体の隅々まで行き渡った。呼吸を繰り返していくと、世界を構成する粒子ひとつひとつを、見分けられるように鮮明に感じることができた。

 エイルは通信を無視して、進化種の方に集中した。進化種は立ち上がってエイルに向き合った。体長は二メートルほどだ。顔と両腕の得物はマンティスのそれに似ていたが、すらりと伸びた体と両足は人間と同じだった。

 ――進化種……? あれはインセクター? 人……人間なのか?

 エイルはインセクターの複眼を上目遣いに睨んだ。顔の大部分を占める複眼を構成する単眼のごく一部が、ビーズのような黒点となってエイルの動きを追った。インセクターは右手の鎌を指差すようにエイルに向けた。ヘルメットを脱いでますます敏感になったエイルの嗅覚が、腕の鋸状についた刃の間に微かに残った香りをかぎ分けた。良く知っている香りに、ほんの少し混淆するアンの甘い香り。エイルは波打つ感情を必死に抑え、サーベルを納め彼に言った。

「私の言葉がわかるなら聞いて欲しい」

 インセクターはエイルを指していた腕を下ろしたが、返事はなかった。

「私たちはお互い過ちを犯した」

 エイルはゆっくりと大きな声を出した。今回のキベルの目的は、進化種を捕獲しパラサイトを得ることだった。しかし進化種がインセクターとして自分たちと同じような知性と感情を有しているのであれば、話し合うことで分かり合えるのではないか。そして彼らから人間がこのドームの外でも生きていけるすべを学べるのではないか。

 おそらくミロはこの世からいなくなっている。なぜそんなことが分かるのかエイルにもわからなかった。何か目的を持ち離れて行ったマァイやアニタという女、そしてアン。

 お互いわかりあい、不幸な出会いを嘆き、これまでのことを許しあうことができれば、争うことに意味はない。姿は違えども。

 インセクターは何も応えずただ、小さな黒い単眼でエイルを見つめていた。表情は変わらず、彼が何を考えているのかエイルに伝わってはこなかった

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