第4章―3

 アン・コモリは目を開いているかも分からないくらいの暗闇のなか、あちこちで眩い花火が上がるのを見上げていた。蓋外野営用の簡易ドームを張るために打ち上げられた曳航弾の花が開き、アンのすぐ頭上で炸裂したそれはキラキラと周囲を包んだ。アンたち三人を取り巻くように舞う発光性の粉末が、やがて結合し半径三メートルほどのお椀状の小さなドームを形成した。ドームを構成する発光物は、段々鈍く輝きを落とし濃い燈色へと変色した。

 蓋外性生物の複眼には見えない赤色に変化したそれを確認して、気が抜けたアンは、バックパックを降ろして地面にへたり込みヘルメットを取った。

「まだ早いですよ」

 ミロにいさめられ、あわててもう一度かぶりなおす。

サイトロンドームを出発した五小隊からなる中隊編成の第一次遠征隊は、日没を迎え野営準備に入った。いつ蓋外性生物が襲ってくるかもしれぬ恐怖と戦いながらの、気の抜けない索敵作業が神経をすり減らし、アンは装備を脱ぎ捨てて寝転びたい衝動にかられた。

 ミロはバックパックから、トイレの芳香剤のような形をしたユニットを取り出した。ボタンを押すとその場でクルクルこまのように回転し、簡易ドーム内のスイードを回収し始めた。同時に内蔵された高密度脱酸素剤が余分な酸素分を吸収する。マァイは酸素濃度の低下を確認してから、火をつけた古風なバーナーをドームの中央に置いた。揺らぐ自然な炎をみていると気分が落ちつく。アンは危険な物質が除去されたことを確認してヘルメットを取った。淡々と野営準備を進める二人を手伝わないと……その意識も疲れから炎と同じように揺らいで、三角すわりの身体も揺れた。ゆっくりと落ちてくるまぶたを、今のアンは押し上げられなかった。

どれくらい眠ったのだろう。

 戻った意識を辿りながら恐る恐るゆっくり瞳を開くと、バーナーの小さな炎の向こう、マァイがヘリオスーツのままこちらに背中を向け直接地面に横たわっている。マァイはメインドームを出てから、ほとんどの時間をスーツ着装のまま過ごしていた。全身を包む窮屈な空間に、アンのちいさな身体は節々がきしみ悲鳴を上げていた。それを何の苦もなく続けることのできる屈強な体躯と環境に左右されず休みをとることのできる強靭な精神。自分にはない両方をもつマァイのことをアンは素直に羨ましく思う。

 ――あたしも、あんなだったら……。でも、あのコ、性格悪いけどね。

 クスリと笑いながら頭を振ると、アンの左でミロも三角座りで揺らぐ炎を見つめていた。

「起きました? 栄養をとってくださいね。明日は足手まといになったら、本当に置いていかれちゃいますわ」

 アンはあわてて笑顔を隠す。ミロがアンの方を向いた動きで気流が乱れ、バーナーの炎が身震いするように踊った。炎の薄ら灯りに照らされ、メガネの奥、瞳の下にはうっすらくすみが浮び、白いキャンバスを汚しているようだ。アンと同じような上背で、さらにそこから肉の落ちた痩身のミロが、今日の行軍で疲れていないはずがない。

 そんなことを心配しても、「あなたこそ大丈夫?」と切り返されるだけだろうが。

 セルフェスで時刻を確認すると、野営を開始してから三時間近くが経過していた。揺らぐバーナーの炎の燃焼は、ドーム内の酸素濃度が異常になっていないかのバロメーターになった。アルカナの監視モードを起動させればいいようなものだが、「こうして炎をみているとなんだか暖かくて落ち着かなくて?」と再び炎のほうを向いてミロは言う。見張りは一時間半ごとの交代のはずで時間はとっくに過ぎており、アンを起こさずにミロはじっとこの炎を見つめていた。気まずくなりアンはわざと大げさに身振り手振りを加えた。

「あぁ! 交代の時間、とっくにいいぃ!」

「ゆっくり休めた? て、言ってもこの格好じゃね。ご飯食べなさいよ。もう少し起きていてあげますわ。明日動けないって言われても、足手まといになって私たちが困るんで」

 ミロがスーツに首を埋めて、吸った息を吐き出す。その勢いで炎を消してしまわぬようにゆっくりと。

 いつもは慇懃無礼で不快になる嫌味だが、心の奥底でこのコは、本当はそうは思ってはいないのではないか? アンはキベル寄宿舎のニトロバーで初めて出会ったミロが、楽しそうに話を聞かせてくれたことを思い出した。

 ――もしかしておしゃべりなのかなぁ。

「うん」と言ってアンはバックパックからレーションの入っていたフードバケットを取り出した。固形食の横に詰め込んだ大玉の飴玉を、「はい」とミロの視線にかざした。アンがエイルにいつもそうするように。

「いらない」

 ミロはエイルと同じことを言う。

「ほら、こうやって」

 アンがリボンのような包み紙の両端を引っ張ると、中心で大玉が回転し、バケットの上に中身が落ちた。山吹色と水色が勾玉のような形で交じり合った飴玉を、ひょいと掴み口に入れる。アンの右頬が、食べごろの焼餅のようにぷっくり膨らむ。

「甘いよぉ。早く手を出してぇ! 早くぅ」

 アンの勢いに負けて、ミロは恐る恐る右手を差し出した。アンが両手で引っ張った包み紙から、飴玉が手のひらの上にポトリと落ちた。水色と山吹色の配色が、アンの食べたのと逆。間近で見つめるアンの瞳の瞬きに、引っ込みがつかなくなったのか、ミロは目をつむり飴玉を投げ込むように口に放り投げた。

「…………」

「…………」

 今度はミロの左頬に、ぷっくりとお雑煮にいれるようなお餅ができた。

「あ、あ、あ、あ、あま――――い!」

「でしょ! でしょ! でしょ! でしょ! でしょ? 新発売のバナナアイス味はなかなか手に入らない代物だからぁ」

 水分を飛ばしてぎゅっと固めた砂糖と水飴に、濃厚なカラメルを練りこんで味付けしたマルクト製菓の飴菓子職人の最高級の一品だ。

 うんうんうんと何度もうなずくアン。ミロはずれ落ちたメガネの傾きを直すことなく、呆けながらも一心不乱に舌で飴玉を転がしていた。

 段々小さくなるにつれて口の中に広がる甘色に浸りながら、お互い無言で、それでいてほんのり頬は赤らんで。

 ――ちょっと変わった人たちだけど、あたしたちと同じ人間。うふふ。

「こんな甘いもの食べたのはじめてですわ。ありがとうコモリさん」

 幼いころからミロは、ケテルの自治組織から配給された無味乾燥な栄養食品しか口にしたことがないという。キベルに入隊して職務をこなすため、特殊な訓練を受ける施設で育って母親の顔も知らない。バケットから飽ききった味のする固形食を取り出し食べながらどんなに頑張っても、アンはその生活が想像できなかった。

「まーまーまーまー。そんな堅苦しいこと言わずに、アンコでいいよ! あ、ん、こ」

「あんこ?」

「そそ。超絶の甘さの塊。私みたいだって皆言う魅惑の食べ物よ。アルカナに帰ったら一緒に食べに行こうよ! きっとミロやんもあたしみたいにあんこになるよぉ……ぐふふ」

 ミロは笑いと困惑の感情が浮んで、表情が割れそうになっている。それにかまうことなく「他にもね、他にもね、これにつけるジャムとかね……」と甘味大王の異名をとるアンの甘勇者列伝はとまらない。

 ――つかみはOK。

 実はアンコと呼ばれるのは初めのうちは本意ではなかった。トーラーに入学し、教室でアン・コモリの名前を呼ばれたときに、クラスの悪ガキ女がアンコだ! アンコ! と叫んだ。色白でぽっちゃりのアンのもち肌は、割ると本当にあまぁいあんこが出てきそうでおいしそうだった。恥ずかしくて涙がでそうだった。

「あんこじゃないもん!」

 でも極甘のあんこの入ったお饅頭を食べたら、アンも誰でも自然と笑顔になる。

「アンコって呼んでね!」

 そういうと初対面のコでも自然と笑顔になり、仲良くなることができた。

 ――あたしはあんこ。

 でも、本当はちゃんと名前で呼んで欲しい人がいる、

 ――エイル。今どこでどうしているだろう。

「……あんこも飴玉もこんなに美味しいのに、エイル食べないんだよー」

 アンはエイルがここにいたのならと、自分の右側の空白地を頭の動きでなぞった。三日間の営倉入りの処分を受けたエイルはこの遠征には帯同していなかった。

「何があったのか分からないけど、エイルはミロに感謝してたよー。止めてくれたって」

「いつも一緒。あなたたち友達ですの?」

「うん」

 ――友達……。

 キベルに入隊してからエイルと離れ離れになるのは、これが初めてかもしれない。

 揺らぐちいさな炎をアンはただ見つめた。

 エイル親子は、マルクトの同じ高層共同住宅でアンの家族の三軒隣に住んでいた。病弱でセーフネットに頼り、陰気で自分のことばかりしゃべる。そして再婚もしなかったエイルの母親は、共同住宅の主婦仲間からは害虫のように忌み嫌われていた。

 アンと同じようにちょっと天然で、かなり天真爛漫なアンの母たちは、エイルの母カトレアとも分け隔てなく、むしろそれ以上に接した。

「えー、アシュナージさんもお子さんいらっしゃるのー? 今年五つ? うちのアンとおない年じゃない。いい友達になれるわぁ」

 夕食のおすそ分けにと訪問した母の後ろに引っ付いて行ったアンは、半開きになったドアの奥、カトレアの後ろに縋る少女? を見つけた。

 アンよりずっと小柄で、華奢で折れそうな手足は長く、小鹿のように可愛らしく潤んだ瞳で様子を窺っていた、本当にあたしと同じ年なの? と思った。

 母親同士が他愛のない雑談を交わす中、少女は、子供を見るのが珍しいのかじっとアンの顔を見つめていた。痩せてくぼんだ瞳は潤んで、泪を湛え深い深い湖の底のように蒼い。それがこぼれ出してしまわぬように、両手で包み込み守ってあげたいとアンは思った。

 共同住宅の中庭にあった公園にその少女を連れ出すことに成功したのは、それから一ヵ月後のことだった。

 部屋の中でのままごとではいつもアンがお母さんで少女が娘役。少女はいつまでたっても名前を教えてくれなかった。母から名前は聞いていたが、どうしても彼女自身の口から聞きたかった。役柄がいつも同じのままごとにもいい加減に飽きたころ、公園で遊ぼうと誘った。頑なに首をふる少女に「公園に行くか? 名前を教えるか?」と半ば強引な二択をせまっても、彼女は公園を選んだ。

 泣きそうな顔で手を引かれ階段を下りる彼女に、階段の踊り場で立ち止まって、「嫌なら無理しなくてもいいよ」そんなニュアンスのことを言ったと思う。握り返す手にぎゅっと力が入り、やっぱり引き返すのかとがっかりしたアンを少女は裏切ってくれた。

「わたしエイル。やっぱり君となら行ってもいいかな」

 アンなら一人でスイスイ乗り越えられる遊具も、身体の小さなエイルには一苦労だった。両手を引きやっとのことで二人上りきったジャングルジムからの風景に、エイルに笑顔が燈った。険しい岩場に立つ若鹿のようなその凛凛しさは、今と変わらないもの。

 いつのまにかジャングルジムの下には、身体の大きな子供たちが集まっていた。アンよりも学年が上で、もうトーラーに通っている上級生たちが、エイルをはやし立てた。

「あいつ、あんなところに上ってるわよ!」

「ひとりで降りられないんじゃないの?」

「出てけって言ったのに。『片親チビのエイル』やーい!」

 エイルの表情がひきつり、皮がむけるように笑顔が引き剥がされてひらひらと地面に落ちた。共同住宅の子供たちの間で噂になっていたのは知っていた。片方の親しかいないチビが最近公園で一人遊んでいると。その噂がアンの耳に入るころには公園にそのコの姿はなかった。

 エイル。そういえばそんな名前だったのかもしれない。だから、あんなに名前を教えるのを嫌がって。アンはバランスを崩してそこから落ちることを厭わず、ジャングルジムのてっぺんに仁王立ちになって叫んだ。ドーム全てに響けといわんばかりに。

「エイルは私の友達なんだから――! あんたたちこそあっちいけ――――!」

 アンの中でエイルは、庇護する娘から友達に、そしていつしかそれ以上の存在になった。

 トーラーに入学し高学年を迎えるころに突然身体が大きく雄々しく成長したエイルにアンは恋焦がれた。溢れる清水を深く湛えた湖の底から取り出した宝石は、自分が最初に見つけたものだ。小鹿は立派な若鹿に成長し、それでいて小鹿の可愛らしさはいつまでも失われていない。

 ――あたしのものなんだから。

「うん。友達かな」

 随分たってから沈黙をやぶりそう返事した。

少なくとも今のエイルはそう思っている。

 ――それはちょっと残念だけどね。

「ミロもいつも二人一緒じゃん。いいなぁ」

 三角座りの膝の上に重ねた腕を置き、丸い笑顔を転がした。二人の視線が先ほどから動かないマァイの白い背中に注がれた。

「彼女は特別なの。わたくしはマァイをサポートするためだけにここにいる」

「どういうこと?」

「本当なら、足手まといになるだけだから」

 ミロは悲しげに翡翠のように瞳でただ自分のセルフェスを見つめていた。これ以上は入ってはいけない立ち入り禁止のテープに遮られたように感じ、アンはそれ以上聞くのをやめ話題を変えた。

「あ! ごめん! 見張りかわらなくちゃね。ささ、早く寝てくださぁーい」

「…………」

 わざと明るく響かせたアンの声を打ち消すように、ミロはゆっくり頭をふった。

「いいですわ。寝られなくて」

「どうしてぇ?」

「あとどれくらいこの世の風景を見ていられるかわからないと思うと、何だか寝れなくて。なんてね……」

 無理やり作った笑いが疲労で引きつる。

「どうしてそんなこと言うの? ちょっとおっきな虫を捕まえるだけでしょ? お薬ができたら皆外に出られるって、そうでしょ? 違うの?」

「ほんとにそう思う?」

 ミロはメガネを取りアンのほうを向いた。

「もし、ご自分が人間でなくなったらどうなるか、考えたこと、あって?」

 アンは背中を伸ばして激しく首を振る。

「難しいこと、アンコわからんよー。でもエイルがいつも言ってる。見た目じゃなにもわからないって。みんな同じ、おんなじ人間。見た目が違うだけ……」

 二人とも三角座りの同じ姿勢のまま沈黙が流れた。

 やがてミロが誰に聞かせるふうでもなくひとりごちた。

「そう……そうかもね。アンコ。ありがとう。もし、もしですわ。わたくしたちだけで行くことになったら……一人でもサイトロンドームに戻って」

 アンは再び襲ってきた睡魔に意識を連れ去られた。何か喋っているミロの姿が、遠く彼方に沈んでいった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る