第2章―7

 母が中央病院区域にある療養所に入ったことは、一週間前に知らされていた。付き添いを申し出たアンを半ば無理やり残し、エイルはマルクトに到着する前にリニアを降りた。

 ドーム国家アルカナの一番外側に広がる居住区は、十の地域に分かれて緩やかな自治連合の形をとっていた。工業プラントや農業プラントは地下にあり、政治をつかさどる中央府を中心に大繁華街、国立公園、中央病院区域といった場所は各地域から離れ共通施設となっていた。

 駅を降りると道は一本で、赤茶色の巨大な病院施設へと続いていた。それは高さより幅があり、重厚な印象をエイルに抱かせた。リニアからも見えるランドマークとなっている中央病院は、ちょうど中層階辺りの部屋に光が集中していた。

 あの辺りが手術室や集中治療室が集まっているのよと説明する母に手を引かれ、エイルはこの辺りを歩いたことがあった。トーラーに入った頃だったろうか。下校途中エアカーにはねられ、マルクトの診療所では手に負えないと緊急搬送されたそうだ。

 一ヶ月ほどして退院してこの道を歩いた。振り返るとその建物は、贅沢に厚く切り分けたストロベリーシフォンケーキみたいで、食べたいと母にねだった。

 今前から歩いてくる母子連れも、そんな会話をしているのだろうか。道端に見舞い客を目当てに露店がいくつか並んでいる。あの日のケーキ屋は今もそこにあった。白い料理服を着た二人の店員が、お伺いしますと笑顔で迎える。あの時もそうだったと思い出される。それぐらい見事な造形の笑顔は同じだった。自分好みの、甘さ控えめと表示された電子のぼりを確認し、エイルはあの時買えなかったシフォンケーキを購入した。

 中央病院の周囲は人工植樹された公園のようになっており、入院患者の憩いの場所となっていた。その公園から左脇の小道をしばらく歩いた先に、母がいる療養所があった。人工植樹で周囲から見えないように隠された三階建てくらいの白い正方形の建物だった。

 入り口の自動ドアは検問ゲートになっており、セルフェスからキベルのIDを認証入力すると、頭上のカメラがエイルの顔のところまで下りてきて網膜認証でゲートが開いた。入ってすぐあった受付に座っている看護帽をかぶった係員の女に、母は三階一番奥の部屋にいることを聞いた。受付の横手にある案内板には<高度スイード症療養センター>と表示されていた。

 三階奥の母の個室は角部屋になっており、窓から外の人工植樹林が良く見えた。窓際のベッドの横には点滴の自動移動車があり、そこから伸びるチューブにつながれて母はベッドに横たわっていた。部屋に入って来たエイルに気づかず外を向いていた。

 母は白い布団の中にすっかり納まるくらい体重を落としてしまっているのだろう。肩や首まで雪に埋もれて、凍死しているのかのごとく、白髪の混じった後頭部は動かない。前まで回りこみ顔をのぞき込む。母は幾本も刻まれた頬が伸ばして笑みを作った。何かしゃべったが呼吸器を付けていたため、聞き取ることはできなかった。

 <高度スイード症療養センター>は主にキベルの退役者を中心に、スイード障害を発症した人間を収容する療養所だった。大襲撃で破損されたドームを修復するため、キベルの活動はほぼ十年以上に渡り外からの補修作業がメインだった。当時の劣悪な装備で行われた突貫工事が原因で、多くの者がスイードに侵され命を落とした。キベル隊員の平均所属年数は十年に満たなかった。

 比較的大きなスイードは目や鼻孔などの粘膜に付着し、微細なスイードは全身の毛穴から体内に侵入した。体液に触れたスイードは水分に溶解し、特有のタンパク質に変化した。スイード性のタンパク質を異物として捕捉した体内細胞は、対抗するため抗体をつくりだした。抗体がタンパク質に触れると、交じりあい放射線のような鋭利な形をした化学伝達物質を発生させ、体内細胞の遺伝にかかわる塩基配列を傷つけた。スイードによって傷つき遊離した塩基は直ぐに自己複製せず体内をさまよい、特に細胞の新陳代謝が盛んに行われている部位――消化器官や造血器官など細胞分裂が盛んに行われている場所――にたどり着き、無理やり結合しRNA転写を阻害した。正常の新陳代謝による細胞複製ができなくなった人体には重大な障害が発生した。

 母は呼吸器を外した。目じりからこぼれた涙が、刻まれた皺をつたって流れた。

「エイル、立派になって……」

 キベルの制服が様になっているのだろうか。エイルとしては家を出たあの日と変わることは何もない。

「お見舞いよ、食べられるかしら?」と差し出したシフォンケーキの包みを見ると、母は咎めるような口調になった。

「エイル。こんなものばっかり食べてると虫歯になるわよ。ちゃんと歯磨きしているんでしょうね?」

 「ええ」と、力ない返事をしてベッドの脇のサイドボードにケーキの包みを置いた。独り立ちしてもあなたは私の子供。中央病院を退院したあの日、同じ理由でケーキを買ってもらえなかった。だって、あなたは歯磨きを良く忘れるよねと。

「そうそう。キベルが許可証を出してくれてアンちゃんのお母さんが毎日お見舞いに来てくれるのよ。アンちゃんはどうしてるの? エイルがしっかりやってあげないとダメよ」

 スイード症が深刻化した母は、もうあまり長くないのかもしれない。徐々に弱っていく原因は、母がキベルの第一期隊員でそのとき患った慢性的スイード障害にあったのだ。母の体調不良の謎が解けてなおますます別の謎が残った。大襲撃を経験したキベルの第一期の隊員で、生き残ったのはトーラーで習ったところによるとセレナだけだったはずだ。

 そんな思案をめぐらすエイルの様子に関係なく、母カトレアは変わらずエイルに苦言を呈し続け、自分のことを語り続けた。

 ――わたし、またケーキ食べられない。

 エイルはベッド脇にあるスツールに座り時間が過ぎるのを待っていた。窓の外の広葉の人工植樹は色素を注入されていて、不自然なくらい蒼かった。ドームの外の暗視スコープで見た植物は、演習場でみた擬似映像と同じく皆黒っぽい葉をしていた。太陽に恵みを受けられない雲空の下、この人工植樹は瑞々しくないのに、瑞々しいフリをさせられている。造り笑顔をしているだろう自分が窓に映っていそうで、外も見ていられなかった。

 話し続けて苦しくなったのか、母は呼吸器をつけた。立ち上がろうとしたエイルを、力ない瞳がじっとりと追った。スツールに座る下半身に鎖が巻かれたように重くなり、それを振り払うには意識して足に力を入れなければならなかった。やっとのことで立ち上がったエイルに向って、母は「待って」と再び呼吸器を外した。

「キャミィちゃんいるでしょ? 今日結婚式だって」

「…………??」

 同期でキベルに入ったキャミイは、訓練についていけなくなり、わずか十日ほどで除隊を申し出たとは聞いていた。

「わたし、招待状もらったけど。確かまだこれからじゃないかな? エイル代わりに行ってくれない?」

 母はサイドボードに置いてあった古風な電子カードを震える手で取りエイルに差し出した。エイルのセルフェスがデータを読み込み、式場の場所が立体表示された。式場のアイン・ソフ大教会は、流しのエアカーを捕まえれば病院区域から三十分ほどで、開場にはまだまだ充分間に合う。

「お相手は、ほら、エイルも知っているC地区の……ごほっ、ごほぅ」

 顔を歪め苦しそうに咳き込む母の背中をさすり、呼吸器を口にあてがった。そのエイルの手を母が握った。かつては暖かく包んでくれただろうそれも、かさかさに乾いて冷たい。エイルはゆっくりと母の上体をベッドに寝かせ、肩まで布団をかけた。右手で母の手をさらに上から包むように握る。

 それは超低温で凍ったバラのように、力をかけたら粉々に崩れてしまいそうだった。でも、どんなに長く握っていても、体温はそこに伝わって行きそうになかった。

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