第4章―5

 本日は日没までに、都市国家セフィロトの廃墟がある黒色針葉樹林地帯まで侵入してしまいたかった。セフィロトの廃墟は常時スイードを吐き出す黒色針葉樹にのまれていた。いつ蓋外性生物に遭遇するかもしれない慎重な行軍で、ミロは徒歩で進むことで推進ガスの消費を抑えることを提案した。濃いスイードによる障害によりサイトロンドーム以北は大型の機材は使えなかった。中生代には全盛だった飛行機も、上空が深いスイードの雲におおわれては、内蔵の精密機器が誤作動ばかりおこし使い物にならなくなって随分前から使用、開発が放棄されていた。

 中隊の先頭を行くマァイの逸る気持ちが、白いスーツ姿の背中越しにも感じられた。夜明けと同時に野営地を出発し進むと、荒野に散立するシダ類の樹木が現れた。

 マァイはマリーナの娘としてその優れた遺伝子を受け継いだただ一人の特別な存在。それに比べてミロは人工的に量産的に作り出され、たまたま生き残ることのできた存在。こけしのような頭でっかちの虚弱体質女にすぎない。

 二人に遅れまいと必死に後ろをついてくるアン。昨晩アンが言っていた「友達」や「いつも一緒ね」という言葉が、ミロの心の中でいつまでも心地よく響いていた。

 ――うん、それだけで充分ですわ。

 アルカナのマザーボードを発見して破壊する。本当の父親を見つけて、進化の選択権を自らの手に。選ばれた人間だけで生き残る世界に向けての第一歩をマァイは切り開こうとしている。

 ――わたくしも一緒に、でも足手まといにならないように、がんばりますわ。

「どうしたの?」

「落ちるよー。飛び越えちゃおうよぉ」 

 「あっごめん」とミロは心地良かった自分の意識を眼前に戻した。いつのまにか小隊の一番前にでた身体を、マァイの腕が掴んでいた。足元から小石が崩れ、カラカラと悲鳴を上げながら奈落に転げ落ちて行った。

 大地の端から端まで果てしなく続いている星の亀裂が、ミロの足下を横断していた。シダの潅木はそこで一旦途切れて、向こう岸では針葉樹が濃厚に黒く密集している。

「なんだろーね。ここ」

 アンが拾って投げた小石も重力に従い谷底へと落ちていく。無造作に投げ捨てられた小石が転がり、光が跳ねた。谷底には微かに小川が流れているようだ。

「マァイみてください。水が流れているみたいですわ。水質転換で飲料に使えるかもよ」

「そうね。降りるわよ」

 水は電気分解で水素を取り出すことができる。もちろん浄化すれば飲むこともできる便利な元素結合体だ。

 マァイがほんの少しスーツ内のヘリウム濃度を上げ、やわらかく滑空するように谷底に降りていく。アンら他の隊員もゆっくり谷底に降下していく。飛行制動がとくに苦手だったミロは、ヘリウム分圧を間違い、むしろ上昇するように渓谷の上にゆっくり漂い出してしまった。

 渓谷の先の針葉樹林は高木帯となり、黒々とした林冠を掲げ、油で汚染された海原のように広がっていた。スイードの靄がかった先に微かに見え隠れするビル群は、荒風に吹かれ頼りなく肩を寄せ合せ絶海の孤島のように佇んでいる。

 この海原の底のどこかにインセクターの集落があるのだろうが、ミロたちの目指すのはあの都市国家セフィロトの廃墟だ。行き先を欺くために、ミロはアルカナの情報網の中に、ダアトをシステムとして潜り込ませていた。もういつでも完全遮断、起動できるように慣熟させてある。いざとなれば各セルフェス内で完結する、スタンドアローンで運用することも可能だ。

 ミロは油断していると、身体が流されてしまうほど強い風を感じた。針葉樹の高木も風の流れに従い一様に同方向に身体を揺らしている。下を向くと、マァイが早く降りてくるように手招きをしているのが見え、同時にヘルメットに通信が入った。

「川の底にヘリオスーツのヘルメットが落ちていたわ! それにこれ普通の水じゃない」

「わかった! すぐ……」

 ミロは降下しようと前を向く視界の端に、ざわつく動きが映り、樹海のほうに頭を振った。風に従い同じ方向に揺れる樹木のなか、波紋のように逆に揺れる動きをする箇所がちらほらとある。いくつもの石つぶてを投げ込まれた水面のように、波紋はどんどん増える。森全体が揺れる。

 嫌な予感のしたミロはアルカナを再び遮断して、ダアトを立ち上げた。キベルに入隊して以来、研究開発班に配属されたアニタの協力を得て、各種の蓋外性生物の情報はダウンロードしてあった。高感度サーモグラフィを起動させると、森林は低温を示す青や薄緑のなか斑点のように黄色や橙色が浮び広がり、冷たい色を燃やし焦がすように蠢いている。

 ――やっぱり……。

 ミロは急降下しながらマァイへの通信回線を開いた。

「前方に! すごい数!」

 谷底に降りると、マァイは特段あわてる様子もなく、ミロに拾ったヘルメットをぞんざいに投げてよこした。これはこの中隊に属する物ではない。マァイの後方でアンは、自分のヘルメットの上から顔をおおうように抑えて小刻みに肩を揺らしていた。

「これは?」

「たぶん先遣隊」

 マァイは左足で忌々しそうに流れる小川の水面を蹴り上げた。水しぶきは激しくあがることなく、鈍く重々しくやっとのことで小さく跳ね直ぐに落ちる。液体金属の混じったような粘度の高い液体は、ドロドロと大地を溶かしながら進んでいた。おそらくこの渓谷もこの鈍飴色の液体が徐々に侵食することで形成されたものだろう。ミロはセルフェスでスイード濃度を測定した。

「一二五ラド!」

 ミロは叫びをあげ、全身を針で突かれているかのように身を縮めた。生身の人間の生体組織を、あっという間に死滅させるくらいの濃いスイードが谷底に充満している。数メートル離れたら無線通信も阻害されるだろう。これは降ってきたスイードが溶け込んだような生易しいものではなく、この水がもともとそれを含んで流れてきているものだ。

 ――いったいどこから? もしかして本当に、あの……〝生命の樹〟?

「そんなこと、どーでもいいの」

 パシリとヘルメットが叩かれ、マァイの声が接触通信で耳まで届く。知識欲の無限思考に入ろうとしていた、意識を力強く抱きとめてここに戻してくれる。ミロの悪い癖を、マァイはこうしていつも断ち切ってくれた。

「ごめん、わたくし水かと思って……」

 先遣隊もこの小川を貴重な水源と勘違いして谷底に降りたのだろう。そこに濃いスイードが広がっているのに気づかずに、そして自分たちのように蓋外性生物の群れに襲われてしまった。

「あんたのせいじゃない。それより、おでましだよ」

 マァイが指差した断崖の上に、無数の触角が蠢いている。立ち並んでいるのは、鮮やかな緑の細い上半身を持つ蓋外性生物だった。体長は二メートルを越えている。折りたたまれた鎌状の上腕を持っており、これに捕らえられたら逃げることはできない。マァイは部隊を密集させ、崖の上と睨み合った。

 ミロはダアトに内蔵されたインセクトサーチを起動させた。アルカナのそれより、彼らの詳細なデータを立体表示した。彼らは狩りに特化した蓋外性生物の固体だ。サーモグラフィからそれが何十体も森林内に潜んでいるのがわかった。

 アントやハニービーのように、進化の過程で、知性の前に社会性を獲得した種族は、群れを成して行動する。群れ全体があたかもひとつの生物を成すかのように活動し、全体の中で個の存在と価値は消失している。だがこのマンティスの固体は、身体に強力な武器を持ったことから、個体で生き残こることができる戦闘能力を持っていた。動くものは誰彼かまわず、同種を仲間と認識せず捕食する獰猛さもある。従い群れで行動することはありえない。この群れを操っているインセクターがどこかに潜んでいる。

「マァイ、操っているやつの居場所をサーチするから時間をかせいくださる? 密集隊形のままあっちの崖まで飛ぼう」

「逃げるのぉ?」とアンが不安そうな声を出す。いつの間にかミロが持っていた先遣隊のヘルメットをひろって大事そうに胸の前に抱えていた。

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