第5章
第5章ー1
アン・コモリが手をつぶれるくらいにぎゅっと握っても、ミロが再び握り返してくることはなかった。マァイとミロが突然言い争いを始めたのを合図に、蓋外性生物が一斉に襲い掛かってきた。乱戦となった谷底で、アンは他のキベル隊員と背中合わせに固まり、火炎放射を使って必死にモールクリケットを近づけさせないようにけん制していた。
ふと気になって振り返って見えたミロの足は、地につくことなく、だらりと力なく胴体にぶら下がっていた。彼女の後ろには、二メートルを優に超える細長い緑の筋肉質の身体を持ったインセクターが立っていた。カマキリの鎌の形をしたその生物の腕はミロの腹部を貫き、白いスーツから長く飛び出していた。「あっ」と叫んだだけで、ミロの名前を叫ぼうとした口から、無音映画のごとく空気だけが吐き出された。
インセクターが獲物の突き刺さった腕を振ると、まるで飛ばされた紙飛行機のようにミロの身体は空中を滑った。アンは声も出せず、飛行距離を計測するかのようにまんじりとその光景を見つめた。
ミロの体が地面に着地した瞬間、後頭部に鈍器で殴られたような衝撃を受け地面にうつぶせに叩きつけられた。アンはバイザーに顔面をしこたま打ち付けてうめいた。飛び掛ってきたモールクリケットの熊手状の腕は、押し固められた土砂をも簡単に崩す硬度を持っていた。それが凶器となってうつ伏せに倒れたアンの頭に何度も振り下ろされた。
――もしかしてミロはもう動かなくなっているかもしれない。でもあたしだって。
衝撃音が響く中、もう次で自分の頭もスイカのように割られてしまう。そう覚悟した一撃が振り下ろされることはなかった。
恐る恐るゆっくりと頭を上げると、アンを胃袋におさめようと執心していたモールクリケットが、地面を掘り返していた。その他の固体も争うように元来た穴の方に戻っていく。モールクリケットが地中に沈んだ先、仰向けになったミロは手に持ったセルフェスを、天に届けとばかり懸命に掲げていた。戦場に斃れたものを描いた、絵画のような荘厳な風景が数秒だけ続き、その腕もセルフェスを投げ出すように折れ落ちた。
威嚇するように大きく羽を広げて鎌を振っていたマンティスの動きが、一時停止を押されたように止まった。数秒の後、すぐ再び動き出した彼らは、本来の本能に従い近くにいる動くものを獲物と見なしたのか、固体同士切り合いを始めた。
こめかみから暖かいものが流れ、鼻からも伝った同じ液体が口唇の端をなめ気持ち悪いほのかな鉄味がした。
「に、逃げよう」
誰かの声が通信で入った。全身打撲でうずく上半身を腕立て伏せの要領で支え起こすと、ヘリオスーツの数人がセフィロトのある黒色針葉樹林に向って飛び立っていくのが見えた。
「どうしたの! アンコ! 早く! 今のうちに!」
アンは呼びかけられる通信とは逆方向に這いずっていた。
――もしかして見捨てられたの?
投げ出された右腕を取り覗きこんだミロの顔は、満足げに微笑み、瞳が緋色に潤んでいた。肌がいつもより透き通るように白く、急速に薄れてそこから消えてなくなってしまいそうだった。眉間に峻険な皺がよったと思うと、ミロは大量の血を吐いた。腹部からもこんこんと湧き出すような出血がある。アンはバックパックから大判のシールパッチを取り出し、破損したスーツに応急処置をした。
――でもどうしよう。血は止まんないよぉ。
何度か血糊を吐き出す咳をして、ミロはやっと気づいたのか、空ろっていた視線がアンの顔を捉えた。強烈なスイード障害の影響か、目じりから涙でなく血が流れた。微かに口が動き何か言葉を発しようとする。でも酸素不足の金魚のように、パクパク何度も開くだけだった。
「ミロ! しっかり! しっかりよぉ!」
刹那、辺りに光が差したように感じアンは上空を見上げた。分厚い雲層が割れ暖かい光玉が星を照らしていた。
「太陽?」
アンは見たことのないその名を呟いた。
「ミロ! 太陽が! 見える?」
再び覗き込んだヘルメットの中、ミロの翡翠色の瞳は再び開かれることはなかった。
アンは右手でミロの動かなくなった手を強く握り、左手を頭に当てていた。涙か血かわからなくなった混じりあった液体が、顔面をつたった。そのままどれくらいの時間がたっただろう。制御を失ったモールクリケットは谷底からいなくなり、マンティスも本能に従い、刈った獲物を生きたまま咀嚼していた。
敗れたマンティスの身体が細切れに、絶命したキベル隊員の身体が真二つに裂かれ、彼らの餌となっていた。酸鼻な光景から放たれたすえた臭いが、ヘリオスーツを透過したかのように感じ吐き気を催す。アンは本能で次は自分だと悟った。
――ひとりでも頑張って、虫を沢山捕まえて、皆のために頑張ろうと思ったけど、ダメみたい。もう動けない。エイル、ごめん。
地面にうずくまっていたマンティス型インセクターが、よろよろ立ち上がる。
――ミロが命をかけて作ってくれた逃げる時間を無駄にしちゃった。ごめん。ミロ。
――何だかごめんばっかり、エイルみたい。
覚悟を決めたアンは、動かないミロの腕をぎゅっと握り締めた。立ち上がったインセクターが右腕を掲げくるくると糸を巻くように回すと、食事中のマンティスらが一斉に持っていた獲物を地面に落とし、アンの方をタマゴのような瞳のない複眼で注目した。だが再び催眠状態になった彼らが生き残ったアンに殺到することはなかった。
「どうして?」
マンティスの群れは羽を開き谷底から飛び立って行った。インセクターもそのうちの二頭の足をつかみ飛び上がっていった。
何が起こったのかもわからず、道端のお地蔵さんのように取り残されたアンの前に、また二頭の巨大トンボにぶら下がった蓋外性生物が降り立った。昆虫の王者、ヘラクレスオオカブトに足が生え直立歩行するインセクターが大地を踏みしめ近づいてきた。天を刺すように起立していた櫛状の触角が、優しくしな垂れゆらゆら揺らめいている。
一旦覚悟を決めてしまうと、自分でも豪胆だと思えるほど肝が据わった。最後の瞬間を焼き付けておこうと懸命に見開いたのに瞼が急に重くなった。疲れ、失った血液、心の奥底に渦巻く底なしの恐怖に吸い込まれるように、アンの意識は深く沈みどこかへ遠のいていった。
――どのくらい時間がたったのだろう。ミロは死んだ。そしてあたしも死んだはず。
――あれ? でもどうしてあたし、そう思えているのだろう?
深く沈んでいた意識が、疑念という間欠泉に吹き上げられ戻る。アンはゆっくり目を開いた。見慣れない植物種でできた天井を持つ建物の中、身体は仰向けに横たわっていた。頭からの出血は止まっていたが、全身打撲を負った身体はヘリオスーツの中で、油が切れたロボットのようにぎしぎし音を立て自由が利かない。疼痛に耐えながら何とか上半身だけ起こすと、純度の悪い油が燃える原始的でくすんだ光源の先に一人の人間が立っていた。
アンはメインドームでその姿を毎日眺めて暮らしていた。それはまるで、
アイン・ソフ神。
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