第3章―6

「進化種じゃないの? どうしてここにあるの? あなた何をしているの?」 

 エイルの問いかけを無視して、女は自分のセルフェスに表示される文字列を見つめていた。文字列の動きが止まったところで画面に指を触れた。女の意識が伝わり、エイルは辺りの空気が振動したように感じ水槽を見た。進化種は身体に電流が走ったようにビクッと一度痙攣した。

「ち、ちょっと! 苦しんでいるんじゃないの? やめなさいよ」

 どっしりと質感をもって座った女は、エイルの言葉を聴かない。女が指先から意識を送ると、進化種が腰の辺りを支点にしてバタフライを泳ぐように身体を何度も折り曲げ伸ばした。エイルは空気の振動が強くなっているのを全身で感じた。その空気の波が耳の中に入り鼓膜を揺らして言葉をなした。

「……た、たす、……助けて」

 またはっきりと聞こえた。これは苦しみ助けを求める声だ。

「鳴いた! こいつこの波長か! は、はやくダアトでダウンロードして……」

 女は丸い身体を手鞠のようにしてその場で小さく跳ね、ブツブツ言っている。

「助けてって言っている! やめろ!」

「こいつが? 感情を持っている? キーキー言っとるだけでしょ。けけけ。遺伝子が同じなだけで、こんな姿、人間じゃない!」 

「やめろ!」

 エイルは腕を振り落とす手刀打ちを、女の手首辺りに入れた。女が持っていたセルフェスが床に転がって、生命維持装置と繋がっていたリンクが外れた。その一瞬の間に、エイルの鼓膜を振動させていた空気の動きはもうなくなっていた。バイオ溶液の中の進化種は、ただ目をつむり動かなくなり浮かんでいた。

 舌打ちをしながらエイルをにらむ女の目は、白しかなかった。どこを見ているかわからない視線に、エイルは一瞬身体の力が抜けた。ヘビににらまれた弛緩して蛙のように柔らなくなった身体に、女は叫びながら巨躯をぶつけて来た。

 踏ん張ろうとするのも遅く、エイルの身体は質量をまともに受け、コンテナのドアを背中で突き破った。外に転がり出て仰向けに倒れても、女は白目のまま尚もあの引きつる笑いをしながらエイルに圧し掛かっていた。三桁はある体重を不意にまともに受けて、もしスーツを着装していなかったらどこか身体に不調をきたしていたに違いない。

 抑えつけられながら頭を振ると、テントの方向から人がこちらに向って飛び出してくるのが見えた。ヘリオスーツを身に付けた人間が、スラスターを使った最大出力でこちらに接近してくる。騒ぎを聞きつけたマァイだ。

「アニタ! すぐに戻ってサンプルを安定させろ!」 

 赤色灯に照らされたマァイの横顔は、昼間のそれと変わらず無表情で冷静だった。エイルなどいないがごとく、マァイはアニタとかいう太った女の腕を引いて立ち上がらせた。アニタは黒い瞳を戻し、我に返ったのか息を切らせてコンテナの扉の方に戻った。

 エイルはもったいぶるようにゆっくり立ち上がりながら、マァイの顔に視線を向けた。二人とも首から下、ヘルメットを置いてヘリオスーツを着装していた。エイルに見られているのが分かっているのに、マァイはエイルに横顔を向けたままコンテナの方を見ていた。鈍赤色の照明があたっても左の頬は小さな影もできることなく、傷だらけだった身体や右頬とは対象的に、肌は鳴砂が広がる海岸ように澄んでいた。微かに口元が動きマァイの身体の重心が右に寄ったのがわかる。次の瞬間、勢いをつけて飛んできた右フックの拳を、エイルは左の二の腕を盾のようにして受けた。骨同士がぶつかった衝撃が、ヘリオスーツの緩衝機構越しに伝わる。

「さすがね」

「いきなり何すんの?」

 突然殴りかかられて、エイルは感情を口調で表した。マァイは拳を降ろした。

「アニタがあんな風になるなんて、彼女が好きなことを邪魔された時だけ、それも強引にね」

 マァイは強引という単語を発する時に、強引に眉を曲げた。

「あんたこそ乱暴したんじゃなくて?」

 自分は見回りの任務についていた。あのアニタという女はどうやったか、アルカナの指示も受けずに行動していた。それに助けを求めた進化種、いやインセクター ――いわば捕虜のようなもの――に対して拷問のようなことをしていた。人間としてそれは許されることではないことをエイルは、中生代からの人間の歴史で知っていた。

「確かに彼女の手を打ったわ。そしてベッドに帰るように命じた。手を出したことは謝罪する。この時間に機材に立ち入ること規則に反する……」

 しゃべり終わらないうちに、エイルの鳩尾にマァイの拳がめり込んでいた。

ヘリオスーツのブースターを使ったダッシュに、受身が間に合わない。

スーツの性能でダメージが軽減されても、臓物が揺さぶられる。

それが元の位置に戻るまでの時間、エイルは呼吸できなくなった。前かがみになった身体を、マァイは抱きしめるように耳元まで顔を近づけささやく。

「夜を徹して兵装の調整をする何が悪い?」

 エイルは、こめかみ辺りから発した汗が頬を伝うのを感じた。揺さぶられ悲鳴を上げた臓物が、吐き出した何かが滴るように。エイルは鳩尾にめり込んだ拳を掴んで、引き離し手を上げさせるようにした。

「兵装? あれは生きていた……」

 マァイはもう片方の手を組んで二人は力比べするような形になった。

いつのまにかテントから起きだしたキベルの隊員たちが、突然始まった見せ物を興味深そうに取り巻き見物していた。

「生きていた? そうよ、急所ははずして生きたまま捕らえたのよ。兵装のシステムの一部に使うためにね! もちろんアルカナの指示よ!」

「助けてと言っていた! 捕虜の扱いとしてあれはおかしい!」

「捕虜? アホやろ?! 人間とちゃうやろ!! 遺伝子が同じだけで!! あんなになってもキサマは生き残りたいんか!!」

「何をわけのわからないことを!」

 野次馬がやんや、やんやと喝采を浴びせる。

「エイルやってー!」 

「エイルかんばれー!」 

「いつも偉そうにして!」

 自分にばかり浴びせかけられる罵声に反応したのか、マァイのこめかみには青大将のような血管が浮かぶ。

 舌打ちが聞こえたかと思うと、左のくるぶし辺りに衝撃を感じる。上半身にばかり注意が行っていたエイルは、足を掬われ空中でおさえつけられるようになって後頭部から落ちた。ヘルメットをしていないむき出しの頭を、受身も取れず地面に打ち付けられ、脳震盪で一瞬目の前が真っ暗になる。

 薄れかけた視界を無理やりに戻すと、マウントをとったマァイが拳を握り締めていた。エイルは懸命にしゃべった。

「どうしてあなたはいつも周囲に敵意を振りまいているの?」

「…………」

 マァイは無言のまま弓矢を引き絞るように、右の拳をゆっくり後ろに引いた。

「言いたくないことは言わなくていいわ。考えていることはちょっと違うかも知れないけど……。わたしたちの目的は同じじゃない? それに私たち同じ人間でしょ?」

 限界まで引き絞られた矢が放たれ、エイルの頬を掠めて拳が地面に突き刺さった。振りかぶった動きで、密着していた身体との間にできた隙間に、エイルは膝を入れて浮かせ右足で跳ね上げた。

 巴投げのように投げられ宙に浮いたマァイの身体が、ふわり風に吹かれた木の葉のようにひらりとさらに浮き上がる。マァイはアクロバットのように宙返りして地面に着地した。

 ヘリオスーツの機能を完全に使いこなしているマァイの技量に感心しながら、エイルも立ち上かった。先の一撃も当てる気はなく、わざと頬を掠めるくらい鋭く正確だった。

 ――面白い。

 トーラーの高学年になって、突然身長が伸び始めたエイルの体力はそれに比例し、あらゆるスポーツ競技の授業で自分に敵う者はマルクトにはいなくなった。マァイとはわくわくするような組み手ができそうだ。

 野次馬たちも息の詰まる二人の攻防に、声を上げるのを忘れ観戦している。エイルは右足をゆっくり引き、重心をそこに置いた。自分の間合いをつくるマァイの構えに隙がない。

 野次馬の中から一人進み出たミロがマァイの方に歩く。小柄なメガネ姿を認めたマァイは構えをといた。マァイは右拳を痛めたのか、左手でそこをかばっていた。

「はーい。皆さんもうおしまいですよー」

 ミロが大きな声を出すのは初めて聞いた。周囲の注目を引き、野次馬に野営天幕に帰るように促した。「これ以上皆で騒いでいると、全員営倉行きなりますよー」と彼女は自分のセルフェスを掲げた。

 野営天幕に向ってミロと歩くマァイから少し離れて、エイルの歩みは無言だった。少しずつ足の運びを緩めて、二人との距離をとった。天幕に二人が入るのを確かめて、エイルは入り口で立ち止まった。あの太った女の姿が見えなかった。コンテナの方を見たが、あの空気の振動はもうない。

 野営天幕に入ると、エイルの隣のベッドではアンが寝相悪く、蹴り上げたのかシーツが床に落ちていた。ピンクのパジャマがはだけて、お腹が丸出しになっている。下に着ているキャミソールまでめくれ上がっているのは、いったいどういう動きをしたらそうなるのか。サイトロンドーム内の空調は二十度に設定されていた。エイルはお腹を隠し、拾い上げシーツかけてあげた。このままでは風邪を引いてしまうかもしれないから。

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