第2章―9
帰省休暇で人気がなくなって、カンティーネは営業を停止していた。アルカナも定期メンテナンス中で、セーフモードに入っていた。灯が落ち機能が停止した白い長角机に、マァイ・ヴァジャノーイは一人座り、細長く四角い栄養食品をかじっていた。
出身地のケテルから定期的に送られてくるそれは、あらゆる栄養素や必要なカロリーがぎっしりつまっていたが、無駄な甘味は一切排除されており、唾液で溶け舌に乗っても味覚を満足させることはなかった。普段は制服姿のキベル隊員の白が揺らぐ空間で、マァイはひとり栄養を消化しながら、居ない彼らの姿を想像しながらここ数ヶ月の出来事を思い返していた。
あのコックローチの群れは、進化種と呼ばれる蓋外性生物に操られていた。キザドームで整備工作班を襲ったホーネットタイプも複数の下位種を従えていた。
キベルが進化種と接触したのは、一五年前ぶりのことだった。当時、創設されたばかりのキベルの第一陣は、セレナ指揮の下、蓋外性生物のサンプルの探索を開始していた。ある日、偶然セフィロトの地上付近で、進化種の集落を発見していた。
ひとつの住居を襲撃した部隊は、進化種の蓋外性生物の幼体を発見した。実験体として捕獲し、ドーム内に帰還しようとした部隊を何万もの巨大蓋外生物が襲った。怒り狂った進化種に操られ、統率がとられた彼らはドームの外壁をめちゃめちゃに壊し、キベルの隊員も皆食い殺されるか、連れ去られるかした。進化種の幼体を返すことが撤退の唯一と条件とされ、それに応じるしかなかった。セレナを残し当時の行動探索隊は皆死ぬか行方不明なった。多くの人員と装備を失い、キベルはそれから破壊されたドームの修復に何年もかかりきりになった。その大襲撃から一五年が経過し、彼らと対等に戦うことのできる装備をようやく手に入れた。
入り口の自動ドアが開き、研究所に行っていたミロが戻って来た。隣には研究開発班に配属されたアニタがおり、丸い身体が転がるようにこちらに向ってきた。
三本目の栄養食品を口に入れたマァイの前に二人が座った。アニタはけたけた笑いながら、背負っていたリュックを下ろして机の上に置いた。中には長方形や丸型の栄養食品が大量に入っていた。
アニタはそこから円筒の機能飲料を三つ取り出しマァイとミロの前に置き、自分は飛び出たストローを口にくわえ一気に液体を吸引した。
ケテルで特殊任務の訓練を積んでいたマァイらと違い、アニタはもともと中央府の文官になる予定だった。だが常人離れした手先の器用さと知能指数を持っており、黄昏団の推薦を受けキベルに徴用されていた。
アニタは、その聡明さが微塵も感じられない丸いクッションのような身体を、椅子の上で重ねるように座っていた。長いストレートの黒髪で、顔の輪郭だけは細長く見えるように曲線を隠していた。
アニタは両手に違う形をした栄養食品を持って交互に口に入れた。機能飲料の水分を補助として、次々胃袋に流し込みまたケタケタと笑っている。「食べ過ぎでしょ」と悪態をついても、マァイと同じぐらいよと意に介さない。旺盛な食欲で取り入れられたカロリーは、マァイのように筋肉で消費されることはなく、丸い身体に蓄積されていた。
黄昏団の修練所に入った人間は、子供のころからこの栄養食品だけを与えられ育った。丸や四角と形は違えども味がない唯一の食料を、食欲にかられ進んで口にするものはおらず、黄昏団の人間は皆一様ミロのように痩身だった。マァイは体格を保つために必死にこの味に慣れ定期的に口に入れていた。
アニタはまだ幼いころ、集合住宅のベランダから転落して頭部を打ち生死の間をさ迷ったことがあるらしい。昏睡状態が一ヶ月ほど続き奇跡的に意識を戻した彼女は、別人に生まれ変わっていた。感情の起伏が激しく、考え事をしている時やしゃべっている途中で、思考が頭の中の何か欠落した場所を通過したのを示すように、引きつった不気味な笑いをした。きっと味覚もおかしくなっているのだろう。だがそれと引き換えに得たのか、アニタほど記憶力に優れ、頭の回転の速い人間をマァイは見たことがなかった。またケテルで彼女以外に太っている人間もまた見たことがなかったのだが。
アニタの横でミロは一本の細長い栄養食品を両手で持ち、目をつむってネズミのように少しずつ前歯で削りとりかじっていた。マァイは本題を切り出す前に、アニタから差し出された機能飲料で口の中に残った滑りを身体の中に流し込んだ。
マァイは栄養を飲み込み切り出した。
「で、どうだったの? 進化種のサンプルの様子は?」
「捕まえたのがミロっちたちだったから特別に見られるんやけど、けけけ」
アニタは栄養食品を食べながら大きな声を出したので、食いカスが机の上に散らばった。それを無言で払い寄せて、ミロは自分のセルフェスを机に置いた。
「これですわ」とセルフェスに触れるとダアトが立ち上がり、立体映像が投射された。捕獲した進化種の蓋外生物のサンプルデータを、ダアトでダウンロードしたとミロが説明する。立体画像はマァイらの目の前に等身大で投影され、進化種の全身を見せるようにゆっくりと回転を始めた。何か言いたげなアニタは、ミロに「ちゃんと全部食べてから」と釘をさされ、慌てて残りを飲み込んで解説を始めた。
捕獲された進化種の蓋外生物の体長は、一メートルにやや満たないくらいの小柄だったが、これで成体だという。マァイが切り離した櫛のような形をした一対の触角が、アンテナの役割を果たしており、そこから発した空気振動波でコックローチの群れを操っていた。頭部の形は触角の形状以外は下位種のコックローチと同じだったが、瞳にはまぶたがあり、口の周りの色は茶色だが唇らしき肉の塊で縁取られていた。
下位種と違い、頭部の中にはぎっしりと脳みそが詰まっていた。人間ならこめかみに当たる部分を、横から正確に水素サーベルで刺し貫かれ、脳の一部はぐちゃぐちゃに破壊されていたが、生命維持装置にチューブで繋がれそれはまだ生きていた。背中から見ると、こげ茶色のブローチのような艶のある外羽があり、後ろからは一見下位種と見分けがつかなかった。
腹部にあたる身体の前面と、やや茶色がかった肌色をした手足には五本の指があり、足の間の股間には剛毛が生え、どういう役割を持っているのか分からない棒状の器官がだらりと垂れ下がっていた。
ドーム外の世界で、生物の身体に最も有害なスイードに対し蓋外性生物は耐性を持っていた。彼らのキチン質でできたクチクラの外皮におおわれた身体は、表皮からのスイードの侵入を防いだ。呼吸器官から取り込まれたスイードが放出したタンパク質が体内に侵入しても、彼らの体内では抗体ができず塩基の損傷が起こらなかった。
――それが……この手足や目はまるで……。
あっけにとられるマァイの前で、その気持ちを量ったミロが何回も顔を縦に振っていた。
「そうですわ。こいつは我々人間とほとんど同じですわ」
「けけ。そーそー、ほとんどどころか、全く同じやって。進化種は下位種の蓋外性生物から進化じゃないでこれは、もう、もともと人間が……けけけ」
体格や身振りは対照的だが、ミロとアニタの興奮がシンクロしているのがわかる。マァイは二人についていけないのにイライラし、手に持っていた栄養食品を握りつぶした。握った拳からばらばらと破片が机に砂粒のように落ちた。
「こいつが? あたしたち人間と全く同じですって? 何バカなこと言ってんの? 本当に狂っちゃったんじゃないの? アンタ。それに同じだったらドームの外でスーツなしに生きられるわけないわ!」
――冗談じゃない。
「狂ってるの? あたいが? けけっけ」
アニタはマァイの言葉に反応して、大きな身体を小刻みに横に揺すった。
「まあまあ。事実は事実ですわ。なぜ外でも生きられるか? わからないでしょ? それを調べるために皮膚から少し細胞片を採取して調べてみたデータがこれですわ」
ミロはアニタの動きに迷惑そうに椅子と身体を横に動かして距離をとった。
「ふたりとも食べ物を汚い!」と言いながらミロがセルフェスに触れると、ダアトが投影している映像が切り替わり、マイクロスコープが進化種の体組織を表示した。倍率を上げると、何か白い糸のような線が、無数に細かく蠢いているように見えた。胸騒ぎをしたように感じ、マァイは自分の胸を押さえた。
「何か動いている……?」
「進化種の身体の中には、様々な大きさの無数のパラサイトが確認されていますわ」
ミロがセルフェスの画面に指を滑らせ、マイクロスコープの倍率を上げた。細胞中の染色体が見えるくらいの大きさの視野にしても、その間を泳ぐように動くさらに微小なパラサイトが無数に見える。
「あれが? パラサイトってあのコックローチの身体の中にいるやつと同じ?」
マァイは左手でうねる画像を指差した。これまでのキベルの調査研究で蓋外性生物は、その身体に何らかのパラサイトが存在することがわかっていた。
困惑するマァイを落ち着かせようと自分なりに考えたのか、アニタがパンの形をした栄養食品を勧めてきた。手で払いながら首を振ると、アニタはそれを自分の口に持ってきてくわえながら進化種の立体画像に直接触れた。別の画面がクローズアップし投影された。そのまましゃべり出そうとして、ミロが一瞬眉をひそめ制止し、かわりに話し始めた。
「同じではありません。ちょっと、というかだいぶ違いますわ。パラサイトは卵からの生活史において、宿主を乗り換えつつ変態を重ね、成虫になります。下位種の蓋外性生物の体内にいるパラサイトは成虫ですわ。それはその蓋外性生物が最終宿主ということ」
「それがどうかするの?」
マァイは挑発的な口調になった。
「進化種の身体の中でうごめいているパラサイトは全部幼体」
「だから?」
「パラサイトはいくつかの中間宿主を経て、しかるべく最終宿主にたどり着いてはじめて生殖能力を持った成虫になりますわ。それまでは、同じ姿のまま無限に分裂して増える幼体移行という現象を起こす種がある。進化種の中にいるパラサイトはまさにその状態。つまり人間が最終宿主ではありません。そのまま放置すると宿主を食い尽くして殺してしまう。中世代の都市国家セフィロト郊外のクリフォトいう地域で、パラサイトに全身を食われ死亡した人間が多く出て、奇病としての記録が残っています。その最終宿主が人間ではないパラサイトは、〝芽触孤虫〟と呼ばれていたらしいですわ。このパラサイトはきっとそれに近い種類。それに進化種は食い尽くされて死ぬことはない。なぜかと言うと……」
「そーそー、けけ、パラサイトが進化種を食らうことがなく別の細胞になってる!」
アニタはうずうすしてミロから発言権を奪い取り、投影されたクローズアップの実験動画を再生させた。
実験野の進化種の細胞のそばにスイードを置くと、溶け出したタンパク質に対し早速抗体が形成されそれを捉えた。タンパク質と融合した抗体により塩基が染色体から遊離し、分裂している細胞の染色体を求め漂った。すると近くを漂っていたパラサイトが、遊離していた塩基を捕食するように結びついた。
「スイードで破壊され続ける細胞の遺伝子を、このパラサイトは常に捕らえ正常な細胞分裂の阻害を防いでいるのよ!」
アニタの口から飛ばされた食べかすが机の上に散乱し、ミロは表情一つ変えず置いていたセルフェスを持ち上げひっくり返しつもったそれを排除した。
下位種の蓋外性生物類がスイードの影響を受けずに生存しているのは、強固なクチクラの外皮を持っているのと、体内に抗体が形成されないからであった。彼らの中に存在する成虫のパラサイトは進化種内のそれとは別種で、ドーム外の低窒素で酸素、ヘリウムリッチの大気を無害にし、効率的にとりこみ身体を大きくするための好気性菌のような役割を果たしていた。進化種の蓋外性生物が、我々と同じ薄い皮膚しか持たず、スイードへの抗体が身体中にできるにもかかわらずドーム外の環境に適応している理由は、障害になる遊離した塩基を、直ちに捕捉するパラサイトを無数に体内にもっているからだった。
アニタは説明しながら、合間、合間で引きつる笑いを挟んだ。知能指数二百近くあるというその思考回路の切れ目を埋めるようだった。食べかすがかからないように、ミロはセルフェスをアニタからさらに遠ざけた。
「下位種の蓋外性生物の中にいるのは、主に好気性をもったパラサイトでやけど、進化種の中にいるこのタイプは、けけ、こうやって塩基と結びついた後、あらゆる組織に変化できる多能性を持った細胞になるみたい」
マァイはずっと目を見開いたまま、視線をミロに向けた。
「多能性? あれが何かに変わるの?」
「聞いたことありますわ。中生代に実用化寸前までいった多能性細胞だったかな……なんて名前でしたっけ……」
ミロは、はてと頭に手を置いて小首をかしげた。立体画像を消して、ダアトに蓄積されている中生代のレコードディクショナリーを検索した。
「そうそう! それー! け、さすがミロっちー! でも違うのはその多能性細胞が、パラサイトの意志に従って変化しているみたい。もう知ってると思うけど、下位種の蓋外生物の外観は、古生代や中生代に栄えた昆虫と呼ばれた生物と同じ。つーかそれ。そして進化種の背中や頭部の、硬い部分がその昆虫と同じ外観。けけ、擬態かな。進化種は自ら望んでか、パラサイトの意思によって身体を昆虫のように変えている。それに昆虫のような外観をもっているけど、遺伝子的には人間と同じやから、人間そのものと言っても過言じゃない! これ大事やから何度も言うよー」
アニタは嬉しそうに横に広がった巨体を細かく縦に揺らした。まるでシンバルを叩く猿のおもちゃのように喜びを身体で表現した。
「ストップ! それみんなここに書いてありますわ」
ミロは地震を起こしそうなアニタの激しい動きをやめさせ続けた。
「塩基を取り込み多能性細胞のような機能をもったパラサイトは、増殖をやめ成虫になっています。パラサイトは自らの宿主を、自分が細胞に変化し変態させることで、遺伝子的には人間で、外見は昆虫……インセクター(昆虫人)という最終宿主を自分でつくりだしている」
ミロは鋭い目つきのままメガネに手をやった。
「普通、パラサイトは宿主に対してマイナスを与えこそすれ、利することはなかった。それが、進化種の中では正常なRNA転写を守り、スイードに耐え生活できる身体を作り出し、互いに利する共生関係をつくっている。パラサイト自らが意思を持ち、宿主を自分が成虫化できる最終宿主につくりかえている……。びっくり。なぜこんなやつらが都市国家セフィロトのあった地上辺りにいるのかな」
ミロは頭においていた指を、細い顎の辺りまで動かし机に肘をついた。
マァイはミロからセルフェスを奪い、インセクターと呼ばれる進化種の立体映像を表示させた。言われてみると目や唇のあたり、五本指に手足や、柔らかそうな皮膚は……。
マァイは制服からはだけた自分の上胸辺りの皮膚に手を置いた。この感触と温かみ。これと同じものを持っているというのか。マァイは掻きむしるように自分の胸を掴んだ。
「こんな風になれば……。私たちも環境に適応してこの世界で生きて……。それがアルカナの『アイン・ソフ計画』なのですね」
ミロの瞳は窓から見えるドーム外の空の方に彷徨っていた。それを遮るようにマァイは立ち上がった。恐ろしい顔にアニタが、「こわーい」と自分では可愛い子ぶったと思われる、原色の黄色が張り付いた嬌声を上げた。
マァイは認めることができなかった。アルカナが、最も可能性が高いと決めた人間が生き残るための計画を。こんな姿になって生き残っても何の意味もない。人間の姿を失って、人間でなくなって。きっとこんな感情だってなくなって。
胸に当てていた指に力が入り、爪が柔らかい肉に食い込んだ。
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