第2章―6

 中央府からマルクト地区に向うリニアの座席で、エイルとアンは出発を待っていた。キベルに配属されて三ヶ月が経ち、進化種の出没情報をもとに各地を転戦した第302部隊に、初めて自宅に帰る休暇が許された。特にキザドーム南方の針葉樹林での戦闘は、森林を焼き尽くすほど激しいものだった。エイルが機転をきかせ、オキシマインで森ごと焼き払った判断はただしかったが、引き換えにマァイは今日まで一ヶ月以上まともに口をきいてくれなかった。

 結局捕獲できた進化種は最初の一体だけだったが、研究開発班のサンディは休暇をとるどころか、徹夜続きで帰宅する暇などないと毎日歓喜に身体を震わせていた。一緒に戦ったマァイとミロは、別にあんたらがいなくても訓練できるからと、相変わらずだった。

「あんたたちがいなくってもってぇ、ホンと嫌な人たちだねー」

 通路側の座席に身体を埋めたアンが、風船に空気を込めるように頬を膨らませた。もともとの丸顔がさらに浮力をもって天井に浮き上がりそうだ。車窓の外で、同じくマルクト地区に帰るキベル隊員たちの姿が横切る。皆一様にほっとした様子で、長風呂に入った後と同じふやけた表情をしたり、あくびをするように大きな口を開き笑ったりしている。それに比べマァイとミロの二人は、職務に忠実で冷淡だが、任務遂行能力は高く、それをエイルはむしろ頼もしいと感じていた。

「育った環境が違うから仕方ないんじゃなくて? あの人たちだってわたしたちと同じ目的だからキベルに参加してるんだと思うよ。同じ人間よ。何も違わない」

「あの人たちもぉ? 何かを守りたいからなのぉ?」

 アンが溜めていた空気を吐き出した。エイルの頬を生暖かい風が撫で、風船はしぼんだ。

「何かを守りたいっていうより、何かが欲しいって感じか、何かをしたいって感じかな? あの人たちは。そう考えているよ」

 「ふーん、そうなんだ」とアンは制服のポケットから取り出した大玉の飴を口に入れ、餌をほおばるリスのように片側だけ頬を丸くした。マァイもミロも何か規律というか、信念に基づいて行動しているから強いとエイルは思った。

 定刻になったリニアは音もなく出発し、中央府から出る地下トンネルに入った。一定間隔で通り過ぎる非常灯のオレンジに時折さえぎられながら、漆黒の車窓がぼやけた鏡のようになってエイルの顔を映した。背後に映っているアンはこちらを向いている。

「エイルだってそうだよぉ……。エイルはぁ、何を守りたいのぉ? 何か欲しいのぉ?」

「前にも言ったじゃない? お母さんとか、マルクトのみんなとか。……それと……」

 エイルが続けようとした言葉は最後ゆっくりスピードを落とし、アンがかぶせるようにそれをさえぎった。

「……だって、エイルはお母さんのことだといつも不機嫌そうだよぉ」

 オレンジが通りすぎ、再び映った自分の顔には表情を割る皺が眉間に深く刻まれていた。

「そんなことないよ。ただ、いつもうっとうしくてさ」

「カトレアおばさんはただエイルのこと心配なんだよ、実はあの時も……」

 マルクトのニロトバーで、羽目をはずしたアンが酸素中毒で病院に運ばれたあの事件。アンが一週間病院に入院することになり、エイルは、トーラーから謹慎処分を受けた。カトレアはアンの病状を心配するより、謹慎を受け学業に影響するとエイルを咎めた。その態度に我慢ならなくなったエイルは、自宅を飛び出した。

 まず頭に浮んだ国立公園。あそこでは毎日炊き出し配給が行われており、食べるものには困らなかった。ドーム国家アルカナでは、中生代で世界の主権を握りかけた社会主義に近い統治システムが採用されていた。核融合炉に頼る社会で、最低限のエネルギーと食料は国民全員に支給されていた。労働は国民にとって義務として割り当てられており、それを疑うものはいなかった。国家をまとめていたのは、共通の危機と、共通の信仰と、社会システム・アルカナでの統治であった。

 エイルはトーラーの帰りによく通っていた国立資料館の書庫に、配給所で受け取った寝袋を持ち込み寝泊りする場所とした。今の生活に必要なあらゆるデータが、端末でどこでもいつでも簡単に手に入るようになり、失われた中世代の資料を電子化してハードディスクで所蔵する資料庫に訪れる人間はまずいなかった。

 アルカナによって毎日洪水のようにもたらされる新しい情報は刺激的で、埃に埋もれた過去は忘れ去られた。アルカナに判断をまかせ考えることを放棄した人間たちにとって、愚かな自分の判断で行動していた中生代から学ぶことはないと考えられていた。

『片親チビのエイル』

 といじめられていた幼いころから、誰もいない国立資料館は一人になったエイルにいつも居場所を与えてくれた。そこには中生代に人間たちの間で広く読まれた小説という読み物が大量に保管されており、その小説の主人公たちは、個性にあふれていた。

 自分で考え、泣いたり、笑ったり、そして恋をしたり。女ではない空想の人間が登場し、それに対して抱く感情に翻弄される。その感情はこの身体でどう表現するかエイルにはわからなかったが、そこに描かれた人間たちは皆本当に存在しているかのように、文字だけでも生き生きと躍っていた。

 ――みんな、なぜ考えないの?

 エイルはセフィロトから持ち出された中生代から現代に至る人類の記録に特に興味を持っていた。歴史記録は現代に近づくにつれ抽象的になった。何度も読み返したセフィロトからの移住と、苦渋を極めたドーム国家アルカナの建国史は神話のようにヴェールに包まれていた。良い機会だから徹底的に資料を読み漁ろう。エイルはそれくらい軽い気持ちで、母への憤怒を忘れようとしていた。

 数日後、誰も来ない中生代の有形資料庫で突然意識が混濁し身動きできなくなった。常用していた薬を、家を出るとき持ち出さなかった。それを生まれて初めて切らせたことでたぶんそうなったと思った。なぜ薬を打ち続けなければならなかったか、自分の病気のことを一つも教えてくれなかったカトレアへの反発も、エイルを家出に駆り立てた鬱積の一つだった。確か十歳の誕生日の日にこれからはずっと服用するように、理由もなく渡されたものだった。意識を失う寸前、目の前にインプランタと薬の入った使い古した巾着が差し出された。病院から退院したばかりのアンが、中腰で心配そうな視線を向けていた。

「退院で病院までお母さんと一緒に迎えにきてくれたおばさんから、涙ながらに聞いたんだよぉ。どこを探してもエイルが見つからない。アンちゃんならエイルが行きそうな場所、知ってるだろうってぇ」

 あの時、混濁する意識で浮んだ母の顔。アンに連れられ家に戻ったエイルを、カトレアは無表情かつ無言で迎えたのだった。

「そう……ごめん」

「エイルはいつもぉそうやって謝るぅ」

 潤んだ瞳を見られないように、エイルは車窓の方を見つめたままにした。

 母がキベルに入ることを喜び、自分も母から離れたいと思っている。このドームは空から降ってくる悪魔から人間を守っているのではなく、人間が生み出す不満や不安を溜め込み一杯一杯に膨らんでいる。もう針でちょっとでもつついたら割れそうなくらい。

 母がエイルに向ける些細な小言に始まり、唯一神をただ信じ縋る人々の思念、強制避難させられた人の怨嗟の言葉、各地域間の小競り合い、高官たちの権力争い。まもなくこのドームはその内圧に耐えられなくなり崩壊するだろう。

 ――わたし、ドームの外に出たい。

 自分でも言い表しようのない感情が、血液の流れにのって体中を巡った。時折自分で自分のことがわからなくなる。そんなエイルを、いつも気にかけてくれるアンは一番の友達。

「でも、あの時同じようにアンコが来てくれなかったら、死んでたかも。ありがとう」

「……あたし、エイルを守りたぁい」

 一瞬間を置いて、アンがエイルの右腕に寄り添い身を寄せてきた。腕を挟みこむように、ふくよかな二つの果実が感じられる。自分にはないその柔らかい暖かさが、あたかも全身を包んでくれるかのようだ。肩下まで伸びた髪から放たれたシトラスの芳香が鼻孔をくすぐる。車窓に映るアンが目をつむるのがわかる。振り返ると、アンの顔の中で可憐に一輪の紅色の花が蕾んでいる。

 ここよ、ここに来てと、せがむ。

 そこにエイルが唇を寄せると、アンの身体から徐々に力が抜けた。鋭敏な細胞同士の接触。アンが口に含んでいた飴の柑橘系の甘味がゆっくり進入してくる。だが、エイルはなおもその間に残された薄い膜が、オブラートになってはさまっているように感じていた。    

 ――アンは一番の友達だから。

 リニアが地下トンネルを抜け、車窓から光が差し込みエイルは唇を離した。

「……結婚するって……ずっとこんな感じになれるのかなぁ」

 窓の外に顔を向けアンのその告白じみた独り言を、エイルは聞こえないふりをした。何かやってはいけない禁忌を、破ってしまってなかったことにしたい。トンネルを出てリニアが速度を上げた。

 ――結婚って……。

 エイルは自分のちいさい胸に手を当てた。

リニアはあっという間に市街地を抜けると高架を上り、国立公園を迂回するように進路をとった。この時間はアルカナによると晴れの予定で、人工太陽がその一帯だけをスポットライトのように明るく暖かくしていた。それに向って右腕を突き上げるアイン・ソフ神の彫像の背中が視界に入ってきた。

 アンはエイルに寄り添って静かに目を閉じていた。アンの好きという感情に、応じ続けることがどれだけの忍耐と我慢が必要であるかをエイルは知っていた。カトレアがエイルにぶつける感情と、いつしかそれは同じになるのだろうか。アンは心も身体も寄り添い鎖のように繋がろうとしていた。

 ――それは友達じゃない……この身体じゃない。

 ――わたしは何を頼って生きていけばいいのか。

 ――この雲を、この天蓋を取り払ってくれるものは……誰?

 幼き日からカトレアが口にするアイン・ソフへの言葉が何なのエイルは知りたかった。エイルはかなたに見え始めたアイン・ソフ神の彫像に思いを馳せた。そしてそのはるか向こうのドームの外へ視線を送った。

 ――そこにいるのは誰? わたし知りたい。

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