第4章―2
メインドームに戻ったカトレアは、直ちに中央府の元老院への出頭を命じられた。キベルで事情聴取されるよりも前に、アルカナが直接対話することを求めたからだ。スーツのオペレーションシステムのデータを提出し、昆虫の姿をした人間に保護されたこと、そして彼らは我々と同じ知性を持った人間であると説明した。自分は彼らに助けられここまで送り届けられた。
中央府の最上階の議会フロアのさらに上に突き出た先端に当たる部屋で、モニターに映し出されたアルカナの姿は、カトレアがセフィロトの廃墟の最深部で見た旧式の装置を同じ形をしていた。淀みなく人間を導く万能の神なはずであったアルカナが、話すカトレアを前にして思考が一瞬止まった。カトレアにとってそれが、十秒だったのか、一分だったのかわかからなかった。ただ、とても長い時間のように思えた。
沈黙の後アルカナはカトレアにこう命じた。
出身地であるケテルを離れマルクトに居を移すこと。
やがて生まれてくる子供を育て、必ずキベルに入隊させること。
「お前が出会ったのは神だ。私はその神をこのアルカナの世界の神の名と定める」
「そうアルカナに言われた。命令以外の記憶は消されたはずなの、それが今になって、なぜか思い出して……最後だからかしら」
呼吸器をして、途切れ途切れに語るカトレアの映像がセルフェスから浮かび上がる。
そして生まれたのがエイル・アシュナージ。
「どうしたの? 母さん。ほんとうにおかしくなっちゃったの?」
エイルが返事もくるはずもない立体画像に語りかけてしまうほど、カトレアの話はにわかに信じられるものではなかった。
マァイと決闘騒ぎを起こして営倉に入って三日目。サイトロンドームの施設をつかった超空間通信を使って、メインドームから、ところどころでうめくように歪む粗い映像が送られてきた。そこに映し出された母は、本当に苦しそうに時々息を喘がせてした。このあと母は眠るように意識を失ったという。
超空間通信は、スイードの濃度が薄くなる限られた瞬間をぬって送られてくる。その貴重な回線を使用して、特別にこの映像が届けられたということは、母の病状の深刻さを物語っていた。次はいつメインドームと交信可能になるのか? 今この瞬間にも母は亡くなってしまっているかもしれない。悲しいというよりも彼女から繋がれた鎖のようなものが、断ち切られるのかと思うとほっとした。
――わたし、性格悪い? ごめん。でもありがとう。
そして母はエイルに新しい繋がりをほのめかした。
幼き日に断片的に語られたドームの外にいる神の存在。それを探しに行きなさいと。
カトレアはその本物の神と出会い恋というものをした。
本物のアイン・ソフ神からこの命を頂いた。
――そんなことあるはずない。
でもチューブにつながれバイオ溶液に浸っていたあの生物は、形こそ少し違え確かに人間だった。それが、このドームの外で確かに息づいていた。
――この身体、やっぱり違うの?
幼い頃はチビと蔑まれ、突然成長しては羨まれ、好意を打ち明けられるようになる。
――皆見た目だけ……。
――恋って? 愛って? 何?
――好きって、アンが言っていたっけ?
アンはもうマァイら行動探索班とともにサイトロンドームの外へ行ってしまっていた。
――早く探さなきゃ。母さんが恋をしたという本当の存在を。でもその前に……。
営倉を出ることを許されたエイルは、ヘリオスーツの着装を済ませ、セルフェスに指をふれ予定を確認した。アンたち第302小隊は、昨日からサイトロンドームから北西十キロあたりの渓谷の探索に出ていた。直ちに合流の命令が下されると触れた指令のコマンドの立体アイコンが、アルカナに変わった。
「第302部隊アシュナージ隊員は『インセクトディセプター』装置のテスト起動に立ち会うこと」
アルカナの機械音声がし、エイルは夜営天幕から二百メートルほど離れたコンテナに目をやった。あの中には進化種がバイオ溶液の中捕えられていた。
――あの時、彼は助けてと言った。
灰色のコンテナが小刻みに震えているように見える。これから起こることにおびえているかのようだ。また微かな空気の揺れを感じ、エイルは声を聞こうと心を鼓膜の直ぐ裏側に置いた。
――だめ! やめさせないと。
アルカナに進言しようとセルフェスを見ると、割り込むようにサンディの顔が飛び出してきた。
「エイル! どこにいるの? 直ぐ来て!」
セルフェスが二つに割れるくらいの悲鳴が響き、ヘルメットのバイザーにその方向が矢印で示される。『インセクトディセプター』装置があるコンテナの扉が開き、ばらばらと人が吐き出されてくる。エイルは脚部のスラスターから推進ガスを排出させてコンテナの方に急行した。
エイルの他にも、何人かドームに残っていた行動探索班の者が、ヘリオスーツを着装しておりコンテナを取り囲んだ。サンディはコンテナの扉から地面にまろびでて、そこから遠ざかろうと必死に這いずった。エイルはサンディを抱き上げた。顔色は青ざめて生気を失い、何十歳も一気に老化したようなうつろな表情でエイルに助けを求める。
「サンディ、大丈夫? どうしたの?」
「ディセプターの調整をしようとしたら、あいつ突然目を開いて」
コンテナの扉から黒い陰が現れる。全身にちぎれたチューブを巻きつけつつ、ねっとりしたバイオ溶液に濡れたままの黒い身体は、光を反射しさらに光沢を増していた。コックローチの進化種とされる彼は、苦しそうに肩で息をしながら、コンテナの壁に手をつき二本足で立っていた。脳を破壊されていたのにもかかわらず、どうやって自己修復したのか、驚くべき生命力だ。ヘリオスーツの探索行動班数人が、後方でレーザプロセスを構える気配を感じ、エイルは右手を水平に上げそれを制止しヘルメットを取った。
「バイオ溶液の中に戻って。あれはあなたの身体を治すものだから、それにもうあんな苦しいことはさせないから」
言葉は通じるはずだ。
「アルカナ! 彼は知性を持った存在で、私たちと同じはず……。あんな拷問まがいの方法で、兵装の一部として使うなんて聞いていない! 捕虜としてあつかうべきよ」
その場にいたもの全員が、身体をのけぞらせるようにして息を呑んだ。全知全能の社会基幹システム・アルカナに抗議することの意味が理解できない。
アルカナにただ従うこと。自分は人間なのかどうか、そんな悩みもしない当たり前のことを誰だった疑わない。当然だと論理的思考サイクルの中で歯牙にもかけなかったものを疑えと言われたとき、人間は息をするのも忘れ唖然として止まる。頭の中で複雑に噛み合い、間断なく動く歯車に細い鉄の棒を差し入れられ、決して止まることのない回転を邪魔されたように。
「…………」
「どうしたの? アルカナ?」
……あの古ぼけたパソコンのアイコンが、セルフェスから立体化されない。
「エイル! アルカナがダウンしている!」
叫ぶサンディの声を合図に、歯車がまた動き出した。エイルが振り返るとアルカナにアクセスすることができず、皆小さな画面を覗き込んでいる。エイルはシステムをマニュアルに切り替えようとセルフェスの画面に触れ意識を送った。
不意に後ろから押しのけられ、身体が突き飛ばされた。ヘリオスーツを着装した探索行動班二人がエイルの前に進み出て、レーザプロセスをコックローチの進化種に向けた。
――そんなに早く完全手動にシステムを切り替えられるはずはない。
「なぜ?」といぶかりながらも、やめさせようとひとりの腕を掴んだ。エイルにかまわず彼女たちは銃撃をはじめた。着弾がずれて外れ、コンテナを焦がし煙が上がる。羽を広げ飛び上がった進化種は、銃撃を逃れようとドーム内をジグザグに飛行する。だが空気を吐き出しつくしたジェット風船のようにすぐ動力が尽き、迷走しながら地面に落ちた。追尾しようとして白い二人が飛び上がった。
走り出そうとしたエイルを、あの空気の振動が押し戻した。鼓膜を介して脳に直接伝わるのは、精神にまとわりつくようなただ憎悪に満ちた感情だ。続いて頭の中に声が響く。
「食らえ! 喰らえ! クラエ!」
コックローチの進化種は、迫る二人の銃撃を避けようと必死に飛び上がった。その度に、足を何か杭に糸で結わいつけられているかのごとく何度も地面に叩き落ちる。逆に不規則な動きが予想外なのか、銃撃は全て逸れて彼は野営天幕の中に逃げ込む。
ヘルメットをかぶり、セルフェスを完全マニュアルモードに切り替えたエイルは、飛び出そうと上を見たとき、ドームの外壁に張り付く黒い塊を認めた。
あれは、メインドームを襲ったコックローチの群れと同じだ。
そう思うのと同時に、穴が開いた黒い塊が天井から粒飴玉のように落ちてきた。進化種が呼び寄せた下位種のコックローチが全てを喰らいつくそうとする。ヘリオスーツを着た探索行動班の戦闘員はエイルを含めて何人かで、サンディら非戦闘員はスーツすら着装していない。
野営天幕の中まで追尾し火炎放射を使ったのか、宿営から炎が上がった。こちらに向ってくると身構えたコックローチが、なぜか天井からバラバラと炎の中に落ちる。外にいた個体も三々五々飛び去って行く。メインドームが襲われた時と同じ、それは進化種の支配下から外れた動きだ。
炎に包まれた野営天幕から、ヘリオスーツの二人が出てきた。いつの間にかヘリオスーツを着装した十人ほどの人だかりが二人を囲んでいた。その中には体格で分かるひときわ太いアニタがいた。アニタは太い身体を両側の二人に支えられ飛び立った。彼女たちはコックローチの開けた大穴からサイトロンドームの外に次々と飛び出した。
「エイル! 隔壁を閉鎖するわ! 炎のほう御願い!」
サンディの声でエイルは我に返り「わかった」と叫んだ。
燃えやすい天幕に次から次へと炎が燃え移り、延焼を防ぐことはできなかった。野営天幕は全焼し、隊員たちの私物は灰になってしまった。サンディが機転を利かせ、素早くドーム上層部を仕切る隔壁を閉鎖したため、気密は守られた。食料と水の備蓄庫、混合ガスユニットと小型核融合炉のある区域は幸い無事だった。人員にも被害はなかったが、アニタらケテル出身者九人が離脱してしまった。アルカナの応答はなく各個セルフェスを完全マニュアルモードに切り替えた。メインドームと連絡をつけるためには、超空間通信機を使わねばならず、サンディによると設定をマニュアルに変えるにはかなり時間がかかるということだった。
エイルはアルカナが反応しなくなった時のことを思い出した。キベル特別区での初めての演習の時、あの時ミロはセルフェスの操作に集中していた。離脱していったアニタも同じだった。
――まさか……彼女たちが……。マァイの言っていた……。
全焼してしまった天幕の残骸から、コックローチの進化種の遺体が発見された。野営天幕に備え付けられていたユーグレナ燃料に引火した高温の炎は、彼のクチクラ層の外皮以外を黒く煤でおおい原型を分からなくさせていた。柔らかい頬の肉が爛れ落ち、中からのぞいていたのは自分たち人間のそれと同じ骨格だった。
「これ、どうする? ここまでだと研究サンプルとしても使えないわ」
他の黒こげのコックローチの死骸から立ち込める酸鼻な臭気に、サンディは鼻をつまみ露骨に嫌な表情をして進化種の遺体も〝これ〟と表現した。
「どこでもいい。彼を土に弔ってあげて」
サンディはエイルの発言の意図が分かりかね、「彼?」と問い返しながら、錆付いたねじを回すようにゆっくりと頭を振った。エイルはサンディの不思議がる顔を見ることなく続けた。
「彼のまとわりつくように増幅された憎悪の感情が胸にからみついてきたの。恐れが憎しみに昇華してそうなった。それはもしかしたら遠い昔、私たちのせいでそうなったかもしれない。姿は違うかもしれないけど、彼は人間よ」
「彼? 人間? 〝これ〟が?」
アルカナに支配されたドームで暮らす人間に、その二人称の表現はない。だがエイルは母が使っていたその表現こそ〝彼ら〟に相応しいと感じていた。
「そう。彼よ。姿がちょっと違うだけで、感情があるのはわたしたちと同じじゃなくて? 御願い。サンディ」
ヘルメットを取った真剣な目に、サンディは戸惑いながらうなずいた。
エイルは「ありがとう」と微笑むと地面にそのままゆっくりと腰を降ろした。頭が鉛の帽子を被らされたように重い。エイルはスーツの力で立っていたのがやっとだった自分に気づいた。
「エイル? 大丈夫? 顔色悪いよ」
「ごめん、営倉から出たばっかりだから」
エイルは心配そうに見つめるサンディに返した笑顔をそのまま上に向けた。
透明な隔壁の先、風穴を開けられたサイトロンドームの天井を見つめた。
ぽっかりと開いた穴。そこから見えるのは日が昇りつつある雲の波。
エイルは自分と胸に手を置きながらひたすら遠くを眺めた。そこにあるという自分のルーツ。神というもの。そしてあんな穴がこの胸に開いてしまわぬように、いつもそばにいてくれた存在を思い出した。
「アンコ……すぐ行くから」
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