第3章―3

 今朝方、アルカナから受け取った駐屯地への緊急辞令にマァイ・ヴァジャノーイは、ついにと大きく鼻から息を吐き出した。明日の着任を前に、マァイはケテル代表の元老院委員マリーナのもとに向っていた。中央府の貴賓エレベーターがあがるにつれて、キベルの寄宿舎がある特別区は遠く小さくなる。欠員の生じた駐屯地サイトロンドームは、セフィロト探索のための前線基地で、マァイたちより一年先に入隊した先輩たちが詰めていた。

 中央府はチェスのキングの駒のような形をしており、頭頂部に近い五十階は、とがった三角錐の建造物の頭部となって膨らんでいた。その階の中心には、十人の地区代表者から構成される元老院の会合が持たれる会議場があり、それを丸く囲むように各代表の執務室が存在した。会議場のさらに上は、アルカナへの謁見室となっていた。中央府の頭頂部はドームの天井と繋がっており、そこから突き出たアンテナはドーム内外にアルカナの支配を発信していた。

 元老院ではアルカナからの指示を形式上議論するわけだが、考えることを放棄した人間は承認することしかしなかった。マリーナがケテルの代表に就いた頃から、自らが発案したことをアルカナに具申するようになったという。初めは却下され続けた意見も、なぜかあの十五年前の大襲撃以来拒否されることは全くなくなった。

 次第に頂上に近づき、マァイは生まれて初めてドーム国家・アルカナを足元の下におさめ全てを見下ろしていた。ゆっくり上昇するエレベーターがシースルー構造になっていることで、マァイはその風景を堪能することができた。

 はるか北西、天蓋の外の濁った雲の下には都市国家セフィロトがあった。ドーム国家・アルカナが建造される昔の話、その祖先となる人間は都市国家セフィロトで生活していた。世界中から自ら隔絶していた鎖国都市国家セフィロトは、大破壊の滅亡からも忘れ去られ生き残った。本当に取り残された人間たちは、一基残された核融合炉から無限に供給されるエネルギーを抱えつつ途方に暮れた。そこに突如意識を持った社会基幹システム・アルカナが発現し、来たる未来を予見し人間に生き続ける指針を与えた。

 破壊された全世界の瓦礫から発生した粉塵が降り注ぎ、都市国家セフィロトの地表部も地下に埋没するだろうとアルカナは予言した。今このドームのある場所は、地下の高速軌道ラインで繋がる都市国家セフィロトからは離れた衛星リゾート区だった。星の気流の渦巻きは、そこではエアーポケットをつくり物理的な降下物も当初はまだ少なかった。アルカナの指示によりそこに移住した人間達は、次なる予言に耳を疑った。

 人間の横暴を憂いた星の意思がある一本の樹に力を与えた。人間に憎悪を募らせたその樹の力により植物は、人間を排除するための悪魔を大気に放つだろう。それを防ぐための屋根をつくるのだと。そのスイードと呼ばれた悪魔は、中生代に人間を悩ませたアレルギー症の原因となった花粉に似ていた。だがその致死的な有害さは比較するレベルを超えていた。

 人間達は身を守るドームの建設を開始し、終わりなく降り続くその悪魔に対抗するすべを完成させた。ドーム国家アルカナの黎明期、その塗炭の苦しみの時代で弱い人間は淘汰されて数を減らした。その時代の記録は少ない。

 今もドームを支えている核融合炉とアルカナのマザーボートは、まだ都市国家セフィロトの地下に残されている。地下軌道に沿って引かれたエネルギーと通信のケーブルで、ドームとセフィロトの地は繋がっていた。地上のスイードが濃くなり、ドーム外に人間が簡単に出られなくなると、アルカナは高速軌道ラインを使って地下からそこに人間が立ち入ることを許さなくなった。ただ崇めるべき存在とアルカナが規定した、アイン・ソフ神から命を授かるという目的以外には。

 わずかに左手に頭を振ると、中央府に続く高さを持つアイン・ソフ神の彫像が見えた。

 黄昏団での研究で、アイン・ソフ神から授かったと言われる次代の命は、遺伝子上固体固有部分の半分は、母親と違う様々な塩基が使われていることがわかった。

セフィロトの地下から、自らと同じ性の赤子を抱えて帰った者の記憶は、アルカナによって完全に消されていた。だが必ずそこで、〝特異性〟を持った存在から遺伝情報を受け取っているに違いなかった。それがアイン・ソフというアルカナが定めた神などではない。それらは我々と同じように隔離されて生きているのかもしれない。

 マァイは、「昆虫に似た蓋外性生物の進化種、昆虫人(インセクター)は自分たちと同じといえる遺伝子構造を持っている」とアニタの言葉を思い出し、首を激しく振った。

 十五年前のキベルの設立前、アルカナは人間たちに生き続けるための次の指針を示した。前段で告げられた事実にまず各地域代表は慄いた。

「ドーム外壁のスイードに対する耐用年数はもう数十年もない」

 スイード性のタンパク質は無機物の分子構造すら破壊していた。

 滅亡から逃れるためには、蓋外性生物のようにスイードに対応できる生物の姿に進化するしかない。人間の姿を捨てる覚悟を迫られ、うろたえるしかない各代表はこの事実を一般市民には隠蔽するという判断くらいしかできなかった。ケテルではアルカナが隠す様々な矛盾点を詳細に解析しつつ、そこからシステム的に隔離する方法を徐々に構築し始めていた。この事実に、マリーナはケテル単独の組織〝紅の黄昏団〟の設立を決意した。

 ひとつ、アイン・ソフというありもしない偶像ではなく、本当の進化の遺伝子をもった存在をつきとめ確保すること。

 ひとつ、キベルで開発され運用される最新技術の自分たちのものとすること。

 そしてケテルの優れた人間が進化の遺伝子を拝受し、優秀な子孫を残す。キベルの最新テクノロジーをもって、その限られた人間だけでドームの一部を再建することで人間のまま生き残ることができる。

 そのためにはセフィロトの地にあるアルカナのマザーボードは破壊し、アルカナの支配からのがれなければならない。幸いアルカナが示した指針を実行するための研究と、実証に必要なインセクターのサンプルは、セフィロトの近くに生息しており、キベルに従って行動していればそこに近づくことができた。 

 いつの間にか貴賓エレベーターは五十階に到達していた。扉がひらくとマリーナの秘書官が一人控えていた。先般も顔合わせた黄昏団の一員でもある文官だ。

廊下にはワインレッドの濃色の絨毯が敷かれていた。それは一歩、一歩の歩みの衝撃を、足がとられるかと思うくらい深く吸収した。中央の会議場を囲む回廊を案内され、僅か左にカーブを切りながら歩き、三つ数えた扉の前でマァイは古風なドアノブを掴んだ。

 執務室の右奥にある執務机にマリーナはキベルの制服姿で座っていた。マリーナが座っている背後の壁面は全面透明になっており、ドームの都市群が一望できた。高所恐怖症のミロがいたら少し離れたここでも立っていられないだろう。

 マホガニーを模した重厚な材で組まれた瀟洒な執務机の前には、数人が座れる応接セットが置かれていた。朝方のまだ薄い雲に近いせいか、射し込む光が地上のそれと比べ僅かに強いような気がする。足元の絨毯は色こそ廊下のそれと同じだったが、弾力なく力をしっかり床面に伝えていた。執務机から手の届くところにある本棚には、すぐ数えられるくらいの冊数の本しか置かれていなかった。他に調度品はなく、質素で古風なたたずまいは無駄を排するケテル流儀そのものだった。マリーナは入り口に控える文官に、目配せして退出するように命じた。マァイにはもっと近くにと言いながら自らも立ち上がり、ドームの街並みを眺めながら背を向けた。マァイは執務机のすぐ脇まで進み出て敬礼をした。

「マリーナ同志。キベル第302小隊、マァイ・ヴァジャノーイはアルカナの命令により、本日付でサイトロンドームの特殊部隊に配属となりました」

「早かったですか? 遅かったですか?」

「は?」

 マリーナに質問されるとは思っておらず、マァイは敬礼の体勢のまま、素っ頓狂な声を出してしまった。マリーナはこちらを振り返り敬礼を解くように言った。

 右手をゆっくりと下ろしながらマァイは、マリーナの瞳から視線を動かさず、質問にどう答えたらいいのか悩んだ。

 キベルが創設されて十五年。今回のマァイの転属は作戦の最終段階の発動を意味するものだった。創設されたキベルに華々しく入隊したセレナとは違い、当時のケテル地区代表を補佐する立場にあったマリーナは、文官の道を進んだ。キベルの活動に直接かかわることはできなくとも、黄昏団として、人間の未来への想いは一際強かった。マァイは質問してきたマリーナの真意を忖度しようとした。

「あなた。行く気でしょう」

 表情は動かず、胸中に常にある決意を見透かすマリーナの眼光は鋭い。細めた目じりに皺が寄ったが、むしろそれは包み込むような優しさがあった。

 親元から離れ物心ついたころから、マァイは黄昏団の施設で暮らしていた。そこでの規則正しい生活は、幼い身体に規律に従って生きるということを叩き込んだ。トーラーに入学し、成長したマァイの体格ができあがる頃から厳しい訓練が始まった。

 何時間も手足が曲がらなくなるくらいまで負荷をかけられた筋力トレーニング。呼吸能力を高めるため低酸素環境でのランニング。胃の中のものを全部もどしても、体格を保つためにと味のない固形食を押し込められ続けた。痛覚を鍛えるために全身を定期的に針で刺され、その上から鞭で打たれた。

 激痛で意識を失い、医務室に運ばれたベッドで、覚めるといつもその優しい瞳があった。忙しい公務の間をぬってマリーナは頻繁に施設を訪れ、マァイたちを労わった。トーラー入学の時黄昏団の会合で演説する姿。アルカナ国営放送度々見た、荘厳で毅然とした立ち居振る舞い。それでいてマァイを含め誰でも分け隔てなく接し、誰よりも人間も未来を憂いている。マリーナはこれから続いていく人間社会になくなくてはならない必要なカリスマなのだ。マァイはそのために捨石になる覚悟が、マリーナの瞳をみてさらに強くなった。

「はい」

 マァイの表情が硬くなり、思案した。もしかしたら尚早と止められてしまうのか……しかし。マリーナは表情そのままで、「これを持って行きなさい」とつまむように一枚のチップを差し出した。

「あ、ありがとうございます。これは?」

 受け取ったチップはセルフェスの情報データ読み込みで使える、今では珍しい旧式極小ハードウェアだった。

「特殊コーティングが施してあるのでアルカナでは読めません。ダアトでのみ読めるデータチップです。ある者が昔セフィロトの地下最深部まで到達したデータを含め、これまで黄昏団が調査してきた都市国家セフィロトの廃墟の情報が全て入っています。そしてこちら側の準備は全て整っています。あなたがアルカナのマザーボードの破壊に成功したら、ダアトをメインシステムとしケテルは選民プロセスに入ります」

 マァイの瞳孔が大きく開いたのを見て、マリーナの頬が緩みゆっくり頷いた。

「そして一つだけ命令します。何があっても帰って来なさい」 

 マァイは何も言えなくなってただ右手で敬礼するだけだった。どれだけの時間その姿勢をしていただろう。今度は肩に手をかけてマリーナが、「今はそうしていなくてもいいから」と言った。そこからマァイはこんなことを聞いたと思う。

「マリーナ同志は、命を授かるためにセフィロトの地に向われる時、御自分の子供となる命を授かるときどう思われましたか?」

「そう、私も聞いていた通り記憶も消されておりました。でもこう強く思っていましたよ。意思をしっかり持って、未来に希望を持った強い子が授かりますようにと」

「…………」

「あなたのような……」

 マァイは敬礼を解いて胸の前に握った両手の拳を、大事な宝物のように置いた。大きな身体を子供のように小さく丸め、マリーナの胸に収まった。頭を優しく撫でられる感触がした。物心ついたころのそれは、忘れられない感触だった。マァイは言わないでおこうとずっと胸に閉まっていた言葉を、発してもいいのかと感じ、気持ちを涙ながらに吐露した。生まれて初めて。

「今までありがとう。お母さん……」


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