第4章―6
針葉樹の森林とは反対側にマンティスはまだ現れていない。逡巡しているのか、マァイはバイザー越しにちらりと崖の方に目をやっただけで動かないでいた。見下ろされている位置関係は非常に危険だ。悪くなる一方の状況に痺れをきらしたのか、恐怖にかられたのか、中隊の中の一人が、バーニアスラスターを開いて崖の上に向って飛び上がった。
「待って!」
ミロは逆方向の断崖の壁にも不穏なサーモグラフィの熱を感知した。
断崖の壁面が崩れ、煙があがった。土の中から飛び出した焦茶色の塊が、上昇しようとしていた白い人影に飛びつく。絡まりながら地面に叩き落ちた白に、次々と穴の開いた壁から這い出たいくつもの焦茶が、塗りつぶすように圧しかかる。手足をばたつかせて振り払おうとしているのがわかるが、土煙が邪魔になって銃撃の目標を定められない。
「もう助からないわ」
アンら数人がどうにかしようと足を踏み出したのを、マァイの非情な声がさえぎった。土煙が除々に晴れ、激しく動いていた手足も動かなくなる。一般回線から全員の耳に入る彼女の断末魔の叫びが、スイードによるノイズで不鮮明だったのは幸いだった。
目の前で展開される光景に、身体が凍りついたように動かなくなる。背後にも熱い狩人の視線をミロは感じた。背中を炎であぶられ溶かされている氷像になった気分だ。
断崖の土壁に開いた穴から、体長二メートル近い茶色い蓋外性生物が湧き出してきた。ミロのセルフェスにはインセクトサーチのデータがつぶさに立体表示された。
地中活動に適応した収斂進化の末、モグラのような腕を持ったモールクリケットが、五、六体ほど争うように白い死骸を漁っていた。穴からは頭を出す別の個体も見える。うかつに飛び出せば命を落とした彼女と同じ運命をたどるだろう。彼らはトンネルを掘り地中をその活動域としたコオロギの進化形で、中生代では〝おケラ〟と呼ばれていた。マンティスと同じく群れる習性はない。
中隊は後方のマンティスの気配におされ、ジリジリと小川の流れる谷底の中央に移動していた。ミロはダアトで現状を分析した。サーモグラフィの熱源から、土壁には何体ものモールクリケットが潜み土中を掘り進んでいるのがわかる。森林に崖の上に陣取るマンティスは三十から四十体ほどだ。どちらも多少は飛翔できる羽と数メートルは跳躍できる脚力を持っていることから、飛行して逃れることはできなかった。どちらかを突破しようとすると背後を襲われる。マァイなら単身突破できるだろうが。
――自分や他の者はどうでしょうか。
ミロは自分の背後で、母親からはぐれた子猫のように身を縮めるアンの気配を感じた。
――足手まとい……。違いますわ……。
気弱になりそうになる心を背中で支えられてもらっているように感じ、ミロは何度も何度も頭を振った。
「ミロ何してるの? インセクターは?」
この劣勢でもマァイは冷静だった。コックローチの時のように、操っているインセクターさえ叩けば下位種への支配は解ける。
「だめですわ、全然わかりません……」
必ず付近に、マンティスとモールクリケットの二種類のインセクターが潜んでいるはずだった。濃いスイード障害のせいか脳波をつかむことができない。必死に修正の変数を頭に浮かべセルフェスに意識を伝える指先に力が入った。
「崖の上のやつらも数が増えてるわ。隙を見せたら一気にくる。ミロ、もういいわ。あれを使えるか? アニタに連絡とれる?」
「うまくいっていれば今日調整運転するははずですわ。あれを使う気?」
サイトロンドームに設置された新兵装『インセクトディセプター』。あれは蓋外性生物の脳波を読み取り、阻害する空気波を発することができた。アルカナの立案した作戦では、インセクターの集落を発見したところで妨害空気波を照射し、行動できなくさせたところで一気に捕獲する計画だった。確かにパラボラアンプを介せば、遠く離れたここまで空気波が届くはずだった。インセクターの居場所がわからない以上、下位種を操っている彼らの脳波を妨害してこの包囲を抜けるにはあれを使うしかない。
「…………」
「バカじゃない? そうするしかないでしょ?」そういつもの繰り言を言ってくれるものと期待したマァイの表情は変わらず、通信がミロだけへの個別モードに切り替わった。
「逆に通信が入っていたわ。いい知らせと悪い知らせがあるけどどっちから聞く?」
マァイの声がワンオクターブ高く、二段階ほど口調も早くなる。ミロは敏感に、みぞおち辺りに砂を詰め込まれたように息苦しさを感じた。
これはマァイのいつもの笑えない冗談だ。きっとどっちも悪い情報に違いない。
――選ぶ意味ないですわ。
「いい知らせって?」
「アニタたちがセフィロトに向ったわ」
「悪い知らせは?」
「息を吹き返したサンプルが逃げて、サイトロンドームに被害が出たそうよ。少なくともディセプターは使えない」
「そんな……」
妨害空気波が使えない。アニタらがサイトロンドームを離脱したということは、アルカナを強制遮断したということ。すなわちそれは……。
「ミロ、それに他の者も聞いて、ここでアルカナを強制遮断して、ダアトを起動させて一気に離脱する」
中隊の中にいる黄昏団だけに向けた非情な個別通信だった。
「ほかのコたちを犠牲にするの?」
「…………」
マァイは答えない。
ヘリオスーツの機能を統括する基幹システムが遮断されれば、マニュアルに切り替えるまでスキが生じた。ダアトのシステムがインストールされたミロら黄昏団のメンバーだけにはスキは生じなかった。
後ずさりしたアンの肩が触れる。他の隊員もなすすべなく、浮き足立つ動きが手にとるように分かる。
犠牲になった亡骸を胃袋におさめたモールクリケットが、触角を激しく動かしながらこちらへの距離を詰めてくる。レーザプロセスの照準を合わせる者もいるが引き金を引くことができないでいた。圧倒的に不利な状況で、均衡を破るのが怖い。低いほうに水が流れ落ちるように、それは堰を切ればとめようのないものだとわかるからだ。
ミロは触れた肩の下、無意識にアンの腕を握った。アンはぎゅっと握り返してくる。
「大丈夫、マァイがなんとかしてくれるよ」そう強く言い返してきたように感じた。
マァイの言うとおり、この包囲を脱するにはダアトを使うしかない。目的を果たすためには、いかなる犠牲も払わなければならならない。でも。ミロは接触回線で声が聞こえてしまわぬよう、アンの手を離しマァイへの個別通信で話しかけた。
「マァイ。アルカナのシステムだけでも残せませんの? これじゃあ……」
「これじゃあ? って何? かわいそうとでも言うの? どの道戦えても、この数じゃあ遅かれ早かれ喰われるわ。ならせめて囮となってもらうほうがええんとちゃう? それにアルカナに動きを悟られる。何ために苦労してダアトをアルカナに介入させたの? サイトロンドームが無力化されたことすら、アルカナには悟られてないはず。さあ、ミロはやくして!」
「……そう! いいこと思いつきました! わたくしのセルフェスにディセプターのデータが残っているから、それを組みかえれば」
ミロのすがるような口調をマァイは乱暴に振り払った。
「そんな時間あれへんわ! どないしてん! さっきから!」
ミロはヘリオスーツの胸倉をマァイにつかまれ足が宙に浮いた。バイザー越しに見えるその表情は怒っているようには見えない。
「う、上――――!!」
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