第3章

第3章ー1

 軽黄色の気流に吹かれ続け崩れ行くセフィロトの廃墟がなくなってしまわぬように、支えようと腕を伸ばした。その動きが何度やっても無駄だと分かっていながら、アレフはここに来るたびそれを繰り返してしまっていた。

 丘の上から一望できる廃墟は、何世代も前の自分たちの祖先が生まれた濫觴の場所であった。しかしそれが見渡せるこの場所から、まもなく自分たちは退去しなければならないかもしれない。もっともその前に悪魔の気流に蹂躙されそれは崩れ去ってしまうかもしれないが。

 ――それは悲しいことだ。

 だがこんな感傷に浸る意識を持つものは自分が最後になるのか。いや、隣で触角を風に揺らせて廃墟を見つめているゴアテアも、きっと同じ感情を持っていてくれているだろう。アレフは腕を収め仲間のいる集落への帰途についた。

 毒々しい色彩の分厚い雲天を、なんとか通り抜けて来た陽光を貪欲に食らおうとして進化した針葉樹林は、全てのスペクトルを吸収して真っ黒で細長い葉を伸ばしていた。活発になっていた星の地熱が、密度の濃い気体に遮られて、日中は気温が高かった。

 雲に隠れておぼろげに見える太陽というものが、空を移動して彼方に消えて行き、いつしか反対側からまた現れた。時間の経過はそれだけでしか計ることができなかった。額から湧き出した液体は汗というもので、吹き抜けてくる風はそれを直ぐ乾かして滴り落ちることを許さなかった。そしてこの不快な環境は暑さと表現するものらしい。全てセフィロトの遺跡と呼ばれる場所にあった機械で見知り、掘り起こされたはるかな記憶だった。

 背丈を越える黒色の鬱蒼とした雑木林を抜けて、アレフは自分の集落近くまで帰ってきた。廃墟を見渡す丘からここに戻ってくるまで、まだ低かった太陽は頭の上まで移動していた。アレフよりさらに頑丈な体躯をしたゴアテアが、前を歩き硬質の外皮を持った巨碗を、刃のようにして木々をなぎ払ってくれたおかげで、今回の行軍はまだ楽なほうだ。

 アレフたちが暮らす集落付近に再び現れた白き民は、随分前に遭遇した一団とはやや性格が違っていた。彼らの動きを探るために、我々は毎日斥候の者を送っていた。黒い林を抜けた高台から眼下に見渡せる盆地のような場所に、アレフ達が暮らす集落があった。昼の熱風を少しでも避け、夜の凍えを少しでも和らげるために、お盆の底で身を寄せ合って暮らしてきた。丸いクレーター上には、木材を切り出して組まれた住居が建てられて、その間には煙を立てるお灸のようにすえられた焚き火が点在していた。我々はここでずっとそうやって生きてきた。

「ご苦労だったな、ありがとうゴアテア」

「……ギ、ギ、ギ、ギ」

 ゴアテアは笑っている。鎧のような硬度を持ち、完全に茶色くなった肩に手を置くと、ゴアテアは頭の触角を揺らして反応した。ゴアテアは環境に適応して身体の擬態をさらに進化させた代わりに、自ら発する言葉は失っていた。

 ゴアテアが櫛状の触角をアンテナのようにクルクルまわすと、上空から三匹の巨大なトンボが、その動きに引き寄せられるように舞い降りて来た。ゴアテアは両手で二匹の尻尾を捕まえた。アレフも一匹の尻尾を両手でしっかり捕らえた。

 背中らから強い風を受けると、身体がすっと重力から開放されて集落に向って宙を舞う。焚き火から立ち上がる煙を巧みによけて、巨大トンボは集落の中央にある広場に下りた。ゴアテアが飛び去るトンボに向って手を振っていると、広場で遊んでいた子供たちが近づいてきた。

「族長様お帰りなさい」

「ただいま。アドナイ」

 アレフは声を掛けてきた子供の頭を撫でた。短い触角を持ち、顔の大部分に複眼のような目をもったこの子の身体はトンボへの擬態を選択しているようだ。もし、彼が本当に自分の羽で空を飛べるまで進化するのなら、今自分に掛けられた暖かい言葉を発することもできなくなるかもしれない。ヘラクレスオオカブトに近く進化したゴアテアのように。

 身体が大きく力持ちのゴアテアは子供たちに大人気で、たちまち遊んでと取り付かれて動けなくなっていた。大木すら簡単に両断できる身体が、なされるがまま酔っ払いのようによろけているその光景に、アレフは思わず笑みがこぼれた。

 我々人間の次代を担う大事な子供たち。それに一族の者たちも、どんどん擬態ではなく本当の昆虫という生物に近づいてきているように感じる。アレフがセフィロトの廃墟と呼ばれる場所で、調べ知ったこの星の歴史において、その古生代に最も栄えたと言われる昆虫と呼ばれる生物が、再びこの星をおおい尽くそうとしている。必然的に我々もそれに従って、命をつないでいくことになるのか。

「族長様。僕が畑に植えた花が咲いています。見てくださいますか?」

「おおそうか。ついにあれが」

「はい。早く来てください」

「ゴアテアたちと遊ばないのかい?」

 はいとアドナイは首を縦に振った。他の子供たちより成長が早く、聡明な彼ならもしかして自分と同じく、言葉や頭脳を保ったまま一族を指導する立場になってくれるかもしれない。

 アドナイに腰布を引かれ、アレフは広場に隣接した農場畑に来ていた。食せる実を成さない黒色針葉樹が版図を広げ、広葉樹はシダ植物のように退化しつつ絶滅寸前まで追いやられていた。それを採取しなんとか人工的に栽培しようと試みていた。

 薄い陽の光でも大地は温暖化ガスに包まれ、地熱により日中は熱がこもる。日が落ちたら風が強まりそれらを運び去る。熱伝導率に優れたヘリウムを多く含む大気は、一日の中でも大きな寒暖差を生んでいた。サウナ風呂から突然冷蔵庫に叩き込まれるような過酷なこの環境で、人工的に育ちかつ食料となりうる作物はなかなか見つからなかった。

 水分を失い黒く萎びた海草のように、地面に元気なく張り付いた作物の中で、唯一伸びる植物をアドナイは見てくださいと誇らしげに指差した。

 その作物は緑の細い茎に支えられ、丸いお皿のような花を咲かせていた。その姿は、雲に遮られ微かにしか感じられない陽光を懸命に探しているようだった。かなり黒くくすんでいるが、茎や葉は緑で、花は黄色でその植物の本来の色を保っている。随分前にセフィロトの遺跡から持ち帰った種子の中で、これだけが芽吹き育った。

 黄色い花びらに丸く囲まれた中心部は、赤茶色に変化しており、次の世代につなぐ種を形成していた。食用になるかどうかはわからないが、花は見る者を笑顔にする希望を生む。

 アレフは自分の想いをのせるように、たった一本の花が向く方向を眺めた。それが実現するころまで自分が生きているかはわからない。だが、自分の背より高く成長したその花の横に並んだアドナイは、いずれ花や自分も追い越して育っていってくれるだろう。

「族長様。それと昨日西の樹海に出かけた時、あのようなものを捕まえました」

 アドナイは農場畑と牧場を区切る柵の方に歩いていった。食料のほとんどを狩猟に頼っていた一族は、長く成果があがらない時は過酷な飢えに晒されていた。食用になる植物を育てる農耕を模索する一方で、同じく食用になる地を這う昆虫を捕獲し、牧場をつくり繁殖させようとしていた。

 昨日アドナイが捕獲してきた生物は、見たことのない姿をしていた。その四本足の生物は昆虫よりずっと小さく、子供たちが胸に抱えることができるくらいだった。生物は抱きかかえられても暴れることなく、むしろ安心したように彼らの胸に収まっていた。硬い外皮ではなく、柔らかそうな白い毛並みを持っており、赤らんだ二つの瞳と長い特徴的な耳を細かく動かしていた。その生物二頭が、牧場の柵に前足をかけ歩いていくアレフの方へ鼻を鳴らしていた。

「これは何という昆虫なのですか?」

 身軽に柵を飛び越えたアドナイが、一匹の生物を抱えてアレフに質問した。

「それは昆虫ではないのだよ」

 えっと驚いたアドナイの複眼レンズの瞳が、一区切りごとの違う光を放ち気色ばんだ。近くで見ると蜂の巣のようなハニカム構造をしたそれは、感情を表現した様々な光を出している。昨日牧場でたまたまこの未知の生物を見かけたアレフは、今朝セフィロトの遺跡に出向き知識の機械と交信を行っていた。

 知識の機械は、セフィロトの遺跡の奥に何台も設置されていた。正方形の四角い箱に、まるで本物であるかのような画像が映し出されるのだ。箱の前には、子供たちが戦いごっこに使う盾のような板が置かれていた。知識の機械はその板の上にある、指で押すとへこむ正方形で小さく区切られたボタンを押すことで光り動き出した。四角いボタンは無数にあり、直線や曲線をつなぎ合わせた違った模様がそれぞれに描かれていた。その模様を『A、R、U、K、A、N、A』と順番で押すことがその手順だとアレフは教えられていた。板の横には、ちょうどアレフの手のひらが置けるように象られた台座があった。

 はるか昔、その台座に初めて手を置いた時、人間としての基本的知識が、奔流となってアレフの大脳に流れ込んできた。今日も同じように模様を辿り、台座に手を置くと、アレフの脳とリンクし灯が入った画面にその白い生物が映しだされた。

 その生物は昆虫ではなく、うさぎという哺乳類に属した生物だった。中生代と呼ばれる時代以降、絶滅したはずのその生物がなぜこの世界に生きながらえているかまでは知識の機械は教えてくれなかった。

「この生き物は昆虫ではなく、うさぎと言うのですね。族長様は何でも知っておられる」

 アドナイの複眼にある無数の小窓が、七色に輝き笑みを彩った。アレフはこうして少しずつ一族の者に知識を伝えてきた。そうして人間として我々はここに根付いて生きてきた。

 アドナイは愛おしそうに、その柔らかい生物の身体に頬ずりした。それが窮屈なのか嫌がったうさぎは、腕をすり抜けて牧場に掛けていく。アドナイはうさぎを追いかけず、七色の瞳が今度は澄んだ一面の蒼に変わり、暖かく見送っていた。アレフも彼と表情を同じく暖かくその様子を見守っていた。

 清水のようなアドナイの複眼が、突如として墨汁を落とされたように中心から黒く濁る。アドナイの視線の先、掛けていったうさぎは、串刺しにされ大きく頭上に掲げられた。

「おいアレフ! これは珍しい昆虫だな」

「ストローイ! 牧場の生き物に手を出さないと寄り合いで決まったはずだ!」

 ストローイは鎌状に鋭利に尖った腕の先端で、うさぎの身体を貫き頭上に掲げていた。獲物からは血が滴り、鋸状の刃をつたい、そのひとつひとつの先端から、雨のようにポタリポタリと地面に滴り落ちる。

「そうだったけな。お前さんと違って頭が悪くてな!」

 ストローイはこちらに歩きながら滴る血を、口を開き自分の舌で受けた。ストローイはカマキリに擬態した細長い身体を持っていた。軽量化した身体は、必要最小限の筋肉だけを持つことで素早い動きに適していた。一族の狩猟において彼はリーダー的存在だった。中指だけが肥大し長く伸びており、肘の内側からその先端までの間に、何本もの磨かれた鋭い棘が生えていた。伸びた中指を内側に曲げ、二の腕ではさむことで鎌のように獲物を捕らえることができた。逆三角形の形をした顔面の大部分は、緑の丸い二つの複眼が占めており、中心にある黒い点のような単眼は、円のなかを弾かれるピンボールのように動いている。アレフはアドナイを自分の背中に手を引いて隠すようにした。

「乱暴はやめるんだ」

「あいよ。妙な味だな」

 ストローイは血が流れ落ち滴らなくなったうさぎを、腕を振り地面に叩きつけた。地に落ち血と泥がまじり、白い絨毯がぼろきれのようになりうさぎの身体が汚れた。

 猟に出ても収穫がなくいらだっているのはわかる。しかし一族の結束を乱す行動が許されるわけではなかった。

「ストローイ。決まりが守れないなら罰を受けてもらうことになる」

 緑の眼球の中の小さな黒点の動きが止まる。

「へいへい。やめりゃあいいんでしょ? 族長様。でもなぁアレフ。俺たちが獲物を捕らえられないからって、あてつけでこんなもの造ることないだろう?」

 ストローイは鎌状の中指をかざすように広げて、牧場と農園を指した。

 確かに狩猟によって得られる食用昆虫は、我々の最も重要な栄養源だ。だがしかし安定して常に手に入るわけではない。その不安から脱し、一族が安定した生活を送るための農園や牧場であると何度説明してもストローイは理解していないようだった。

 彼の思考回路からは、社会性というものが徐々に欠落していっているのかもしれない。凶暴で貪欲で時に共食いまでする本物のカマキリのように、彼はいつか一族の仲間をも捕食してしまうかもしれない。ストローイと同じような考えかたをする者が一族の中で増えつつあった。

「そんなわけはないだろう」と怒気をはらんだアレフに対し、機先を制したストローイは、身を屈めたかと思うと一気に間合いを詰めアレフに向って鎌を振り下ろした。

「お前は食ったらうまいかもな」

 鎌はすんでのところでとめられた。アレフは切りつけ易いように、わざと頭を傾けて首筋を晒していた。

「食ってみるか?」

 アレフは煮えたぎる怒気を冷静な笑みに変え、ストローイの小さな瞳を睨みつけた。黒点がわずかに大きくなりストローイは鎌を引いた。アレフの気迫に圧倒されたのか、騒ぎに気づき後ろに立っているゴアテアに気がついたからなのかはわからない。瞳が元の黒点の大きさに戻ったストローイは、何も言わずゴアテアの脇をすり抜け立ち去っていた。

 アレフの背中から飛び出したアドナイが、ぼろきれのように地面に横たわるうさぎの元に座った。複眼の瞳は深い蒼に変化している。難を逃れたもう一匹のうさぎも仲間のもとに駆け寄って、鼻先を近づけて臭いをかぐ。アドナイはうさぎの身体にこびりついた血糊や小石を取り除こうとしていた。

 致命傷を負い血液を全て失ったうさぎが動き出すことはない。不測の事態でこのうさぎは命を落としたが、だが我々は所詮こうやって殺して、食べて生きていかなければならない。が、アレフは膝まずいてうさぎを優しく撫で、両手の上に置いた。

「食べてしまわれるのですか?」

 アドナイの瞳の蒼が、はるかなる深度をたたえる海のように深くなった。アレフはうさぎの死骸を抱え立ち上がった。

「いや。これから墓をつくろうと思う」

「墓? 何ですかそれは?」

「この子がこの世に生きていたという印です。よく聞きなさい。君はこのうさぎを捕まえたとき、食べてしまおうと思いましたか?」

 アドナイの瞳の蒼に、グラデーションのかかったような黄色が横断し、いいえと首を振った。アレフは頷き言葉をゆっくりと継いだ。

「この子を土に埋めて、その印となるものをその上に置くのです。そしてそのことを忘れないように弔うのです」

「弔う? 弔うとはどのようなことをすれば良いのですか?」

 アドナイの瞳は、すっかり橙に近い黄色に変化していた。アレフは手に抱えたうさぎの目の上に手をやって、赤い瞳が隠れるようにまぶたを下ろしてあげた。

「今、このうさぎ対して感じていることをずっと忘れないように思い出すのです。土に中でうさぎの身体は失われてこの星とひとつになるでしょう。でも弔うことでうさぎはアドナイの心のなかではずっと生き続けるのです。将来もし、大事な仲間や友達が同じようになったら墓を作り弔いなさい。そうするのが人間なのだよ」

 しっかり「はい」と返事をし、頭を下げたアドナイの頭をアレフは力強く撫でた。うさぎの身体に残っていた体温が血に濡れたアレフの手のひらからアドナイの身体の中に入って行った。

 ゴアテアがアドナイの身体を強引に持ち上げて肩車をした。はしゃぐ姿は快活な子供のそれに戻っていた。いつ絶えるともなく目に見えない悪魔が降り続く過酷な環境のなかで、ずっとこうやって暮らしていければいいのに。アレフは目を細めその光景を眺めていた。

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